かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:クレンペラーとフィルハーモニア管弦楽団によるモーツァルト交響曲集1

東京の図書館から、今回から3回に渡りまして、小金井市立図書館のライブラリである、オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルト交響曲集を取り上げます。

このアルバム集は、クレンペラーフィルハーモニア管弦楽団がステレオ初期である1950年代~60年代にかけて収録したものです。今回取り上げるのも、1956年と1960年の録音です。その割には、音がクリアなのはさすがだと思います。確か、EMIだったと思います。

ちなみに、本来は今回取り上げるものは第2集なのですが、第1回目となりました。ご了承ください。

今回もPCでTuneBrowserでリサンプリングして聴いていますが、演奏のすばらしさは折り紙付きです。が、ちょっと気になる点がありました。名演の誉高いこの演奏のどこが問題なの?と私よりも年代が高い方はおっしゃるかもしれません。ですが・・・・・

今回収録されているのは、交響曲第25番、第38番、第39番の3曲です。第38番と第39番は全くそん色ない、さすがクレンペラーフィルハーモニア管弦楽団という演奏なのですが、第25番の第1楽章で違和感を持ちました。第1主題のリフレインが弱くなっていないのです。あれ?と思いました。

しかも、最初音量が少し大きかったこともあり、耳障りに聴こえた印象があったのです。クレンペラーでこんなことは初めてでした。クレンペラーが譜読みが浅いわけではないので、何か理由があるはずだ、と。

古典派の時代の規則では、楽譜に何も指示がなくても、リフレインは弱く演奏するのが常です。実際、第25番第2楽章から第39番の第4楽章に至るまで、クレンペラーフィルハーモニア管弦楽団はリフレインは弱く演奏しています。しかし第25番第1楽章第1主題だけは、異なるのです。となれば、それには理由がなければおかしいのです。

交響曲第25番は、ある意味モーツァルトが父レオポルトをはじめ周りとの関係が悪くなっている時に作曲された作品で、短調です。モーツァルト短調を作曲するとき、自分の気持ちや意志が反映されていることが多いと指摘されています。となると、クレンペラーはその研究結果を、解釈に反映させたと考えるのが自然でしょう。

そのため、あえて下手すれば不快に思うことをいとわず、リフレインさせずに演奏させたと考えられます。そのうえで、リフレインの後の小節では弱く演奏させています。そこにクレンペラーモーツァルトの気持ちが詰まっている、と考え、オーケストラに要求したのでしょう。私自身、2回目に比較的音量を抑えて聴いて初めて、クレンペラーが意図したことがわかったような気がしました。

実はこのアルバム集は、当時FBFだった人がクレンペラーが大好きで、ならば借りてみようと思い借りてきたものなのですが、おそらくこのリフレインを小さくしないことの理由がわからずに、クレンペラーというネームヴァリューで素晴らしいと判断していたのでは?と考えています。しかし、実際はクレンペラーは実に深い譜読みをしたうえで、あえて規則を破っているわけです。このクレンペラーの「問いかけ」に応えられずに、カラヤンを批判するとはなあと、いまさらながらあきれています。

それがわかったうえで、私はやはりクレンペラーは巨匠である、と感じます。そしてその深い譜読みに応えるフィルハーモニー管弦楽団。これがプロの仕事だと思います。オーケストラの団員も一人の素晴らしい芸術家であり、職人です。指揮者は時としてその職人たちとぶつかる仕事です。しかしクレンペラーは絶対の自信をもって、団員を説得したことでしょう。その結果が演奏に現われていると考えていいでしょう。そうじゃないと、あからさまに規則を破る演奏ができ、かつ生き生きとした演奏になるはずがありません。

私は、少なくとも指揮者讃美の原理主義にはなりたくないなあと思いますし、クレンペラーの演奏はその想いを新たにさせてもらえます。

 


聴いている音源
ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト作曲
交響曲第25番ト短調K.183
交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ
交響曲第39番変ホ長調K.543
オットー・クレンペラー指揮
フィルハーモニア管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。