かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

コンサート雑感:カルペディエム・コレギウム・ムジクム2024を聴いて

コンサート雑感、今回は令和6(2024)年5月18日に聴きに行きました、カルペディエム・コレギウム・ムジクム2024を取り上げます。

カルペディエム・コレギウム・ムジクムは、正式には団体名ではなく、2月に聴きに行った第九を演奏したカルペディエムフィルハーモニーバロック音楽を演奏するときの一形態です。

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この団体が、バロック音楽を演奏したらどんなものになるのかが楽しみで、チケットを取りました。場所は、東急田園都市線青葉台駅前の横浜市青葉区民センターフィリアホール。実はここ、私自身も舞台に立った場所です。収容人数は500名ですが、それゆえに室内楽や室内オーケストラの演奏にはぴったりのホールです。山田和樹音楽監督を務める横浜シンフォニエッタもこのフィリアホールを拠点にしている団体です。

私が歌ったのは、モーツァルトの「戴冠ミサ」。しかも、貧乏合唱団だったので室内楽程度よりもさらに小さいアンサンブルででした。ゆえに、小さい編成であればあるほど、このホールは演奏しやすいことを知っています(とはいえ、横浜シンフォニエッタも演奏するホールなので交響曲もしっくりきます。私はPMF合唱団でベートーヴェンの第九を聴いています)。

今回は、バードとバッハ、そしてブクステフーデの作品が5つ演奏されました。

①バード 3声のミサ曲
②バッハ カンタータ第78番「イエスよ、汝わが魂よ」
③バッハ チェンバロ協奏曲第1番
④バッハ ブランデンブルク協奏曲第5番
⑤ブクステフーデ 我らがイエスの御体


え?こんなに演奏したら3時間以上かかるのでは?と思われるかもしれませんが、実はこのコンサートは2時間。実は、このコンサートは後から予定を入れたのですが、2時間だからこそ選択したのです。この後に、他のコンサートがすでに予定されていましたので・・・そっちのほうが先に予定を入れており、最優先にしたかったのもあります。

実は、この5つのうち、全曲演奏されたのはバッハのチェンバロ協奏曲第1番とブランデンブルク協奏曲第5番の二つだけ。あとは抜粋でした。ですので2時間で終わったということになります。結果的には10分オーバーでしたが・・・あとの予定が大変でしたが、まあ、もしかするととは思っていましたので、大丈夫でした。そっちについては、また別のエントリで。

さて、まず第1曲目のバード。3声のミサ曲はほんとうにシンプルな曲です。なのに演奏されたのはキリエとサンクトゥスの2曲。正直言えば、2曲では物足りかなったです。つまりは、それだけ素晴らしい演奏だったということになります。美しく力強く繊細な合唱は、第九を聴いた時にも感動しましたがここでも感動的。特にffとppの時の発声がしっかりしているのが素晴らしい!

次はバッハのカンタータ第78番。ここで管弦楽も入るのですが、気が付くと合唱でも見た顔が・・・なんと!この団体、管弦楽をしている人も歌っているのです!しかも、実はこのコンサート徹頭徹尾指揮者がいません。それでアンサンブルをしてしかもほころびが一切ありません。この第78番は全部で18人での演奏で、通奏低音であるチェンバロに合わす感じで演奏されているのです。まさにバッハの時代とほぼ同じスタイルなのです。これをアマチュアがやるのか!と。おそらくアマチュアと言っても音大生、あるいは音大出身ではないでしょうか。もうこの2曲だけでも鳥肌が立ちます。この2曲目も演奏されたのは第1曲目と第7曲目のコラール。第78番はいわゆる「コラール・カンタータ」なので、その構造を特徴づける2曲が選択されたということになります。

3曲目はバッハのチェンバロ協奏曲第1番ですが、本来ならそのままチェンバロをつかうところ、演奏者が交代して今度はピアノ。つまり、チェンバロ協奏曲ですがクラヴィーア協奏曲として演奏したのです。まだモダン演奏が主だった時代によく選択された編成ですが、それでも指揮者を置かずピアニストがオーケストラに合わす形で進んでいき、アンサンブルにほころびはなく、むしろ生命と魂が宿った生き生きとした演奏だったのも素晴らしい!これも17名での演奏です。

休憩をはさみ、第4曲目がバッハのブランデンブルク協奏曲第5番。古楽ではなくあくまでもモダンなのでピッチは聴きなれたものですが、しかしこれも指揮者無しで今度はチェンバロが入ります。そのうえでヴァイオリンとフルートがソロ。ヴァイオリンはさすがにアマチュアらしいやせた音もありますが、それでも生き生きとして安定したサウンドは、聴いていて魂の愉悦を感じます。本当にレベル高すぎです。面白かったのは、前半はヴァイオリンは対向配置だったのを、後半は近代的な配置に変えた点です。こういう試行錯誤もこの団体の面白いところです。しかしだからと言って前半と後半で差がついたかと言えば全く差はついておらず、いかに周りの音を聴いてアンサンブルしているかを証明してみせました。

そして最後の5曲目、ブクステフーデの「我がイエスの御体」。カンタータというよりはオラトリオと言うほうが正確でしょう。イエスの四肢をそれぞれ取り上げつつ、アリアと合唱、管弦楽で歌いあげる曲です。管弦楽が13名、合唱が18名。そしてソリスト5名の36名の当日最大の編成です。これを見ますと、バロック時代、どんな曲が最も重要視され多くの人数を必要としたかが一目瞭然です。基本的に、20世紀に至るまで、ヨーロッパのクラシック音楽はこの合唱を伴う曲こそ至高であるという路線から外れたことはありません。マーラー交響曲第8番も基本的にこの延長線上にあります。

それでいて、このブクステフーデでも、指揮者無し、チェンバロ通奏低音です。バロックという時代の演奏者たちのレベルの高さがうかがえます。そのうえで歴史の上で指揮者が誕生していることを、クラシックファンでも結構踏まえていない人が見受けられるのは残念に思います。オーケストラの演奏が悪いのはオーケストラがダメなのだ!という意見もかなりありますが、実際には指揮者のほうに問題があることが殆どです。特にプロオケにおいては、オーケストラ側に理由があることはほとんどないと断言しても差し支えないでしょう。アマチュアオーケストでは、当然オーケストラのレベルというものは問題になりますが、一定のレベルに達しているオーケストラの場合、本当にオーケストラ側に責任があるのかは、しっかりと分析せねばならないと私は思います。

ブクステフーデでも、特にffになるところでの魂の入り具合は強烈で、聴き手の私の魂まで揺さぶります。演奏者それぞれが聴きあい、音楽を作り上げているからこその、魂の入りようなのでしょう。このブクステフーデも第1曲、第2曲、第7曲の3つだけでしたが、全曲聴きたいと思わせるものでした。

今回抜粋にされた曲は、是非とも全曲演奏を検討されてもいいのでは?と思います。そのうえで、バロックの作品をじっくりと演奏する機会を、カルペディエム・コレギウム・ムジクムと位置付けるのもいいのではと思います。ますます、この団体は足を運びたくなりました。

 


聴いて来たコンサート
カルペディエム・コレギウム・ムジクム2024
ウィリアム・バード作曲
3声のミサ
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第78番「イエスよ、汝わが魂よ」BWV78
チェンバロ協奏曲第1番BWV1052
ブランデンブルク協奏曲第5番BWV1020
ディートリヒ・ブクステフーデ作曲
我らがイエスの御体BuxWV75
カルペディエム・コレギウム・ムジクム

令和6(2024)年5月18日、神奈川、横浜、青葉、横浜市青葉区民センターフィリアホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:クレンペラーとニュー・フィルハーモニア管弦楽団によるベートーヴェンのミサ・ソレムニス

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、オットー・クレンペラーが指揮したベートーヴェンのミサ・ソレムニスのアルバムを取り上げます。

ミサ・ソレムニスと言えば幾人かの作曲家が作曲していますが、最も有名なのがベートーヴェンというのも、また珍しいと思います。ベートーヴェンキリスト教には批判的だったと言われますので・・・

とはいえ、私自身はベートーヴェンがそれほどキリスト教を嫌ってはいなかったと考えるのは、以前も付言したことがあったかと思います。その証拠が、ミサ曲ハ長調の存在です。作品番号もつけられておりかつミサ曲では基本的な聖なる調とされるハ長調が選択されていることを鑑みますと、私自身はベートーヴェンキリスト教をに対し批判的だったとは考えにくいのです。むしろ批判的だったのは、教会、特にカトリックだったろうと考えます。

私自身がそうなのですが、私は基本仏教徒ですが、寺院、もっと言えば宗派には批判的な所があります。もっと原典、つまり経典を読んだうえで、仏陀が何を悟り、救いに赴いたのかが重要だと考えます。ベートーヴェンキリスト教に対して、イエスの受難の意味を聖書を読んで原点に立ち返るべきと考えていたようにしか見えないのです。

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その集大成が、ミサ・ソレムニスではないかと考えるところです。クレンペラーの解釈は、とても人間的な面があり、リズムが強調されたり、テンポが揺れていきなり速くなったりしています。それは神をあがめる人間の内面を表現しているように聴こえるのです。

最も重要なのは、サンクトゥスに於いて、その「サンクトゥス」の部分がppで始まっている点を、とても繊細に演奏している様子に見られます。モーツァルトあたりまでは、サンクトゥスは強い音、f以上の強さが当たり前です。しかしベートーヴェンはミサ・ソレムニスにおいては、そのサンクトゥスをまるで静謐さを表わすように小さい音で書いているのです。その点こそ、ベートーヴェンの宗教観だったのではという視点が、クレンペラーには満ち溢れています。

そして、そのクレンペラーの解釈に共感するかのように、オーケストラはついていきますし、合唱は力強く繊細でもあります。ネットでレビューを見ますと、音のクリアさがとか書かれていますが、私はPCにおいてTune Browserで192kHz/32bitにリサンプリングしてソニーのSRS-HG10をスピーカーとしてつないで聴いていますが、結構クリアです。確かに1965年の録音なのでステレオ初期ですが、しかしイギリスロンドンはキングスウェイ・ホールでの録音です。響き過ぎずいい音響だと思いますので、再生装置でかなり変わるのでは?という気がします。まあ、再生装置を択ばないのがいい録音ではありますが。

そして、この音源、一枚なんです。ベートーヴェンのミサ・ソレムニスと言えば、2枚組も珍しくないのですが、一枚に収めているのも特徴です。レコードの時代ではさすがに2枚だったとは思うのですが、CDの時代でも2枚組は珍しくないところに、一枚に収めるのもいいですね。私は図書館で借りてきてリッピングして聴くわけですが、その過程で二つに分かれてしまうものも少なくないのですが、初めから一枚だと全く分かれようがないので、演奏の魂をしっかりうけとることができるように思います。

クレンペラーの解釈を、ベートーヴェンキリスト教を嫌ってはいないというテクストで語られることはほとんどないと言ってもいいんではと思いますが、私自身はむしろクレンペラーの解釈は私とほぼ同じだろうと考えています。ベートーヴェンは決してキリスト教を嫌ったのではなく、権威としての教会を嫌ったのだ、という解釈です。つまり、むしろ教会がキリスト教の精神をゆがめているとさえ、ベートーヴェンは考えていたのでは?という解釈です。それだと、実は聴けば宗教的な部分も随所にみられるのに、他の作曲家と比べてミサ曲臭くなく聴こえることは整合性が取れます。

ベートーヴェンが生きた時代は、権威としての教会の力が衰え、人間が中心になっていく時代です。その象徴が政府であり、王であり、そして市民です。そして王権から市民革命へと至り、共和制国家が成立するという時代です。その過渡期、あるいは扉が開いた時代と言えるでしょう。同じ時期に交響曲第9番を書き、政府からは危険人物指定されていたベートーヴェンが、単にキリスト教が嫌いということは考えにくいですし、クレンペラーの解釈もその時代背景に即しているように思うのです。

王権はベートーヴェン以前は「王権神授説」によりその権威が支えられていましたが、時代が変わってむしろ教会の権威に頼らない方向に移行しつつありました。教会の権威に頼らない政府や王権を支持しつつ、未来は市民による共和制を描いていたのだとすれば、ミサ・ソレムニスは極めて整合性のとれる宗教曲だと言えるでしょう。クレンペラーの教養と見識の深さが、演奏に満ち溢れていると感じるのは私だけなのでしょうか・・・

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
ミサ・ソレムニス 作品123
エリザベート・ゼーダーシュトレーム(ソプラノ)
マルガ・ヘフゲン(アルト)
ワルデマール・クメント(テノール
マルッティ・タルヴェラ(バス)
ニュー・フィルハーモニア合唱団(合唱指揮:ヴィルヘルム・ピッツ)
オットー・クレンペラー指揮
ニュー・フィルハーモニア管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:メンデルスゾーン オルガン・ソナタ

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、メンデルスゾーンのオルガン・ソナタを取り上げます。

メンデルスゾーンと言えば、管弦楽作品で有名ですが、実は歴史的には鍵盤楽器奏者としての評価が高かった人です。

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ゆえに、「無言歌集」というピアノ曲集も存在しますが、オルガン曲も作曲しています。その中でも、オルガン・ソナタは堂々たる作品だと言っていいでしょう。このアルバムは、メンデルスゾーンのオルガン・ソナタ作品65を収録したものです。

オルガン・ソナタ作品65は6つの曲から成ります。これはどこか、バッハを想起します。そういうこともあるためなのか、メンデルスゾーンの評価はつい最近まで悪かったと言えるでしょう。しかし、研究が進むにつれて、メンデルスゾーンの革新性が明らかになって来たという点は喜ばしいことだと思います。

例えば、このオルガン・ソナタ作品65は、バッハのように6曲からなると言っても、鏡像形式になっているわけでもなく、むしろベートーヴェンのピアノ・ソナタに似ています。そのうえで、音楽としてはバッハのような荘厳さも備えています。バッハのような雰囲気をベートーヴェンの形式で表現したと言ってもいいのかもしれません。

いや、それのどこが革新的なのかと言うかもしれません。しかしながら、オルガン曲はこの時代ほとんど教会で演奏されることを前提としています。たとえそれが世俗曲であったとしても、どこかに「神」の存在があり、そのため宗教曲的な様式が取られることもあった時代に、クラヴィーア曲の様式を取り入れるようなことをしたメンデルスゾーンの革新性は、高く評価すべきだと私は考えます。

この作品65では、例えば楽章を見ますと、4楽章と3楽章と2楽章が存在します。このことから見えてくるのが、ベートーヴェンのピアノ・ソナタとの関係です。メンデルスゾーンベートーヴェンのピアノ・ソナタを知らないはずはないので、当然バッハのオルガン曲とベートーヴェンのピアノ・ソナタを念頭に置いて作曲したであろうことは、容易に推測できるのです。対位法も用いながらも、楽章数は特にバッハの時代に即することにこだわらず、時として3楽章制も存在するというのは、明らかにバッハとベートーヴェンの影響を考えざるを得ません。

演奏するのは、ロジャー・フィッシャー。イギリスのオルガニストです。どうやらこのアルバムは、メンデルスゾーンのオルガン・ソナタを全曲収録した世界初録音の様です。1977年の録音と言いますから、日本でメンデルスゾーンが再評価される40年ほど前にすでにヨーロッパで再評価が始まっていたことを考えますと、やはりその差を感じざるを得ません。これは日本においてクラシック音楽が伝統音楽ではないからという理由では片付かないのではないでしょうか。むしろ、その新しい動きを受け入れたくない、日本人の保守性のほうに原因が求められるように思います。

ffでは本当に力強く美しく、ppでは繊細です。バッハの、あの圧倒的な「音」をオルガン曲だと言う人は、このアルバムを聞きますと下手すれば卒倒するかもしれません・・・

その表現は明らかに、一つの作品に真摯に対した、演奏家の一つの答えでありましょう。プロであれば、楽譜を見れば作品の本質というものを理解しますし、その理解があって初めて表現の方針が決まり、演奏に至るわけです。フィッシャーがその過程をおろそかにしたとはとても思えません。こういう演奏をライブラリに置くという行為こそ、図書館に求められるものであり、小金井市立図書館はその役割をしっかりと果たしていると言えるでしょう。単に広く好まれているから本を置くと言うのでは存在意義はありません。それは民間でも出来ます。そうではなく、行政がかかわるからこそできることを、公立の図書館はすべきではないでしょうか。是非とも、皆さんも地元の図書館に足を運び、CDがあれば借りてこられることを推奨します。

 


聴いている音源
フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ作曲
6つのオルガン・ソナタ(全曲)
オルガン・ソナタ第1番ヘ短調作品65-1
オルガン・ソナタ第2番ハ短調作品65-2
オルガン・ソナタ第3番イ長調作品65-3
オルガン・ソナタ第4番変ロ長調作品65-4
オルガン・ソナタ第5番ニ長調作品65-5
オルガン・ソナタ第6番ニ短調作品65-6「天にいますわれらが父よ」
ロジャー・フィッシャー(オルガン)

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コンサート雑感:ナズドラヴィ・フィルハーモニー特別演奏会を聴いて

コンサート雑感、今回は令和6(2024)年5月12日に聴きに行きました、ナズドラヴィ・フィルハーモニーさんの特別演奏会を取り上げます。

ナズドラヴィ・フィルハーモニーさんは東京のアマチュアオーケストラで、チェコの作曲家の作品を演奏する団体です。現在、ホームページは閉鎖されているようですが、Facebookにページがあります。

2007年に設立され、第12回定期演奏会まで行われていますが、その後今年まで8年間活動停止。ようやく活動を再開したのだそうですが、今回は第13回定期演奏会ではなく、特別演奏会としたようです。理由は定かではなく当日配られた冊子にも記載はありませんでした。ただ、推測できる要素があります。それは、演奏会が5月12日だということです。これでピン!と来る方もいらっしゃるかもしれません。実は、5月12日は、チェコの作曲家、ベドジヒ・スメタナの命日であり、ゆえに、プラハでは「プラハの春」音楽祭のオープニングの日に当たるからです。正確には、日本時間では13日になりますが。

ja.wikipedia.org

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当日の曲目は、そのスメタナの代表曲であり、「プラハの春」音楽祭のオープニングを飾る、連作交響詩「わが祖国」。故に、私は足を運んだと言うわけでした。ロケーションは、埼玉県所沢市にある、所沢市民文化センターミューズのアークホール。

私の記憶が確かならば、所沢のミューズには行ったことがありますが、アークホールははじめてだと思います。以前、瀬川玄氏のリサイタルではキューブホールに足を運んだことがありました。

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ゆえに、アークホールは初めて。どんな音響なのかも楽しみの一つでした。瀬川玄氏のリサイタルでは本当に素晴らしい音響でしたが、アークホールもまさに素晴らしい音響。いわゆる「大ホール」がアークホールに相当します。ちなみに、キューブホールは普通のホールでは「小ホール」に相当します。さらに、ミューズには中ホールに相当するマーキーホールもあります。

www.muse-tokorozawa.or.jp

場所は、西武新宿線航空公園駅。飛行機に詳しい方なら、日本で最初に飛行機が飛んだ場所だと気が付く方も多いのではないでしょうか。駅にもその飛行機の型式である「アンリ・ファルマン」の名を冠した喫茶店もあります。そして、ホール至近には東京航空交通管制部、いわゆる東京コントロールもありますし、航空資料館もあり、駅前にはわが国最初の国産航空機YS-11も飾られています。そんな場所で、スメタナの「わが祖国」となると、交通好きでもある私としては、どうしても行かずにはいられませんでした。

当日は、「わが祖国」の前に、チェコ国歌が演奏されました。これは実は、プラハの春音楽祭と同じプログラム。そのせいもあってか、このコンサートはチェコ共和国大使館と、チェコセンター東京が後援となっています。

まず、チェコ国歌を聴いて、このオーケストラのレベルの高さを認識せざるを得ませんした。勇壮な国歌を歌いあげながら、弦楽器にやせた音など全くないアンサンブル。強くて美しい管楽器。クラシック専用のよく響くホールにマッチして、これがアマチュアなのかと思ってしまいます。

第1曲「ヴィシェフラド」。美しいハープから始まりますが、そのあとを受けてのオーケストラのなんと美しく繊細なことか!しかも、テンポもいい感じで、決して急がず、しかしゆったりもせず。まるでスメターチェクのような・・・実はこのオケ、チェコ演奏家とも共演を重ねており評判もいいそうで、そのあたりが、チェコ大使館やチェコセンター東京の後援を得られた理由だと私は推理します。

そして、第2曲「ヴルタヴァ(モルダウ)」。このヴルタヴァこそ、今回私が注目していた部分。というのは、何度か触れていると思いますが、この曲を川がゆったり流れるように演奏するオーケストラ、振る指揮者が多いのです。しかし私はその解釈はどちらかと言えば好みではありません。ヴルタヴァはそんな単純な曲ではないからです。そもそも、皆さんこの曲を「モルダウ」として知っている人のほうが多いのではないでしょうか。私もそのうちの一人ですし、この曲は学内合唱コンクールで中学2年生で歌った懐かしい曲です。しかしその名称は実はドイツ語。スメタナがこの曲を作曲した当時は、チェコオーストリア・ハンガリー帝国、つまりドイツ語を公用語とする国の支配下にあり、実際チェコでも公用語はドイツ語でした。その圧政に対する曲として、実はヴルタヴァは書かれています。配られた冊子では「二重言語」という表現をされていますがまさにその通りでしょう。主題の元となった民謡は広くチェコで歌われる曲なのですが、それは「いつか明るい時代が来る」と言う寓意です。ある意味、ベートーヴェンの「苦悩を突き抜けた喚起」を想起させます。あれ?ドイツに対する曲なのでは?と思いますよね。でも、スメタナは決してドイツを敵視したわけではなく、独立がなされていないことに対する想いが書かせているということは、念頭に置く必要があると私は思うのです。

つまり、ヴルタヴァという曲は、単に川の流れを表現した曲ではなく、チェコという国の現在と未来を暗示した曲である、ということなのです。その解釈をしない演奏は、私はあまり好きではありません。そしてその解釈を明快にしている指揮者が、ヴァ―ツラフ・スメターチェク。私が最初に購入したCD群の一つであり、オーケストラはチェコ・フィルハーモニー管弦楽団。その演奏に限りなく近い演奏をしてくださったことは、本当にうれしかったです!最初の小川が湧き出し流れ出る部分のテンポの速さ!これでもしや?と思いましたらそのあとの旋律でもスメターチェクとほぼ同じテンポで、来た!と思いました。やはり、ヴルタヴァはこうでなくっちゃと思います。

第3曲のシャールカ。「わが祖国」の中では劇的な曲の一つですが、女性が男性に対して戦い勝利するというところが注目だと聴くたびに常に思います。これもおそらく、オーストリア・ハンガリー帝国に対する抵抗を象徴すると私は考えます。そのテーマ自体、かなりセンシティヴだと思いますが、人権という意識が芽生え始めていたヨーロッパにおいては、抵抗を意味するキーワードだったのではと思います。その隠れた意味を、指揮者も良く理解しているように思いました。オーケストラの団員に女性も多いことも、共感できる理由の一つなのかもしれませんし、実は、楽器編成はトロンボーンは3つなのですが、当日は倍管になっており増やされた3つはバス・トロンボーン。この点は、指揮者である佐伯氏の解釈であろうと想像します。それにより、他の曲でもトロンボーンが鳴る部分の迫力が倍増され、ドラマティックになっていました。配られた冊子にはチェコの指揮者ターリヒが「わが祖国」の演奏に於いて校訂したという記述があるので、私もそれほどライヴを見ているわけではないのですが、恐らく楽譜ではトロンボーンは3つであるけれども、実際の演奏ではバス・トロンボーンも付与されて倍管になっていると考えていいのではないでしょうか。この点は、今後も注目したいと思います。実は、予告しておきますが、6月30日にもミューザ川崎に「わが祖国」を聴きに行きますので、その時も注目したいと思います。

休憩の後の第4曲「ボヘミアの森と草原から」。これは完全に描写の音楽で、チェコの美しい風景を歌いあげた曲だと言えるでしょう。自国の風景をしっかりと歌いあげるという点でまさに国民楽派的な作品だと言えるでしょう。これは一転、ちょっとだけ遅めのテンポで入ったのは面白かったです。スメターチェクがどこかドローンで一気に上がってみていくという感じですが、今回の演奏はまるで山登り。その途中でゆっくりと変わっていく風景を登山を楽しみながら味わうという感じの解釈で、かつて八ヶ岳を登った経験を持つ私はいつもと違うテンポでありましたが唸りました。こういう解釈をするか!という経験をアマチュアオーケストラで経験できるのは幸せすぎます。

第5曲「ターボル」と第6曲「ブラニーク」は、チェコの過去と未来を暗示した曲で、ある意味第2曲「ヴルタヴァ」をさらに詳細に描写した曲だとも言えます。二つとも、チェコで起こった「フス戦争」がモティーフ。この「フス戦争」も、チェコの抵抗の象徴と言えるもの。ヤン・フスというキリスト教の宗教家が起こした宗教改革活動なのですが、カトリックによって弾圧されるのです。これって何かに似ていると思いませんか?そう、「プラハの春」音楽祭の名の由来となった、「プラハの春」におけるソ連軍の介入です。「わが祖国」という曲がチェコの第2国歌とも言われ、音楽祭で演奏され続けられている理由は、大国のはざまにあるチェコという国故だと言うことなのです。かつてはオーストリア・ハンガリー帝国支配下にあり、そして冷戦期にはソ連の介入を受ける・・・それはチェコの人々にとって、まさに歴史の物語が現出されていることを意味するのです。その抵抗の象徴として書かれたのが「わが祖国」であり、単なる文化の復興だとかという矮小化されたものではないということが大事なのです。

スメタナは、音楽がドイツ的だ!と非難され続けた人生です。しかし、スメタナの信義は揺らがず、貫き通しました。そこには、「過度な民族主義ナショナリズムになり危険である」という意識がどこかにあったような気がするのです。むしろスメタナはどちらかというとパトリオティズムに近かったのでは?という気がしています。しかしそれがどこかでナショナリズムへと変化し、そのナショナリズムが国を破壊し、他国の支配下に置かれる歴史を、いやと言うほどわかっていたとすれば、この曲の構造は納得できるものです。その構造への共感が、最後まであふれていた演奏でした。全曲を通して力強くかつ美しく鳴り続ける金管群、そのために補強されたバス・トロンボーン、アクセントをしっかりと付けることでアインザッツが強い弦楽器。リズムが立っていたりレガートで歌っていたりと、表現力も素晴らしい!それは明らかに、作品に対する共感以外の何物でもないように聴こえました。だからこそ、チェコの音楽家に「まるでチェコで演奏しているようだ」と言わしめるのでしょう。

8年の休止を経て、新たに活動を開始されたナズドラヴィ・フィルハーモニーさん。その名の由来である「乾杯!(そもそも「健康に」という意味)」の名に恥じない、人生讃歌を聴かせていただいた気がします。単に歴史を語るのではなく、そこには確かに人間がいることを表現してくれました。つぎも機会があれば、是非とも足を運びたいと思います。

 


聴いて来たコンサート
ナズドラヴィ・フィルハーモニー スメタナ生誕200年・歿後140年記念 特別演奏会
チェコ国歌
ベドジフ・スメタナ作曲
連作交響詩「わが祖国」全曲
佐伯正則指揮
ナズドラヴィ・フィルハーモニー

令和6(2024)年5月12日、埼玉、所沢、所沢市民文化センターミューズ アークホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

音楽雑記帳:ガーディナーとオルケストレル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティクのベートーヴェン交響曲全集の中での「第九」の演奏とは

音楽雑記帳、今回は4回シリーズで取り上げてきました、小金井市立図書館のライブラリである、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮オルケストレルレヴォリュショネル・エ・ロマンティクの演奏によるベートヴェンの交響曲の全集、その最後として、今回は第九を取り上げるわけですが、第1集を取り上げた時にも述べましたが、これはすでに私はCDで持っております。

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ですので、図書館でもこれは借りてきていません。ちなみに、この全集は交響曲だけでなぜか収まっておりませんで、最後にミサ曲ハ長調が収録されているのが特徴です。それも実はすでにエントリを立てております。

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つまり、私はこの全集の最後の2つからアプローチしたということになります。さて、その全集の残りを聴いての、現段階で私が第九の演奏をどう感じているかが、今回のテーマになります。

今回は、上記の第九のCDをflacリッピングして、Tune Browserで192kHx/32bitリサンプリング再生で聴いてみました。これが、結構面白い結果になりました。エントリを立てた当時よりは、評価が上がったのです。

第1楽章は速さだけが目立つのではありますが、一方で荒々しさが強調されているとも言えます。まるで闘いです。ただ、そのとにかく古楽的な速さというのは、第2楽章以降目立たなくなるのです。

総演奏時間は59分44秒。演奏時間としては、十分快速すぎるほうです。なのに、全体的にはそれほど快速に感じません。「運命」の時のような、速いだけだよねって印象がないんです。

その理由は、恐らくですが、ベートーヴェンがそのように作曲した、という点が大きいのでは?という気がします。実は、第九という曲は、リズムが特徴的な作品でもあります。第2楽章や第4楽章が顕著ですが、フランス風のリズムがそこかしこに仕組まれています。

そのため、どんなに速く演奏しようとも、どこかで妨害されるような効果を持っています。いうなれば、道路で車が速く走れないようにあえて凸凹を作って歩行者保護を図っているような。

そのうえで、演奏もどこかで必ずアクセントをつけていたり。「運命」の時や「英雄」の時とはまるで異なります。おそらく、ガーディナーベートーヴェンという作曲家の「底深さ」にあえいでいたのではないかという気がします。だからこそ、明らかに古典派的な作品は古楽的アプローチが成功しつつも、片足をロマン派に突っ込んでいるような、第6番以降の作品や、その萌芽とも言える「英雄」や「運命」はどこかバランスが悪い演奏になったのでは?と推理しています。

その中で、第九も下手すればバランスが悪くなるはずのところを、開き直ってロマン派的なアプローチに触れているため、それほどバランスが悪くないのだと思います。第1楽章も、速いテンポだけのように聴こえてしまう部分もありつつも、アクセントをつけることに振り切っている様子も感じられ、それほど悪い印象を持たないのだろうと思います。

恐らく、ガーディナー自身が、なぜオルケストレルレヴォリュショネル・エ・ロマンティクというオーケストラを立ち上げたのか、分からなくなっていたような気がします。バロック時代とは異なる古楽団体として位置付けながらも、どこかバロック的なアプローチから抜け切れていないような気がします。

一方で、バッハ・コレギウム・ジャパンは明らかにバッハの時代の楽器を基準としているにも関わらず、違和感がないのは、恐らく鈴木雅明音楽史を俯瞰できる才能をしっかり持った指揮者であるからと言えるのかもしれません。第九に二重フーガが存在するように、実はバロックからの伝統を受け継いだ作品ですが、そのバロックの遺産を古典派絶対音楽の中で再定義した作品でありつつも、片足をロマン派に突っ込んでいる作品でもあることを、しっかり認識していた、ということになるかと思います。いうなれば、ガーディナーはある意味、端的に時代を分けすぎた、ともいえるでしょう。

では、この演奏は無駄だったのかと言えば、私はそうではないと思います。この録音があったればこそ、そのあとにできた古楽団体は、その批判精神でさらなる高みへと登ったのですから。特に、バッハ・コレギウム・ジャパンはその批判精神をもって、今や古典派だけでなくロマン派も演奏し始めていると言っていいでしょう。

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このバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏の基礎となったのが、ガーディナーとオルケストレルレヴォリュショネル・エ・ロマンティクの演奏だったとすれば、決して無駄ではなかったと言えるわけなのです。パイオニアというものはいつの時代も、初めから成功するわけではなく失敗も繰り返します。その失敗を糧に、さらなる高みへ昇るものです。ちょうど、H3ロケットが打ちあがったように。

今後の各古楽団体の演奏も、期待が膨らみます。

 


聴いているflac
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
リューバ・オルゴナソーヴァ(ソプラノ)
アンネ・ソフィー・フォン・オッター(メッゾ・ソプラノ)
アントニ―・ロルフ・ジョンソン(テノール
ジル・カシュマイユ(バス)
モンテヴェルディ合唱団
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
オルケストレルレヴォリュショネル・エ・ロマンティク

(ARCHIV UCCA-3169) 

※Tune Browserにて192kHz/32bitにリサンプリングして再生

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:カシオーリが弾くベートーヴェンの変奏曲集

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、ベートーヴェンの変奏曲集を取り上げます。演奏するのは、ジャンルカ・カシオーリ。イタリア生まれのピアニストです。

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主にドイツ・グラモフォンからアルバムを出しており、現在はユニヴァーサル・ミュージック所属のようです。演奏としては、決して奇をてらわずに、しかししっかり歌いあげるものになっています。

それゆえに、ベートーヴェンの演奏曲の本質が見えるような印象を受けます。曲目としては、全8曲中6曲がWoOが付与されている曲、つまり作品番号が付与されなかった曲になります。しかし、そのWoOが付与された曲であっても、決して形式や内容で作品番号が付与されている曲に劣っていません。これは何を意味するのか?

よく言われるのが、作品番号が付与されているものに比べれば劣るものという解釈です。これは半分正しくて半分間違っていると私自身は考えます。では、この変奏曲において、作品番号にひけを取らない作品がズラリと並んでいるかの説明にならないからです。

この曲集においては、他人の旋律を借りたものはWoO、自身の旋律を用いたものは作品番号が付与されています。その編集を見ますと、ベートーヴェンがなぜ作品番号を付与しなかったかが明確になるように思います。つまり、他人の旋律を借りたものは、変奏がベートーヴェンのオリジナルだとしても、どこか独創性が低下することになります。一方で、自作の主題を使ったものは徹頭徹尾独創性にあふれていることになります。

つまり、様式や形式的には同じですし、素晴らしい作品なのですが、私達にはどこか違った印象を与えるのは、ひとえに主題がベートーヴェンの自作なのか否かが理由であると結論づけられるわけです。おそらく、ベートーヴェン自身がそのような印象、判断をしていたと考えていいでしょう。唯一の例外は、5曲目に収録されている「アンダンテ・ファヴォリ」WoO.57でしょう。これはそもそも、ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」の第2楽章として作曲されたもので、作曲当時はベートーヴェンの自信作でしたが、ある友人から長いのでよくないとの指摘を受け、最初は否定したものの後から思いなおし差し替えたのち、独立した作品としてWoOが付与されたものだからです。WoOにはこのようなケースもあるのです。

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つまり、WoOは決してベートーヴェンが破棄した作品ではなく、自身の独創性という観点から、作品番号を付与しかなった作品という区分けが大前提である、と言うことです。そうでなければ、「アンダンテ・ファヴォり」がなぜWoOなのかが説明できなくなります。もっと簡単に言えば、作品番号を付けるには次点であった、と言うほうが分かりやすいでしょうか。

カシオーリの演奏を聴いていますと、作品番号もWoOも、特に明確に演奏を変えているようには聴こえません。しかし、作品番号がついている作品の方がよりドラマティックに聴こえるから不思議です。それは、そもそも作品を規定する主題が、他者からの借り物か自作かの違いなのだと考えるほうが自然です。それはまさに、奇をてらわない演奏であるがゆえに私たちに伝わるのではないでしょうか。っして、まさにそのベートーヴェンの二つに対する規定の内容を伝えることが、カシオーリのメッセージだとすれば、符合します。

その点でも、このアルバムはベートーヴェンの変奏曲を理解するための、大切な一枚であろうと確信するところです。さすが、図書館ならではのライブラリだと思います。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
サリエリの歌劇「ファルスタッフ」から二重唱「まさにそのとおり」の主題による10の変奏曲変ロ長調WoO73
グレトリーの歌劇「獅子心王リチャード」からロマンス「燃える心」の主題による8つの変奏曲ハ長調WoO72
ジュスマイアの歌劇「スレイマンⅡ世」から三重唱「たわむれ、ふざけて」の主題による8つの変奏曲ヘ長調WoO76
ヴィンターの歌劇「妨げられた奉納式」から四重唱「子供よ、静かにお休み」の主題による7つの変奏曲ヘ長調WoO75
アンダンテ ヘ長調WoO57「アンダンテ・ファヴォリ」
トルコ行進曲」の主題による6つの変奏曲ニ長調作品76
創作主題による6つの変奏曲ヘ長調作品34
トーマス・アーンの劇音楽「アルフレッド」から「ルール・ブリタニア」の主題による5つの変奏曲ニ長調WoO79
ジャンルカ・カシオーリ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ガーディナーとオルケストレル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティクによるベートヴェン交響曲全集4

東京の図書館から、4回シリーズで取り上げております、小金井市立図書館のライブラリである、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮オルケストレルレヴォリュショネル・エ・ロマンティクによるベートヴェンの交響曲全集、今回は第4集を取り上げます。

この第4集には、交響曲第7番と第8番が収録されています。勿論、第5集が「第九」なのですが、それはすでにCDで持っているため、このシリーズでは取り上げません。

この第4集は、ここまで取り上げてきたものの中では最も充実した演奏であると感じます。古楽的なアプローチをしつつも快速とはあまり感じられず、しかし生命力に満ちた演奏になっているのです。

こう聴いてくると、この全集、表題がついていない交響曲のほうがはるかに素晴らしい演奏になっているのが不思議です。これはあくまでも私の個人的な推測に過ぎませんが、作品のストーリーにとらわれすぎているのではないでしょうか。そして、後期ロマン派の「内面性」重視を払しょくしようとしてもどこかに内面性も入れ込もうとする、何かゆがんだものを感じてしまうのです。

しかし、表題無しの、第1番、第2番、第4番、そして第7番と第8番は、文句のつけようがない演奏です。古典派的なアプローチで実に自然な演奏になっていますし、それゆえに生命力が存在するのです。そもそもベートーヴェン交響曲は、たとえ標題がついていようとも、自然と生命力が存在する作品に書いているはずだとは思うのですが・・・

ベートーヴェン交響曲で明らかに標題がついているのは実は2つしかありません。第3番「英雄」と第6番「田園」です。どちらも、海外でも「エロイカ・シンフォニー」「シンフォニア・パストラール」と言われる作品なので。しかし、「運命」は基本的に名称はつきません。単に「第5交響曲」と呼ばれるだけです。その事実を受け止めたうえで、スコアリーディングの上、ベートーヴェンが楽譜に込めたストーリーや想いを掬い取るか、それを自分の言葉で発するか、だと思います。その視点で言えば。どうもガーディナーは「古典派」という時代を踏まえつつも、ストーリーにとらわれすぎているように思えるのです。

第7番はどっしりとしたテンポが殆どで、古楽オケとは思えないほど。一方の第8番では、最終第4楽章はかなりの快速。でも、それが全く違和感なくむしろ必然であるかのように音楽が流れます。そして両方に共通するのは、しっかりとしたアクセント。快速な第8番であっても、快速さを引き立てるための細かいアーティキュレーションがしっかりとアクセントになっています。そうだよねえと私自身聴いていて共感します。

この録音は全て1990年代と約30年ほど前の録音ですが、その時代すでにヨーロッパでは古楽演奏など普通になっているんです。でもどこか、学究的な姿勢過ぎてきたのではという気もします。なぜ古典派の時代の演奏スタイルをするのかという、本質を見失っていたのではという気がします。そこを気づかせたのは、むしろバッハ・コレギウム・ジャパンだったのではないかとすら、私自身は考えています。

2000年代に入り、日本でも海外でも、優れた自然体な古楽演奏が増え、モダンオケにも好影響をもたらしました。その直前期の録音だと言えるでしょう。古楽演奏に欠けているのは何か、ガーディナー自身も振っていてどこか感じていたのでは?という気がします。そもそも、なぜバロックまでと古典派以降で担当するオーケストラを分けたのか、ガーディナーが見失っていたことがあったのではないかとすら、私には聴こえるのですが、聴かれたことがある方、どのようにお感じなられるでしょうか。

演奏として決して否定するものは一つもありませんが、かといって全面的に共感するものは少ない全集だと感じています。さて、ここまで聴いて、第九はどのように聴こえるのか?私自身に何か変化はあるのか?

次は実際に聴いてみたいと思います・・・

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第7番イ長調作品92
交響曲第8番ヘ長調作品93
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
オルケストレルレヴォリュショネル・エ・ロマンティク

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。