かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

コンサート雑感:マヨラ・カナームス東京第10回定期演奏会を聴いて

コンサート雑感、今回は令和5(2023)年11月18日に聴きに行きました、マヨラ・カナームス東京の第10回定期演奏会を取り上げます。

マヨラ・カナームス東京、初めてその名を聞く方もいらっしゃるかもしれません。私も初めて聴きに行った団体です。あまり調べすに聴きに行ったのですが、この団体、ただモノではありませんでした・・・

majoracanamus.com

いやあ、古楽だったのです!アマチュア古楽団体って・・・・・実は同日で、いつも聴きに行っているセタガヤ・クオドリベットさんとバッティング。悩んだ末、マヨラ・カナームス東京を選びました。その理由は、プログラムがモーツァルトメサイアK572だったから、です。

ykanchan.hatenablog.com

上記エントリでご紹介したCDの他に、実演も実は以前聴きに行っています。それが、中央大学混声合唱団創立60周年記念演奏会です。まだ白石先生ご存命の時代・・・

ykanchan.hatenablog.com

私のようにかなり際物好きじゃないとなかなか興味を示さないプログラムだと思います。それほど珍しいものなんですが、しかし、当日は多くの方が詰めかけていました。ロケーションは杉並公会堂大ホール。席が制限されていたので空いている席もありましたが、解放された席はほとんど埋まっていました。知っている人はこの作品の価値を知っているんだなあと思うと同時に、そもそもマヨラ・カナームス東京がヘンデルメサイアを演奏することを主眼に設立されたということで、長く足を運んでいる人が多いのだろうと想像します。実はこの翌日にもとあるコンサートに足を運んでいますが、どちらもコアなファンがついているという印象です。

それにしても、アマチュア古楽?あまりよくないんじゃないの?と心配になる方もいらっしゃるかもしれませんが、その不安を吹き飛ばすような、素晴らしい演奏でした。まず、私が持っているCDとは違い、最初にヴェルギリウスの言葉が読み上げられます。これをしている演奏は私が持っているCDのなかでは。BCJだけです。この一例だけでも、マヨラ・カナームス東京がいかに気合の入った団体かわかろうものです。プログラムを見た途端、私はとんでもない団体を聴きに来ているのだと理解しました。

その団体が、ある意味モーツァルトの編曲であるメサイアを演奏する・・・当然、モーツァルトへのリスペクトがなければ成立しません。演奏前からワクワクが止まりません。

古楽で聴きますと、まさにこのK572の特徴がはっきりと浮かび上がります。上記リリンク指揮シュツットガルト・バッハ合奏団他のCDを取り上げた時にも触れていますが、音楽的にはヘンデルですが、しかしモーツァルトは古典派の作曲家であり、かつ成立した時代はすでにベートーヴェンも活躍を始めていた時代ということを考慮しますと、やはり和声は古典派なんです。木管楽器の使用や和声など、古典派の知見が詰まった編曲になっているわけなんです。この編曲がモーツァルトの「レクイエム」を成立させましたし、ベートーヴェンが第九を成立させる元にもなっているはずです、資料は残っていませんが・・・しかし、二重フーガの見事さを鑑みれば、モーツァルトが対位法をどのように処理したかを参考にしていなければ無理だと思います。

勿論、これをわからせるためには、レベルの高い演奏が必要で、まさにマヨラ・カナームス東京さんは見事な高いレベルの演奏をたたき出したのです!オーケストラはオルケストル・アヴァン=ギャルド。一緒に活動しているそうですが、この名前からもその気合の入りようがわかろうもの。いやあ、この団体でベートーヴェンの第九が聴きたい!と思ったのは私だけではないと思います(実際過去に演奏しているそうです。行きたかったなあ)。モーツァルトは歌詞はドイツ語ですが、これはそもそもヘンデルの英語の歌詞をドイツ語に翻訳したもの。その翻訳のすばらしさも今回改めて感じました。韻をしっかり踏むなど、実に工夫して編曲されています。そのうえで、なるべく原曲のリズムに合ように翻訳されています。スヴィーデン伯爵のサロンに集う人たちのレベルと志の高さを感じあるを得ません。それも見事に演奏で示しているのです(この点に気づいていた若い人たちが来ていたのも、この団体のファン層のレベルの高さを感じます。おそらく音大の人たちでは?)。

そのドイツ語も口語体だったのも好印象。スヴィーデン伯爵がなぜモーツァルトメサイアを編曲してほしかったのか。そもそもヘンデルという、当時ではすでに古い様式の作曲家の作品を取り上げて、編曲してほしかったのか。それは、明らかにスヴィーデン伯爵が未来を見据えた人だったことがわかるかと思います。日本語で言えば、温故知新。この一言に集約されると考えて差し支えないでしょう。そしてそれは、私の考えでは明らかにベートーヴェンの第九につながっていますし、後期ロマン派の時代に、ドビュッシーがフランス・バロックを研究して新しい和声を登場させたことにもつながっているのです。その意味でも、スヴィーデン伯爵とモーツァルトがこの「メサイア」で果たした役割は偉大であると言えましょう。そこへのリスペクトにあふれた演奏です。力強くかつ軽い合唱は、なんとホールを満たすほど!音に包まれるなんてものではなく、まさに音の中に私がいるという感じです。その音響により私自身の魂が揺り動かされる。この感覚が、アマチュアで経験出来ようとは!

そして、ソリストも実力派ぞろい。特にソプラノの中江早希さんの美しく力強い歌唱は、聴いていて本当にうっとり。その職人たちを指揮するのは、渡辺祐介氏。団が招へいしたそうなのですが、そうなると単なるアマチュアではなく、セミプロと考えるほうが適切かもしれません。あるいはそもそもプロなんだけれども、アマチュアとしてヘンデルメサイアが歌いたいということで結成されたかのどちらかでしょう。それだと、レベルの高さは納得です。そもそもアマチュアというのは、他に仕事をしているけれども音楽を楽しみたいから結成されているわけで、その仕事がサラリーマンか専門職かの違いであって、その専門職というのがたまたま音楽家である、というだけということもあるはずなので。例えば、学校の音楽の先生は、大抵音大出です。そんな人たちが集まれば、レベルの高い演奏になってもなんら不思議ではないわけです。

渡辺氏自身の解釈も、声楽に合わせたフレージングを大切にする印象がありました。テンポが速めであっても、どこかで息継ぎを考えているような感じ。これも好印象で、優れた指揮者だと感じました。さすが団が招へいするだけあるなあと思います。そもそも、オーケストラが最初にあるのではなく、あくまでも合唱団が最初にあって、そこにオーケストラがつくという形なので、当然ではありますが、その理念を理解している指揮者だと言えましょう。だからこその、レベルの高い演奏につながっているとも言えます。

今、リリンク指揮シュツットガルト・バッハ合奏団他の演奏するCD(これはモダンですが)を聴きながら原稿を書いていますが、正直、そのCDを凌駕する演奏が誕生したと言っていいです。その点では、常に私が申し上げている、海外オケを賛美する時代は終わったと感じます。勿論、海外オケの演奏は素晴らしいのですが、しかし国内にも素晴らしい団体がありますよ、ということです。しかも、マヨラ・カナームス東京さんはアマチュアという立場なのでチケット代も安いですし(今回は3000円でした)。高いお金を出して残念に思うくらいなら、国内団体に目を向けてみれば?という想いはずっと持っています。

そしていま思い出されるのは、大学時代に所属した古美術研究サークルで、たしか東京国立文化財研究所の方だったと思いますが、その方を招聘して会合を持った時に言われた言葉です。「仏教美術は、日本文化における基礎である。仏教建築は明らかに、その後の城郭建築などに確実に受け継がれている」。これはそのままクラシック音楽におけるバロック音楽、あるいはスヴィーデン伯爵とモーツァルトが果たした役割に相当するものです。この言葉が持つ意味をはっきりと思い起こさせてくれた、素晴らしい演奏でした。

 


聴きに行ったコンサート
マヨラ・カナームス東京第10回定期演奏会
ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト作曲
メサイアK572(ヘンデルの作品の編曲)
中江早希(ソプラノ)
湯川亜也子(アルト)
中嶋克彦(テノール
氷見健一郎(バス)
渡辺祐介指揮
オルケストル・アヴァン=ギャルド
マヨラ・カナームス東京

令和5(2023)年11月18日、東京、杉並、杉並公会堂大ホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:クレンペラーとフィルハーモニア管弦楽団によるモーツァルト交響曲集1

東京の図書館から、今回から3回に渡りまして、小金井市立図書館のライブラリである、オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルト交響曲集を取り上げます。

このアルバム集は、クレンペラーフィルハーモニア管弦楽団がステレオ初期である1950年代~60年代にかけて収録したものです。今回取り上げるのも、1956年と1960年の録音です。その割には、音がクリアなのはさすがだと思います。確か、EMIだったと思います。

ちなみに、本来は今回取り上げるものは第2集なのですが、第1回目となりました。ご了承ください。

今回もPCでTuneBrowserでリサンプリングして聴いていますが、演奏のすばらしさは折り紙付きです。が、ちょっと気になる点がありました。名演の誉高いこの演奏のどこが問題なの?と私よりも年代が高い方はおっしゃるかもしれません。ですが・・・・・

今回収録されているのは、交響曲第25番、第38番、第39番の3曲です。第38番と第39番は全くそん色ない、さすがクレンペラーフィルハーモニア管弦楽団という演奏なのですが、第25番の第1楽章で違和感を持ちました。第1主題のリフレインが弱くなっていないのです。あれ?と思いました。

しかも、最初音量が少し大きかったこともあり、耳障りに聴こえた印象があったのです。クレンペラーでこんなことは初めてでした。クレンペラーが譜読みが浅いわけではないので、何か理由があるはずだ、と。

古典派の時代の規則では、楽譜に何も指示がなくても、リフレインは弱く演奏するのが常です。実際、第25番第2楽章から第39番の第4楽章に至るまで、クレンペラーフィルハーモニア管弦楽団はリフレインは弱く演奏しています。しかし第25番第1楽章第1主題だけは、異なるのです。となれば、それには理由がなければおかしいのです。

交響曲第25番は、ある意味モーツァルトが父レオポルトをはじめ周りとの関係が悪くなっている時に作曲された作品で、短調です。モーツァルト短調を作曲するとき、自分の気持ちや意志が反映されていることが多いと指摘されています。となると、クレンペラーはその研究結果を、解釈に反映させたと考えるのが自然でしょう。

そのため、あえて下手すれば不快に思うことをいとわず、リフレインさせずに演奏させたと考えられます。そのうえで、リフレインの後の小節では弱く演奏させています。そこにクレンペラーモーツァルトの気持ちが詰まっている、と考え、オーケストラに要求したのでしょう。私自身、2回目に比較的音量を抑えて聴いて初めて、クレンペラーが意図したことがわかったような気がしました。

実はこのアルバム集は、当時FBFだった人がクレンペラーが大好きで、ならば借りてみようと思い借りてきたものなのですが、おそらくこのリフレインを小さくしないことの理由がわからずに、クレンペラーというネームヴァリューで素晴らしいと判断していたのでは?と考えています。しかし、実際はクレンペラーは実に深い譜読みをしたうえで、あえて規則を破っているわけです。このクレンペラーの「問いかけ」に応えられずに、カラヤンを批判するとはなあと、いまさらながらあきれています。

それがわかったうえで、私はやはりクレンペラーは巨匠である、と感じます。そしてその深い譜読みに応えるフィルハーモニー管弦楽団。これがプロの仕事だと思います。オーケストラの団員も一人の素晴らしい芸術家であり、職人です。指揮者は時としてその職人たちとぶつかる仕事です。しかしクレンペラーは絶対の自信をもって、団員を説得したことでしょう。その結果が演奏に現われていると考えていいでしょう。そうじゃないと、あからさまに規則を破る演奏ができ、かつ生き生きとした演奏になるはずがありません。

私は、少なくとも指揮者讃美の原理主義にはなりたくないなあと思いますし、クレンペラーの演奏はその想いを新たにさせてもらえます。

 


聴いている音源
ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト作曲
交響曲第25番ト短調K.183
交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ
交響曲第39番変ホ長調K.543
オットー・クレンペラー指揮
フィルハーモニア管弦楽団

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東京の図書館から~府中市立図書館~:ショスタコーヴィチとプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲集

東京の図書館から、今回は府中市立図書館のライブラリである、ショスタコーヴィチプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲集を取り上げます。

ショスタコーヴィチプロコフィエフ。どちらも旧ソ連の作曲家ですが、出身がともにサンクトペテルブルク音楽院ということで共通しています。活動した時代も重なっており、その点で二つ収録されたと考えていいでしょう。そして、このアルバムでは、ショスタコーヴィチのは第1番が、プロコフィエフのは第2番が収録され、誰かのヴァイオリン協奏曲全集と見まごうアルバムです。この点からも、編集者がこの二人の関係を聴き比べるという視点があると考えていいでしょう。

ですが、二人の生涯を比べた時、細かい点では異なる点も多いうえ、プロコフィエフが決してソ連当局と仲が良くなかったわけではない一方、ショスタコーヴィチは当局の顔いろを見ながら創作したという点が決定的に異なるかと思います。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

ですが、二人とも不協和音を使ったロシア的な作品を創作したという点では、共通したものを持っています。このアルバムを聴きますと、意外にも同じ作曲家かも?と思ってしまうような和声が共通して聴きとれる部分があるのに驚いてしまいます。亡命したけれど望郷の思いが強く帰国したプロコフィエフ、亡命したかったけれどできずにとどまったショスタコーヴィチ。結果的に二人とも生涯最後は祖国で過ごしたことは共通しています。それだけ愛国者でもあった、ということになります。けれども、ではボリシェビキに対して融合的だったかといえば必ずしもそうではないという。複雑さもあるのも共通しています。プロコフィエフは1人目の妻と離婚すると金は権力を利用していますので、ショスタコーヴィチよりは当局との関係性は悪くなかったと言えるでしょう。とはいえ、全面的に信用していたかと言えば・・・・・疑問符が付くように思います。

その点で、ショスタコーヴィチプロコフィエフの二人は。同じ方向を向いていた、ともいえるのかもしれません。市民と権力、芸術と当局、その二つの関係性を、聴いているとどうしても考えてしまいます。それは作品と紡ぎ出した作曲家が、似た境遇を持っていたとすれば、腑に落ちるように感じるのです。

演奏は、ヴァイオリンがワディム・レーピン。ロシアの著名なヴァイオリニストです。今どうしているのでしょうか・・・・・ロシアのウクライナ侵攻以後、消息が入らないのでわかりません。この演奏では、二人の作曲家の心のうちを、哀愁のあるヴァイオリンで絶妙に表現しているように感じますが・・・・・サポートするのは、ケント・ナガノ指揮ハレ管弦楽団。この組み合わせを見ると、二人の作曲家の心のうちに切り込んだ演奏をめざしたことが明らかだと思います。こういう演奏が、ショスタコーヴィチプロコフィエフの作品で表現される日が果たして来るのでしょうか・・・・・芸術こそ、平和を維持する装置だと感じるのは私だけなのでしょうか。

 


聴いている音源
ドミトリー・ショスタコーヴィチ作曲
ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調作品99
セルゲイ・プロコフィエフ作曲
ヴァイオリン協奏曲第2番ト短調作品63
ワディム・レーピン(ヴァイオリン)
ケント・ナガノ指揮
ハレ管弦楽団

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今月のお買いもの:浜松市楽器博物館 コレクションシリーズ58 ベートーヴェンBEST

今月のお買いもの、令和5(2023)年9月に購入したものをご紹介します。浜松市楽器博物館で購入した、ベートーヴェンBESTです。

先日、浜松市楽器博物館へ行ったエントリを立てましたが・・・・・

ykanchan.hatenablog.com

その中で、ピアノの形式の違いを写真に収めていたのを覚えておいででしょうか?上記エントリに掲載されている写真の8枚目です。一応、再掲しておきましょう。こんな感じです。

 

 

実は、この違いはベートーヴェンの創作に多大な影響を与えているんです。その実演とも言うべきCDが、今回買い求めたものになります。実際は浜松市楽器博物館がすでに出版しているCDからの抜粋なのですが。

え?浜松市楽器博物館がCDを出版しているんですかって?そうなんです。かつては銀座山野楽器でも取り扱いがあったほどの有名なシリーズなんです。バッハのチェンバロ曲の取り扱いもあって、実は狙っていたのですがそもそも現在銀座山野楽器がCD売り場を縮小し、浜松市楽器博物館のシリーズの取り扱いもやめてしまっていますので、現地に行くか通販を使うかしないと購入できません。そのため、今回現地で購入した、ということになります。そして、せっかくピアノの構造を写してきたのだから、それにまつわるCDがいいなと思い、この抜粋にしたというわけでした。本当はバッハのチェンバロのが欲しかったのですが、どうやら店頭には無いようでした・・・

そもそも、博物館にはいくつか役割があります。ここで文化庁のサイトに記述されているものを見てみましょう。

「博物館は,資料収集・保存,調査研究,展示,教育普及といった活動を一体的に行う施設であり,実物資料を通じて人々の学習活動を支援する施設としても,重要な役割を果たしています。」

www.bunka.go.jp

では、このCDが何に当たるのかと言えば、教育普及という活動になります。博物館はそのために展覧会の図録や刊行物の発行をするのですが、このCDはまさに刊行物という扱いになるのです。しかも、浜松市楽器博物館にはアクトシティ浜松が併設されており、ホールがあります。となれば、演奏を収録し、それを刊行物として出版することも亦可能である、ということなのです。私も、大学時代川崎市市民ミュージアムで実習をしましたが、やはりこの博物館の役割は大事ですし、学習したのも懐かしいです。

収録されているのはどれもベートーヴェンを代表するピアノ作品ばかりなのですが、もちろん普通のピアノではありません。博物館所蔵の、ウィーン式あるいはイギリス式の、フォルテピアノ、ということになります。伴奏する独奏楽器も、ピリオドです。なので聴いているとモダンと比べますとピッチが異なります。しかし基本的に、ベートーヴェンがまだ聴覚が生きていた時には似た響きを聴いていたのだなと、はっきりします。

このアルバムには4つのフォルテピアノが使用されており、ブロードウッド、フリッツ、ワルター&サン、シュトライヒャーの4つです。特にこのうちブロードウッドとシュトライヒャーはベートーヴェンピアノ曲を語る上で大切な楽器で、ブックレットには、はっきりとブロードウッドがベートーヴェンに「ワルトシュタイン」を書かせたとの記述があります。さすが「ハンマークラヴィーア」で「未来の人は弾けるようになる」と語った逸話が残っているだけあります。ベートーヴェン以降のピアノ曲作曲家たちは、ほぼ全員がピアノという楽器の進歩を日夜感じ、その結果を作品に反映させていったと言えるでしょう。

一方で、古い技術であってもその限界に挑戦する姿も、このアルバムからは見て取れます。ワルター&サンをこのアルバムではヴァイオリン・ソナタ「春」とピアノ・ソナタ「月光」の収録で使っていますが、ウィーン式なので技術的にはイギリス式よりは劣るため、「春」では多少古臭い部分もありますが、しかし「月光」だと途端に激しく内面をえぐるような作品になっています。同じ楽器を使った演奏でおそらくその楽器に適して作曲されたはずなのに、この差は考えさせられます。それだけ、ベートーヴェンは一人のピアニストとして、ピアノの技術革新を信じ興味を持っていたと考えられるでしょう。実際、ここに収録された曲の大部分は、ワルター&サンのフォルテピアノで演奏されています。ですがベートーヴェンがそこにとどまろうとしたのではなく、新しい技術があればそれを試し、一方で古い技術のものでもそのポテンシャルを最大限引き出そうとして芸術作品を紡ぎ出していった姿が、明確に聴きとることが出来ます。

その経緯を演奏で確認したくて、わざとこの抜粋盤を買ったのです。おかげでベートーヴェンのピアノ作品がどのような楽器を背景に作られ、その魂がどこにあるのかが明確に演奏でわかる、素晴らしいものでした、演奏のレベルも高く、思わずのってしまったり、あるいは感情移入をしてしまったりします。特にピアノを弾いている小倉貴久子女史は解説文も書かれていますが、生命力あふれる演奏です。日本には優れた演奏家たちがいくらでもいることを、明確に示しているという点でも、優れたアルバムだと言えます。

実は、このCDは開館25周年記念企画展「知られざるベートーヴェン」を記念したものです。たとえば、奈良国立博物館正倉院展で言えば図録のようなものです。しかし素晴らしいのは、そのために必要な演奏がすでに博物館刊行物として存在すること、です。このアルバムはその刊行物から集めてきただけなんですから。海外アーティストのCDを買うのもいいですが、せっかくハイレゾやストリーミングの時代にCDを買うなら、このような、演奏でも優れているうえに学術的に意味のあるものを買うほうが、我が国の文化をもっと花開かせるように思うのは、私だけなんでしょうか。私自身、さらにしっかりと全曲が収録されたCDが欲しくなりました。いや、もう棚いっぱいですが・・・・・どーしよー

 


聴いているCD
浜松市楽器博物館 コレクションシリーズ58
開館25周年記念企画展「知られざるベートーヴェン」記念
ベートーヴェンBEST
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
ピアノ・ソナタ第21番ハ長調作品53「ワルトシュタイン」第1楽章
ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調作品24「春」第1楽章
ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調作品27-2「月光」
チェロ・ソナタイ長調作品69第3楽章
ホルン・ソナタヘ長調作品17第1楽章
創作主題「トルコ行進曲」の主題による6つの変奏曲作品76
ピアノ協奏曲第4番ト短調作品58 原典資料に基づく室内楽稿H.W.キューテン編第3楽章
エリーゼのために イ短調WoO.59
小倉貴久子(ピアノ)
桐山建志(ヴァイオリン)
花崎薫(チェロ)
塚田聡(ナチュラルホルン)
高木聡(ヴァイオリン)
藤村政芳(ヴィオラ
長岡聡季(ヴィオラ

(コジマ録音 LMCD-2107)

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東京の図書館から~府中市立図書館~:リゲティ 管弦楽作品集

東京の図書館から、今回は府中市立図書館のライブラリである、リゲティ管弦楽作品集を取り上げます。

リゲティは当ブログでも幾度か出てきている作曲家です。ハンガリー生まれでオーストリアで活躍したユダヤ人です。その出自と時代による経験が、リゲティの音楽には色濃く反映されているように私は思います。

ja.wikipedia.org

このアルバムに収録された作品は、どれもリゲティ亡命後の作品。そしてトーン・クラスターが使用されている作品たちです。そのため、音の波状攻撃という印象を受けます。二つの協奏曲も正直古典的な協奏曲とはいいがたい作品です。少なくともこのアルバムに収録されている協奏曲は、単にオーケストラと独奏楽器が並立するという様式になっています。特に「フルート、オーボエ管弦楽のための二重協奏曲」はいきなり独奏楽器が出たうえでカデンツァも聴きとりにくい作品で、ともすればバロックの合奏協奏曲をトーン・クラスターで表現したような作品になっています。「室内協奏曲」はまさにリゲティ流の合奏協奏曲だと言えるでしょう。

ja.wikipedia.org

さらに「管弦楽五重奏のための10の小品」は楽器の並列の印象が強く、様式という印象は薄いです。それはある意味、ベートーヴェンが確立した「楽器同士、独奏楽器とオーケストラの対等性」の極致とも言えましょう。そのうえで、一つ一つが混然一体となって音楽を作り上げていくという感じです。それはそれで「様式」と言っていいのだと思います。

その「様式」と和声が紡ぎだすものは、リゲティが経験した人生に基づく、人間の内面なのかもしれないと私は感じます。アルバムの編成も、ソリストが集まったもの、そして室内アンサンブルと小さなもの。ですが音楽は壮麗で、宇宙が鳴っているような感覚さえあります。何かが鳴いているのか?と思うと等間隔で音が鳴っており違う印象を受けます。音がせわしなく感じたと思えば、一転静寂が訪れたり。実に複雑ですが、一方では壮麗な世界が広がっています。

単に悲劇を和声的に描くのではなく、人間の魂の深淵に迫っていくような音楽。東洋的に言えば草庵で沈思黙考するような。座禅をしてどこか自分が浮遊している感覚すら覚えます。ある意味、ジャポニズムから始まった東洋への興味が、西洋音楽というフィルターで漉され、音楽としてそこにあることになったと言えなくもないのでは?と思います。

リゲティの人生は、到底普通の人では経験し得ないほど激烈なものだったと言えるでしょう。ユダヤ人として生まれたがために迫害を受け家族も亡くし、生き残ってもさらに大国に踏みつぶされ、当局ににらまれる・・・・・単に悲しむというよりは、その経験からどこか斜に構えていたと、音楽から私は受け取っています。それゆえに音楽はわかりにくくなってもいますが、リゲティの人生を知ると、その音楽が意味することが、少しずつ分かってくるように思うのです。

それはある意味、リゲティの処世術だったのかもしれません。勿論自分の表現を貫き通したことは事実ですが、かといってあからさまに戦うと周りとの関係がおかしくなります。如何にすれば自身の魂に平和が訪れ、自身を貫き通せるのかに、心血を注いだ人だったと、音楽からは感じます。演奏者たちも、どこかそのリゲティの生きざまとその結果生み出された芸術に共感している印象を受けます。トーン・クラスターなのでともすれば人間臭さが感じられないんですが、この演奏にはどこか人間臭さというか。温かみを感じるのです。そこに、演奏者たちの意志を感じるのです。現代音楽はこのように聴くのか!と自分自身が驚くとともに、見開かされる演奏です。

 


聞いている音源
ジョルジーリゲティ作曲
管弦楽のためのメロディー(1971)
フルート、オーボエ管弦楽のための二重協奏曲(1972)
13人の奏者のための室内協奏曲(1969/70)
管弦楽五重奏のための10の小品
オーレル・ニコレ(フルート)
ハインツ・ホリガーオーボエ
ウィーン管楽ソロイスツ(10の小品)
 ヴォルフガング・シュルツ(フルート)
 ゲルハルト・トゥレチェク(オーボエ
 ペーター・シュミ―ドル(クラリネット
 フォルカー・アルトマン(ホルン)
 フリッツ・フォルトル(バスーン
デイヴィッド・アサ―トン指揮
ロンドン・シンフォニエッタ

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東京の図書館から~府中市立図書館~:東京クァルテットによるベートーヴェン弦楽四重奏曲集6

東京の図書館から、6回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、東京クァルテットによるベートーヴェン弦楽四重奏曲集、今回はその第6回目となりました。第15番と第16番が収録されています。

交響曲第9番よりも遅く作曲された作品132と135である弦楽四重奏曲第15番と第16番。ベートーヴェン晩年の幾分落ち着いた感すらある2つの曲ですが、第15番では第1楽章に激しさもあります。そんなベートーヴェンの人生を反映したかのように、時に激しく、時に安らかに、あるいは諧謔的に演奏する東京クァルテット。楽聖として神格化するのではなく、一人の人間として捉える姿勢は高評価です。その解釈こそ、東京クァルテットのメンバーがなぜ帰国せずにアメリカに根を下ろし本拠として活動したのかが見えてくるように思うのは私だけなのでしょうか?

いまだに、日本ではベートーヴェンを神格化する人が、私の年代以上の方には多い気がします。え?いくつなんだって?それは・・・・・ナイショです。まあ、察してくださいませ。youtuberカコ鉄さんのように永遠のハタチ・・・というのはいかにも苦しいですが。

とにかく、ベートーヴェンを神格化したがるんです、日本人は。しかしベートーヴェンも甥のカールに対してはかなりやらかしてますし・・・まことに人間臭いです。この21世紀に生きていたなら確実に芸能誌にすっぱ抜かれることは確実にしています(そしてベートーヴェンはその結果を引き受けてもいます)。その生活、あるいは人生の中で、感じたこと、思っていることを、古典派の様式美の中で最大限表現したのがベートーヴェンでした。その音楽に触れ、さらにモーツァルトの快活さも取り入れて、自らの表現を追及していった時代がロマン派です。いうなれば、モーツァルトベートーヴェンという二人がいなければ、ロマン派という音楽運動は成立し得なかったと言えます。この二人、ほんとうにいろんなことをやらかしていますから・・・でも、だからこそ憎めない面もあるわけです。そして普遍的な芸術を生み出しました。その芸術はいまだ21世紀におけるあらゆる音楽ジャンルに影響を与えています。

アメリカという、個人を大切にする社会だからこそ、人間ベートーヴェンという視点に触れることができ、自らの芸術を存分に表現できる場があった・・・そうとしか、アメリカを本拠とした理由は見当たりません。勿論、人間の関係性もあったでしょうが(小澤征爾とか)、それだけでアメリカを本拠とすることは、実際に演奏をする職人だからこそ理由にならないと思います。まずは実力が伴わなければなりません。そのうえで自らが納得して活動できる環境があるかどうか。そこが重要だったのでは?と思います。

そんなアメリカ社会だからこそ、人間ベートーヴェンを表現できる環境だったとすれば、東京クァルテットのメンバーがアメリカを本拠とした理由は、何となく想像できるのですよね。現在の日本社会を見るにつけ、いまだに東京クァルテットの演奏は光り輝いていると感じます。確かに日本人の演奏レベルは上がりましたし、海外アーティストに一喜一憂する必要もないと思いますが、しかしその芸術家たちを受け入れる私たちが真に受け入れる用意が出来ているのか・・・・・私自身、考え込んでしまうのです。いまだに強烈なメッセージを持った名演です。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
弦楽四重奏曲第15番イ短調作品132
弦楽四重奏曲第16番ヘ長調作品135
東京クァルテット
 ピーター・ウンジャン(第1ヴァイオリン)
 池田菊衛(第2ヴァイオリン)
 磯村和英(ヴィオラ
 原田禎夫(チェロ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

コンサート雑感:ムシカ・ポエティカ2023「レクイエム集い」~魂の慰めのために~を聴いて

コンサート雑感、今回は令和5(2023)年11月6日に聴きに行きました、ムシカ・ポエティカ2023「レクイエムの集い」~魂の慰めのために~のレビューです。

ムシカ・ポエティカは、主にハインリッヒ・シュッツの合唱曲を研究し表現するハインリッヒ・シュッツ合唱団・東京を母体とする音楽集団です。

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シュッツ合唱団の他にいくつかの団体が存在しており、今回はもう一つの団体、メンデルスゾーン・コーアも参加しています。メンデルスゾーン・コーアはハインリッヒ・シュッツ合唱団・東京と同じく、メンデルスゾーンの作品を研究し発表する団体。今回はそのうち、ハインリッヒ・シュッツ合唱団・東京のメンバーの方からお誘いを受け、チケットを提供していただきました。この場を借りて御礼申し上げます。

私がこのお誘いを受けたのは、プログラムがメンデルスゾーンの「エリア」だったからです。この時期に「エリア」とは!しかも、ロケーションは府中の森芸術劇場ウィーン・ホール。私も幾度か足を運んでいるホールですし、またこのホールがどのような場所に立っているかも、この演奏会に足を運んだ理由です。かつてホールのあった場所は、旧日本軍の施設があり、そのため戦後米軍に接収されます。今でもそのあとが残っており、私はかつてその敷地のすぐわきで仕事をしておりました。返還後、一部がそれぞれ府中の森公園府中の森芸術劇場)と、航空自衛隊府中基地、そして防衛省の住宅になりました。調布飛行場はかつては陸軍航空隊の基地でしたし、付近には航空機を空襲から隠ぺいする掩体壕もいくつか残されています。そんな場所で、今イスラエルハマスの間で戦闘が起こっているというタイミングで、メンデルスゾーンの「エリア」。これはぜひとも行きたい!と思い団員の方に問い合わせましたら、ご招待しますとのこと。本当にありがたいことです。

エリアとは、旧約聖書に登場する預言者「エリア」を題材にしたオラトリオです。かつて、私もエントリを上げています。

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このエントリで挙げた演奏は、NHK交響楽団第1000回定期公演。そして今年、NHK交響楽団の定期公演は2000回を迎えます。その節目の年に、かつてNHK交響楽団が取り上げた「エリア」を、民間団体が演奏するとは!その点でも、聴きに行きたいと思ったのでした。

エリアを担当するバスは、指揮者も務める淡野太郎氏。まるでペーター・シュライアー。エリアは歌い出しが預言者エリアのアリアですが、ちょっと緊張気味だったかな?と感じましたが、曲が進むにつれてヴォルテージが上がっていき、雄弁になります。それはそれで、人間の繊細な内面を表現したもののように聴こえました。NHK交響楽団の、サヴァリッシュ指揮とはことなり、力だけで押すことはありません。勿論、そのNHK交響楽団の演奏は素晴らしいですし、今でも私の一押しです。ですが今回の演奏も本当に素晴らしく、登場人物一人一人の感情が表現され、ドラマティックです。ウィーン・ホールにはパイプオルガンが設置され一段高くなっていますが、その高低差をうまく利用し、時にはソリストが上りアリアを歌ったりするのがドラマティックさに磨きをかけていました。今回はパイプオルガンも利用されており、特に第2部の「山に向かって目を上げ」は本当に美しい!エリアが扇動に惑わされて手のひらを返し自らの命を狙うようになった群衆から逃れ、荒れ野をさまよう中で天使が歌うその時に流れるパイプオルガン!まさに音が天井から降って、私を包み込みます。ともすれば苦しみの中にいる私も、まだまだ生きるのだ!と思わせてくれます。最後美しく終わり、その残響をすべての聴衆が味わい、終わったところで万来の拍手だったことも、演奏のすばらしさをものがたるものです。なんと喜びに満ちていることか!レクイエムと銘打たれ、プログラムには今年亡くなった方(その中には、作曲家西村朗氏も含まれています)の追悼もあるにも関わらず、です。

エリアの物語の根底には、ユダヤ教とバアル信仰との争いがありますので、ここでそれを語りますと一つエントリが出来てしまいますので割愛します。是非とも皆さんで調べていただきたいのですが、とても乱暴にまとめると、宗教の争いです。それは、現在起こっているイスラエルハマスの争いととてもよく似ています。ですが、ユダヤ教イスラム教もともに一神教なんですよね。神道のように八百万の神ではないんです。それなのに争うというのは、どことなく悲しいです。ですが、こういった聖書に出て来る逸話が背景にあるのだということを知っておくのは大切だと思います。そして、エリアを一人の人間と見た時に、どの宗教であっても世俗と対峙する人はいますし、宗教家もいます。日本だと日蓮親鸞がそうですね。決して他の国や宗教のことではない、普遍的な事象を扱った作品なのだと気付かせてくれます。ということは、現在イスラエルハマスの間で起きている戦闘は、いつこの日本や周辺地域で起きても不思議はない、ということです。どんな国や地域で起こりえることだということです。戦争という形ではないかもしれませんが・・・

ムシカ・ポエティカさんがなぜ府中の森芸術劇場でやろうと決めたのかはわかりません。当日は大ホールであるどりーむホールではロックンローラー布袋寅泰がライヴをしていましたが、ある意味当日二人の「ロックンローラー」の作品が演奏されていた、ということになります。メンデルスゾーンロックンローラーと言わずしてなんでしょうか?ロマン派の時代にバッハやヘンデルの様式とも見まごう作品を、完全にロマン派の音楽で彩り、人間の性、宗教の闇を突き付けたのですから。そして当時、神聖化されつつあったベートーヴェンを超えて見せました。その作品を、ウクライナとロシアの戦争がいまだ継続し、イスラエルハマスの間で戦闘が起こっているというタイミングで、かつて陸軍の調布飛行場(特攻隊員もいたことでしょう)に関連する施設があった府中の森芸術劇場で行う・・・・・偶然とは思えないのです。このホールでやりたかったという想いが伝わってくるんです。そして、コンサートのテーマ「「レクイエム集い」~魂の慰めのために」という言葉が重なります。お互いを敵視せずに、しかし自らが信じるものを一念に信じる・・・・・これがどれほど難しいことなのか。境界線を引くことが、人間にとってどれだけ難しくしかし大切なことなのか。改めて考えさせられる演奏でした。この演奏で、ムシカ・ポエティカ傘下のハインリッヒ・シュッツ合唱団・東京の演奏も聞きたくなりました。確かに私はキリスト教徒ではありませんが、しかし他の宗教の音楽が自らを省みさせてくれるのであれば、それはぜひとも聴きに行きたいと想わせてくれました。

 


聴いてきたコンサート
ムシカ・ポエティカ2023「レクイエム集い」~魂の慰めのために~
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ作曲
オラトリオ「エリア」作品70
淡野桃子(ソプラノ、アリア)
笠恵里花(ソプラノ、寡婦
今村ゆかり(ソプラノ、少年)
谷地畝晶子(アルト、アリオーソ・王女イゼベル)
柴田圭子(アルト、天使)
依田卓(アルト)
石川洋人(テノール、宮廷長オバドヤ)
沼田臣矢(テノール、アハブ王・アリア)
青木海斗(バス)
小籐洋平(バス)
メンデルスゾーン・コーア
ハインリッヒ・シュッツ合唱団・東京
淡野太郎指揮、バリトン(エリア)
ユビキタス・バッハ

令和5(2023)年11月6日、東京府中、府中の森芸術劇場ウィーン・ホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。