かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:メシアン 鳥のカタログ3

東京の図書館から、3回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、メシアンの「鳥のカタログ」。今回は最後の第3回目。3枚組の3枚目を取り上げます。

3枚目には、第7巻と、「ニワムシクイ」が収録されています。つまり、「鳥のカタログ」だけではない、ということになります。ですが、このカップリングは、意図してのものだと言えましょう。

本来、「鳥のカタログ」は第7巻の3曲までです。それに追加してニワムシクイを入れて、さて違和感があるかと言えば・・・全くないのです!

それはピアニストがそう弾いているからでは?という考え方もあります。確かに、演奏するウゴルスキは素晴らしいピアノですが、それが理由ではないと思います。ウゴルスキは二つにおいて全くアプローチを変えていません。ということは、二つとも同じ精神に立脚していることを示しているのです。故に。カップリングされたと考えていいでしょう。

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「鳥のカタログ」が最初に作曲されたのは1956年。「ニワムシクイ」が作曲されたのは1970年。確かに4年の歳月は流れ、鳥のカタログも第1巻から第7巻へと、段々和声は不協和音の度合いを強めていることは確かなのですが、環境の中にいる鳥を表現するという点はいささかも変わりないのです。特に、「ニワムシクイ」では、ffとppを使った表現が見事で、複数のニワムシクイが囀っているかのように聴こえます。その強弱を繊細に弾いているウゴルスキ。当然、そこにこの一連のシリーズが語る精神があることを踏まえたものだと言えましょう。

不協和音が多用されているんだと、何だか不安だから聴きたくない・・・そういう人もいると思います。実際、以前の私もそう考えていたので、この手の作品は避けるどころか拒否です。しかし、和声は何のために生まれ、存在し続けているのかを考えた時、その和声が私からも持つどす黒い内面を表現するものだと気付いてから、全く違和感が無くなりました。むしろ、私達人間は不協和音を多用するという時代を切り開いたからこそ、表現の幅が広がったのだと考えれば、むしろ微笑ましくも私は感じるのです。

とはいえ、不協和音だけが芸術なのかと言えばそれも違うと私は思うのです。なので私は「前衛音楽」という言葉をあまり使わず、「20世紀音楽」という言葉を使うのです。メシアンはその時代のなかで、あえて不協和音を多用する表現を選んだにすぎません。

私にとって、不協和音が多用される音楽も、調性音楽も、どちらもいとおしい存在です。不協和音自体は古典派の時代にも存在しています。ただ、全面的に使わないだけです。それが古いことなのか?確かに、古い時代はさけられたものではありますが、ですが表現の中で使っている以上、存在は認めていたということです。調性音楽が古臭いのであれば、では現代社会に多く存在する、ポピュラー音楽は古臭いのでしょうか?そんなことはありません。むしろ調性音楽なのに新しいものがどんどん生み出され、消費されている時代です。

音楽が消費されることの是非を考えてしまうと本題から外れますのであえて詳しく書きませんが、しかし音楽は消費されつついいものが残っていくのはどの時代においても一緒ですし、また再評価もされるものです。そんな歴史を私たちは螺旋階段のごとく繰り返しつつ、時代は前進していったことを考えますと、不協和音を多用した音楽と調性音楽が並立するのも当然ありだろうと思いますし、それが現代という時代であるとも言えます。新しい様式は出てきにくいかもしれませんが、新しい様式というものは、そう簡単に出て来るものではありません。私たちの人生は長くても約100年。時の流れの中では一瞬ですが、私たちにとっては長い時間に感じるものです。もしかすると、新しい様式はすでに存在しているのだけれど、私たちが興味を持っていないだけなのかもしれません。そうなると、新しい様式というものは、もっと後の時代で俯瞰してやっと認識されるものなのかもしれません。

ウゴルスキが生まれ、育った時代と同様に時代が動き始めている今、音楽はどこへ向かうのか・・・いまを生きる私達は、とりあえずおのおのの人生が尽きるまで、見届けるようではありませんか!

 


聴いている音源
オリヴィエ・メシアン作曲
鳥のカタログ
 第11番:ノスリ
 第12番:クロサバクヒタキ
 第13番:ダイシャクシギ
ニワムシクイ
アナトール・ウゴルスキ―(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:メシアン 鳥のカタログ2

東京の図書館から、3回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、メシアンの鳥のカタログ、今回はその第2回目です。3枚組の2枚目となります。

メシアンの「鳥のカタログ」は、メシアンが作曲したピアノ独奏曲です。

ja.wikipedia.org

enc.piano.or.jp

今回取り上げるのは、第4巻~第6巻の4曲。なのでピティナの説明は第1巻だけなのですが、全曲を説明しているのはピティナでは第1巻の頁だけなので、第1巻のを提示しています。

いずれにしても、単に鳥を表現したのではなく、風景の中にいる鳥を表現したものだと言えます。え?ウィキペディアと違うではないか!という人もいるかと思いますし、実際私は前回ウィキペディアとは若干異なる見解を述べていますが、あくまでも作品を聴きますとウィキペディアとは若干異なる見解にならざるを得ないのです。実際、専門家も以下のような見解を持っておられます。

ontomo-mag.com

ontomo-mag.com

このONTOMOさんの記事を読む前に私は前回の原稿を書いていますが、ほぼ同じ見解にたどり着いたのは、自分の判断が間違っていなかった証明だと思っています。メシアンという作曲家がどのような作曲家なのかを考えると、まあ同じような見解にたどり着くのではないでしょうか。

この第2集に収録された第4巻から第6巻までの作品を聴いていても、鳥のさえずりのパッセージがはっきりと聴き取れる上で、その環境も同時に表現されていることがはっきりと聴き取れます。例えば、第8番「ヒメコウテンシ」では、複数のさえずりがはっきりと聴き取れます。それはつまり、1羽だけでなく複数が囀っているその風景を描いたものだと断定できるわけです。

ONTOMOさんの記事によれば、メシアンは取材において、テープレコーダーを持って行って録音しているそうです。ということは、テープを保存するときにいつ、どこで、何を記録したかを記載して残しておけるということです。

私の父が赤井電機のエンジニアだったということは、以前お話ししたと思いますが、その父は意外と子煩悩で、私が小さい頃、私の声をカセットテープに録音して、その様子であると言うことをカセットテープのラベルに記載をして残しています。そういうことを、カセットテープ全盛期には楽しんでいたのです。ビデオやDVDでも、ラベルでその内容を記録しておくのと同じなんです。同様にメシアンも、鳥のさえずりを取材した時、テープのラベルに記載してあったと考えていいでしょう。

なるほど、だから「カタログ」なのだと、はっきりします。こういうことが分かりますと、和声的には確かにおどろおどろしい部分はありますが、どこか親近感がわきますし、カセット世代だねえって思います。

演奏しているウゴルスキは、カセットテープやデッキが好きだったのかまではわかりませんが、少なくとも楽譜から曲の精神は掬い取っているように聴こえます。鳥のさえずりを表現するのに、どのような和声が使われているのか。その和声にはどんな意味があるのかということを、考え抜いて演奏しているように思います。むしろ、ウゴルスキはその和声を楽しみ、味わっているかのようにすら聴こえます。

こういうことが分かると、俄然聴いていて楽しいのです。単に作品の魅力だけでなく、演奏者がどのように作品に向き合っているのか、その向き合い方は聴衆側にとっても共感できるものなのか。そのあたりが明らかになると、その演奏が楽しめるようになるのが、クラシック音楽のすばらしさ、楽しさ、喜びだと思います。

上記ONTOMOさんの記事では、「酉のカタログはもはや古典?」という記載もありますが、カセットテープを知らない世代がいる昨今では、当然の流れではなかろうかと私は思いますが、皆さまはどう受け取られますでしょうか。

 


聴いている音源
オリヴィエ・メシアン作曲
鳥のカタログ
 第7番:ヨーロッパヨシキリ
 第8番:ヒメコウテンシ
 第9番:ヨーロッパウグイス
 第10番:コシジロイソヒヨドリ
アナトール・ウゴルスキ―(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

コンサート雑感:栄フィルハーモニー交響楽団第69回定期演奏会を聴いて

コンサート雑感、今回は令和6(2024)年4月7日に聴きに行きました、栄フィルハーモニー交響楽団の第69回定期演奏会のレビューです。

フィルハーモニー交響楽団さんは、1986年に横浜市栄区に誕生したアマチュアオーケストラです。1986年というのは、政令指定都市である横浜市において、戸塚区から分区して栄区が出来た年であり、その分区を記念して設立されたようです。

sakaephil.com

マチュアオーケストラのレベルは上がっているとはいえ、すべてのアマチュアオーケストラがレベルが高いかと言えばそうでもありません。なので、初めての団体に関しては、ある意味ドキドキとハラハラといった感情が私の中で対立しながら、足を運ぶのが普通ですし、それゆえに聴きに行かないと判断する団体も残念ながらあります。何しろ、アマチュアオーケストラは社会人が中心ですので、大抵土日に集中するためで、どれかを選択せざるを得ないからです。今回も実は、この栄フィルハーモニー交響楽団さんではなく、初めはシベリウスを中心に演奏するアイノラ交響楽団さんを予定していました。指揮者が私が初めてベートーヴェンの第九を歌った時に合唱指導のお一人だった新田ユリさんが音楽監督だからです。ですが、3月9日に聴きに行きました、東京楽友協会交響楽団さんの会場であるミューザ川崎で、栄フィルハーモニー交響楽団さんのチラシを手に取って、固まってしまいました・・・ソリストの名前を見て。

そのソリストとは、某SNSNHK交響楽団の「再雇用王子様」として大人気を博している、チェリストの藤村俊介氏だったからです。以前、このブログでもオーケストラWさんの演奏会を取り上げた時にも登場しているソリストです。

ykanchan.hatenablog.com

当時藤村氏はNHK交響楽団の首席チェリストでしたが、現在では定年退職され、再雇用の身となって現在でもNHK交響楽団のステージに立たれています。再雇用なので毎回ではないようですが、それでも舞台に立つと言うのは、素晴らしいことだと思います。まあ、若手が育ってないとも言えるかもしれませんが・・・そこは深く突っ込まないでおきましょう。

その藤村氏がソリストとして、栄フィルハーモニー交響楽団で登場する・・・さて、どっちを選ぶ?と悩みまくったうえ、再雇用王子様を選びました。えーっと!新田先生、この埋め合わせは必ずします、高津市民オーケストラを聴きに行きます(と宣言したからには行かないと!)

さて、その栄フィルハーモニー交響楽団さん。私は初めて聴くオーケストラです。当然レベルもわかりません。私も横浜市民でなくなってすでに10年以上経っており、横浜のアマチュアオーケストラの事情に疎いのでさらに不安な部分もあったのですが、やはり「再雇用王子様」が登場することが最後まで引っかかったための決断でした。オーケストラWさんで聞いた素晴らしい演奏から4年経ちますが、やはりあの時の歌うチェロが、私の中で強く印象に残っており、その演奏に釣り合うだけのオーケストラなのではないかという、どこか期待する部分もあったのです。

今回のプログラムは以下の通り。

ヴェルディ オペラ「ナブッコ」序曲
エルガー チェロ協奏曲
ドヴォルザーク 交響曲第8番

1プロのヴェルディの冒頭を聴いた途端、判断が間違っていなかったことを確信しました。やせた音が弦楽器にない・・・市民オーケストラだと平均年齢が比較的高いこともあるので、なかなかやせた音を少なくするというのは困難な部分だと思いますが、それでもほとんど聞こえてきません。ホールは横浜みなとみらいホール。とはいえ、やせた音があれば目立つのですが、ほとんど聞こえてきません。アマチュアらしいと思うのは金管楽器がちょっとだけ不安定。ですがそれは、このオーケストラのチャレンジ精神の結果でもあるので私はマイナスには思いませんでした。アマチュアが最も不得手とする、ppとffの差がはっきりと表現されていたからです。

これを金管でやるのは相当大変なことなんです。これは合唱でもそうなのですが、息を自分の体全体でコントロールしないといけないからなんです。それを、筋肉量が落ちて来る中年以降でやるのは相当鍛えないと難しいのです。私もアマチュア合唱団時代に30代で本番を想定して毎日二駅帰宅時に歩いていました・・・そうしないと、腹筋や背筋の筋肉が衰えるからです。さらに言えば、本番中に立っているだけの脚力もないと合唱は歌えません。

楽器であっても、少なくとも肺活量を維持するために、金管楽器においては腹筋と背筋はきたえておかないと息がコントロールできないのでどうしても不安定になり、それが目立つのが強弱をつけるときなんです。特にpp。この時こそ、筋力が物を言うのです。

そのppにおいて、金管楽器がどうしても不安定になります。これは比較的平均年齢が高いが故だと思います。それでも、しっかり表情を付けようとする意識は見られましたし、オーケストラ全体がしっかりその差を徹底していたことが、作品の内面を描き出すのに成功していたと思います。特に、弦楽器がこれまた歌う!聴いていてつい酔いますねえ。

2プロは、エルガーのチェロ協奏曲。藤村氏の登場で一気に会場が沸き立ちます。そういえば、今回は前方が比較的席が埋まっています。みなとみらいホールでは珍しい現象です。それはひとえに藤村氏目当てだと言っていいでしょう。私も某SNSで「砂被り席(つまり、1階席を含め舞台を囲む席)でぜひ!」と言われ「では砂被り席で!」と応えたのですが、当日すでにそこは満席でした・・・泣く泣く、2階席に座りました・・

でも、藤村氏は見える位置に陣取りましたが、いやあ、毎度歌うチェロです。しかも、今回はエルガーのチェロ協奏曲の成立背景を踏まえたせいなのか、哀しみというか、むせび泣くかのような、弱弱しかったり、叫んだりというような表現がついており、やはり元NHK交響楽団の首席チェリストだなあと思います。そのチェロとそん色ないオーケストラなんです。藤村氏を迎えて気合が入ったとプログラムに記載がありましたが、まさに弦楽器は気合もそうですが、藤村氏を迎えて喜びを爆発させている印象がありました。ソリストアンコールであるエルガーの「愛の挨拶」ではさらに本当に楽しそうに演奏するのです!

その印象を特に強く感じたのが、後半のドヴォルザーク交響曲第8番です。テンポはややゆったり目なのに、そのテンポが全く気になりません。歌うオーケストラにより、説得力のある演奏になっており、作品を味わい、喜びに満ちた演奏に私自身酔いしれました。

ドヴォルザークは鉄道ファンだったとしても有名ですが、実はコンサートがあった4月7日の前日に鉄道業界では3つのトピックがありました。近江鉄道の上下分離の開始、高架化のため3年間不通が続いた南海高師浜(たかしのはま)線の復活、そしてJR西日本の特急「やくも」の新型車両初運用と、鉄道業界にとっては明るい話題が集中しました。私も鉄道ファンなのでその話題を追いかけていますが、その喜びを、まるでオーケストラの団員も共有しているかのように弾いているのです!あのう、もしかすると、この後やくもに乗りに行く団員の方とかいらっしゃるのでしょうか・・・私自身、ドヴォルザークが今の日本にいたならば、やくもの273系を乗りに行ったのでは?という気がします。

www.jr-odekake.net

特に、伯備線の風光明媚な山中を走る特急「やくも」には、ドヴォルザーク交響曲第8番はぴったりだなあなどと思ったりします。かつてはD51三重連で峠を越えたのが、今や制御付き自然振り子車両で抜けていくのです。車内チャイムはofficial髭ダンディズムですが(彼らが鳥取県出身であるため)・・・

どこか、栄フィルハーモニー交響楽団の団員の方たちも、鉄道の明るいニュースが続いていることに喜びを感じてドヴォルザークに共感しているかのように聴こえるんです。リズム的には鉄道風味がなくむしろ風景を切り取るような解釈なのですが、そこに確実に満ちる喜びが背景にあるようにどうしても聴こえるのです。作品の魂に共感し、演奏者もその魂に共感する・・・ある意味、市民オーケストラだからこそなのかもしれません。ここに仲間がいた!と思わせていただきました。実はこのドヴォルザーク交響曲第8番では、ソリストのはずだった藤村氏がしれっとチェロで参加しているではありませんか!その喜びもあったのだろうと思います。特に藤村氏が楽しそうに体をゆすって演奏していることで、弦楽器パートでも体を使って楽しく弾いているのが印象的でした。それが、ドヴォルザークが鉄道のある風景を見た時に感じた喜びとリンクしたのかもしれません。喜びの相対化と言うのでしょうか、自分たちは必ずしも鉄道ファンではないが、鉄道ファンが鉄道を見た時同様に、自分たちも藤村氏と一緒に演奏できる喜びを感じて、ああ、同じなんだとして演奏しているかのようです。その喜びが、鉄道のトピックで喜びを感じている私の魂と共感したのかなと思っています。素晴らしい、喜びに満ちた演奏に、本当に感謝します!

 

聴いて来たコンサート
フィルハーモニー交響楽団第69回定期演奏会
ジュゼッペ・ヴェルディ作曲
オペラ「ナブッコ」序曲
エドワード・エルガー作曲
チェロ協奏曲ホ短調作品86
藍の挨拶 作品12(ソリストアンコール)
アントニン・ドヴォルザーク作曲
交響曲第8番ト長調作品88 B.163
スラブ舞曲作品46-3(オーケストラアンコール)
藤村俊介(チェロ)
千原友子(ゲスト・コンサートミストレス
稲垣雅之指揮
フィルハーモニー交響楽団

令和6(2024)年4月7日、神奈川、横浜、横浜みなとみらいホール 大ホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:メシアン 鳥のカタログ1

東京の図書館から、今回から3回シリーズで、府中市立図書館のライブラリである、メシアンの「鳥のカタログ」を収録したアルバムをご紹介します。第1回目の今回はその1枚目です。

メシアンの「鳥のカタログ」は、1956~58年に作曲された、ピアノ独奏曲です。この時期、約10年に渡りメシアンは鳥をテーマにした曲を集中的に発表しています。

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メシアンと言えば、フランスを代表する20世紀の音楽家で、特に「トゥランガリーラ交響曲」で有名です。この作品もいわば、20世紀音楽で流行った不協和音を多用した作品で、鳥あるいは鳥がいる風景を描いたものです。

なので、必ずしも鳥だけを表現しているとは言えないと言われますが、よくよく聞きますと、鳥の鳴き声のようなパッセージが随所に見られます。

この「鳥のカタログ」は7巻存在し、第4巻を中心に鏡像のようになっています。本来はそのように収録できればいいと思いますが、何せ全曲演奏すれば2時間を超える大曲です。そうなると、いくつかに分けざるを得ず、特にCDで収録するとその収録制限容量に左右されますから、どうしても鏡像のようにはいかないのが現実です。そのため、このアルバムは3つに分けられています。

今回取り上げる第1集には、第1巻から第3巻までが収録されています。どの曲においても、基本的にはその鳥の鳴き声がパッセージとして取り入れられているため、メシアンが生物や自然と言ったものに敬意を持っていたことは明白です。「トゥランガリーラ交響曲」で色彩を音楽で表現したのと同様に、「鳥のカタログ」では、鳥の鳴き声を一つのモティーフにして、風景を描いていると言っていいのではないでしょうか。

この第1集で素晴らしいのは、ピアノでおのおのの鳥の鳴き声を表現しているという点で、特に第3巻の「モリフクロウ」です。フクロウの鳴き声は、よく知られているのは「ホウホウ」というものですが、これを打鍵するピアノで、繊細に描いてみせているんです!それ以外でも、打鍵するピアノで素晴らしく歌わせていると感じますが、「モリフクロウ」は別格だと思います。

ピアノは世界を一台で表現するとはよく言われますが、その実例として、この「モリフクロウ」は最適であると言っていいでしょう。単に時代的にピアノの性能が上がったと言うだけではなく、その性能を表現に生かす手法の進歩を感じます。そしてそれは、実はベートーヴェン以降の作曲家たちの延長線上でもあります。

以前であれば、不協和音がある作品を私はあまり好まなかったですし、拒否すらしてきましたが、最近はその不協和音の中に味わいがあり、人間の主張が詰まっていると感じるように変化しました。様式や技術の進歩に目を向けることで、むしろ古いものも新しいものも受け入れられる自分がいます。それは単に新しいものが素晴らしく古いものは捨てるべきという思想からではなく、新しいものがどのような歴史の中で生まれてきたのかを知ることにより可能になったと言えます。

メシアンの芸術の根幹は何か?その探求が、私に「鳥のカタログ」を手に取らせたと言えます。そして、私自身はメシアンの芸術を単に色彩感覚だけで捉えるべきではないと主張します。それは、少なくとも「鳥のカタログ」では、色彩という表現にとどまっていないからです。そうしないと、鳥の鳴き声をパッセージとして使う理由が説明できないのです。色彩を表現した作曲家という定義は、メシアンに対しては限定的に使うべきだと思います。そうではなく、クラシック音楽において、表現の幅を色彩までに拡大した作曲家がメシアンであると定義づけるほうが適切でしょう。いきなり、メシアンという作曲家がいかなるものかの定義を覆してくれるのは嬉しいですね!

その貢献をしているのは、演奏するアナトール・ウゴルスキ。生まれは旧ソ連なのですが、キャリアの中で前衛音楽に傾倒したことで迫害を受け、西欧に亡命したというピアニストでもあります。

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ウゴルスキの前衛音楽への興味というものが、演奏に作品が持つ生命の表現につながっているように聴こえるのです。迫害の中で自らの信念を曲げなかったピアニストだからこそ表現できる境地・・・

都市ではなく地方にいたからこそ感じ取れる、自然の息吹やその「声」が、ウゴルスキの演奏には満ちているように聴こえます。故に、メシアンが作品で表現したいものが、演奏で自然と浮かび上がるのではないでしょうか。単に力強い打鍵だけで自らの演奏を誇示するようなものではなく、自らの技術を表現に全身全霊で持って使い、聴衆に届けることに資力しているように聴こえるのです。この点でも、ウゴルスキは称賛に値するピアニストであると言っていいでしょう。

昨年8月に永眠した、ウゴルスキ。このシリーズにおいて、じっくりその演奏を味わいたいと思います。

 


聴いている音源
オリヴィエ・メシアン作曲
鳥のカタログ
 第1番:キバシガラス
 第2番:キガシラコウライウグイス
 第3番:イソヒヨドリ
 第4番:カオグロヒタキ
 第5番:モリフクロウ
 第6番:モリヒバリ
アナトール・ウゴルスキ―(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書~:チャイコフスキー国際音楽コンクール1990ガラ・コンサート

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、1990年のチャイコフスキー国際音楽コンクールのガラ・コンサートを収録したアルバムをご紹介します。

チャイコフスキー国際音楽コンクールは、4年おきに開催される国際音楽コンクールです。以前は三大国際音楽コンクールと呼ばれましたが、2022年のロシアによるウクライナ侵攻で、国際音楽コンクール連盟から排除されました。

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このコンクールは、主催国ロシアの芸術家がひしめき合うコンクールで、ロシア以外の演奏家が賞取るのはなかなか難しいコンクールでもあります。ウィキペディアの該当ページを見ても、多くはロシアや旧ソ連演奏家が賞を取っています。

その中で、1990年にヴァイオリン部門で当時歴史上最年少で優勝したのが、日本人である諏訪内晶子です。

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一方、その年のピアノ部門優勝が、ボリス・ベレゾフスキーです。

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二人の活動は、ロシアのウクライナ侵攻により、明暗が分かれる結果になっています。諏訪内さんはこれ以降、勉学に励みながら、さらに実力をつけ、現在も演奏活動にいそしんでいますが、ベレゾフスキーは、その発言からほぼ除名状態になっています。

このアルバムは、その二人の優勝を記念した、ガラ・コンサートが収録されています。チャイコフスキー国際音楽コンクールでは定番になっています。ウィキの説明では、オーケストラはロス・シンフォニーが担当したと記載がありますが、借りてきたCDにはモスクワ・フィルの記載があります。私も当時NHKBSで見た記憶がありますが、オーケストラについての詳しい説明はなかったように記憶しています。おそらくですが、コンクールの最中はアマチュアのロスト・フィルが担当し、最後のガラ・コンサートだけモスクワ・フィルが担当したのだろうと思います。モスクワ・フィルはそもそもこのコンクールにおいて担当オーケストラですが、アマチュアに変わった理由がストライキですので、そのストライキがガラ・コンサートまでに解消したということだと思います。

このアルバムを聴きますと、本当にもったいないことをロシアはしたものだなあと思います。諏訪内さんも特に歌いまくる豊潤なヴァイオリンですし、ベレゾフスキーも、激しくも正確かつ生命力のあるピアノです。ただ、個人的に言えば、演奏としては諏訪内さんのほうが好きですね。メリハリがしっかりついているため、作品が持つ生命力や魂が浮かび上がってきます。一方のベレゾフスキーは、どこか自分の技術をひけらかしているという印象がぬぐえません。

さらに、指揮者であるキタエンコのテンポは、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲でも、ピアノ協奏曲でも、私が好きなテンポではなく、正直言えばあまりいい演奏だと認識できません。それでも、やはり諏訪内さんのヴァイオリンには、どこか人間味を感じるのです。しかし、ベレゾフスキーのピアノには、人間味が感じられず、説得力のある演奏になっていません。

ですが、拍手は断然ベレゾフスキーの方に多いのが印象的。とはいえ、諏訪内さんの演奏でも、ヴァイオリン協奏曲の第1楽章が終った後に拍手が沸き起こっています。ある意味スーパーアウェイの中で、諏訪内さんは聴衆に説得力のある演奏をしてみせたと言えましょう。

それは、諏訪内さんの謙虚さからきているのかもしれません。実際、諏訪内さんはロシアによるウクライナ侵攻後も演奏活動を続けているわけで、ソ連あるいはロシア政府の庇護下で学び演奏活動をしてきたベレゾフスキーは、ちょっとした言動で排除されてしまったのですから。この差を説明するには、単に戦争における相対する側ということでは説明しきれず、やはり二人の人間性ということになるでしょう。特に、諏訪内さんは女性ということで、どちらかと言えば虐げられてきた人間であり、ベレゾフスキーは男性かつ政府により庇護を受けてきた(特に旧ソ連では、体制に歯向かうことは死すら意味する)ので、その言動に配慮が足らないのは当然だとも言えるでしょう。その差が、その後の活動の明暗を分けたと言えるのではないでしょうか。

そしてその差が、私自身は演奏に出ているような気がしています。チャイコフスキーは確かにロシアの作曲家ですが、一人の人間であり、芸術家です。その人間が紡ぎ出したものを、どれだけ楽譜から掬い取り、人間の「歌」として表現しようとしたのか?というところは、批判の対象であろうと思います。諏訪内さんはその表現にすぐれ、ベレゾフスキーは単に政府の威光で第1位になったに過ぎなかったのでは?という気がしています。勿論、ベレゾフスキーのピアノがダメというわけではないんですが、どこかただ弾きましたという印象が強いのです。特にテンポが速いパッセージで顕著で、そこが技術を単にひけらかしているだけのように聴こえてしまうんです。

キタエンコと言えば、激しい中でも人間味があるタクトを振る人ですが、やはり自国のピアニストということで、どこか変に素晴らしく見せようという印象も受けます。一方で諏訪内さんに対しては、これでいいでしょ?みたいな演奏が、テンポからも見えてしまいます。

その中でも、見事なヴァイオリンを聴かせた諏訪内さんは、やはりするべくして優勝したのだと、この演奏を聴いて感じます。その意味では、今一度、この演奏は評価するべき演奏だと思います。チャイコフスキー国際音楽コンクールだから聴かないのではなく、サッカーでスーパーアウェイであっても応援に行くサポーターと同じく、私達クラシックファンも、いつまでも語り継ぐべき演奏であると思います。

 


聴いている音源
チャイコフスキー国際コンクール1990ガラ・コンサート・ライヴ
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲
ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35
ピアノ協奏曲第1番変ロ長調作品23
諏訪内晶子(ヴァイオリン)
ボリス・ベレゾフスキー(ピアノ)
ドミトリ・キタエンコ指揮
モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

コンサート雑感:PROJECT B 2024を聴いて

コンサート雑感、今回は令和6(2024)年3月30日に聴きに行きました、PROJECT B 2024のレビューです。

PROJECT Bとは、ベートーヴェンブラームス管弦楽作品をすべて演奏すると言う企画で、そのために結成されたオーケストラの演奏会です。昨年はベートーヴェン交響曲第9番「合唱付き」が演奏されています。

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昨年ようやく聴きに行けたのですが、実はもうほとんど演奏しつくしており、実は来年でこのプロジェクトは終了だそうです。

さて、今年は終了前年ということで、残っているブラームスの作品が演奏されました。ちなみに、ベートーヴェンは全て演奏し終わっているそうです。

今年のプログラムは以下の通り。

オール・ブラームス・プログラム
①ヴァイオリン協奏曲ニ長調
交響曲第2番

序曲とかは今回ありません。そういう作品もすべて演奏しつくしておりますし、実際、この2曲でも休憩をはさんでほぼ2時間です。まあ。2時間以上がザラであるオーケストラ・ダスビダーニャという団体もありますが・・・あれは例外中の例外だと言えます。普通はコンサートは2時間で終わるようにプログラムを組みます。聴衆の集中力などもありますが、そもそも使用料の問題もあります・・・いや、使用料が殆どの問題を占めると言っていいのではと思います・・・特に今回、ホールがミューザ川崎シンフォニーホールですし。

それにしても、アマチュアオーケストラでミューザ川崎を選ぶと言うのは、ある程度の技量があるオーケストラじゃないと、なかなかしんどいと思います。私もかわさき合唱祭りで舞台に立ちましたが、本当にここは自分の声が返ってこないので・・・もちろん、客席ではしっかりと響いています。

そのあたりはオーケストラであっても同じです。ということは、隣の音を相互に聴きあわないとアンサンブルが崩れることを意味します。

そのうえで、今回1プロは協奏曲。アマチュアではなかなか難しいジャンルです。しかも、今回のソリスト中村太地さん。現在世界で活躍中の若手です。その名手と合わせるということは、オーケストラにもそれなりの技量が求められるということになります。

指揮者の畑農さんはそもそもは会社員をしながら指揮の勉強をしてアマチュアオーケストラの指揮で活躍している方なのですが、オーケストラのリスペクトが半端ないことは、演奏が始まればすぐわかります。昨年同様の、やせた音などみじんもない、素晴らしいアンサンブルが響くのです!

特に、演奏に生命力があることもこのオーケストラの特徴です。アマチュアだからと言って侮るなかれ。そこにはプロオケと言ってもさしつかえないほどのレベルの演奏が存在します。ソリストの演奏と対等に渡り合い、作品の魂が自然と現出するその様子は、もうプロオケを聴きに行く必要などない!と思わせます。

私はその前日に、バッハ・コレギウム・ジャパンの「マタイ受難曲」を聴きに行っていますが、やっぱりバッハ・コレギウム・ジャパンのほうがいいなあと思った瞬間は一度もありません。どっちも聴きたい!です。それくらい、感情移入も素晴らしい熱演でした。

ソリストのアンコールはバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータから「サラバンド」でしたが、忘却の彼方へと行くかのようなさみしさがにじみ出るような素晴らしいヴァイオリンに対し、全くそん色ないオーケストラの表現力は、もうアマチュアのレベルを超えていると言っていいでしょう。

後半のブラームス交響曲第2番。第1番よりは明るい曲で、ブラームスがのびのびと作品を書いたような印象が強い曲です。それを本当にのびのびと、まるでそこにブラームスがいるかのように、共感の波が押し寄せます。私は今回、舞台を囲む位置に座りましたが、それでもppからffまでの表現が申し分なく、その強弱が作品の内面、あるいは精神、魂と言ったものを自然と浮かび上がらせます。昨年もサントリーホールで真横あたりで聴きましたが、それでも全くそん色ない演奏がアマチュアで出来るのも、幸せな時間です。もう一度繰り返しますが、プロではなくアマチュアです・・・

好きこそものの上手なれ、という言葉がありますが、まさにその言葉を体現しているオーケストラだと言っていいでしょう。徹頭徹尾作品の表情の表現が素晴らしく、ブラームスが言いたいことは何だろう?とすら考えるほどです。楽譜としっかり向き合っているなあと感じます。

アンコールはブラームスの子守歌ですが、これもやさしさにあふれる演奏。ブラームスという、ちょっとシャイな作曲家の、その魂を掬い取るかのような表現力は見事!ベートーヴェンブラームスを演奏したいがため結成されているということもあるとは思いますが、そもそも指揮者もアマチュアと言っていいほどなのに、その譜読みの確かさと指示の的確さが、オーケストラに支持されているのでしょう。まさに畑農氏の元にはせ参じた人たちによる演奏なのだと感じます。それもまた、聴いていて心地よい!

来年が最後だなんて、とてもさみしいですが、しかしだからこそ、来年もぜひとも足を運ばねば!と思った次第です。

 


聴いて来たコンサート
PROJECT B 2024
ヨハネス・ブラームス作曲
ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77
交響曲第2番ニ長調作品73
5つの歌作品49より「ブラームスの子守歌」(オーケストラ・アンコール)
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティ―タ第2番ニ短調BWV1004より「サラバンド」(ソリスト・アンコール)
中村太地(ヴァイオリン)
畑農俊哉指揮
PROJECT B オーケストラ

令和6(2024)年3月30日、神奈川、川崎、ミューザ川崎シンフォニーホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ヤナーチェク ピアノ作品集

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、ヤナーチェクのピアノ作品集を取り上げます。

ヤナーチェクチェコの作曲家です。チェコと言っても、当時はモラヴィアといい、チェコ東部の地方になります。ブルノがある地方と言えば、ピン!と来る人もいらっしゃるかもしれません。

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そもそもは、チェコの中でもモラヴィア王国だったことから独自の文化を持っています。グラゴール文字という独自の文字を持っていたことでも知られ、ドヴォルザークの「グラゴル・ミサ」を知っているかたであれば、ドヴォルザークと同郷と気づくことでしょう。勿論、この二人は友人です。とはいえ、音楽の方向性は異なります。

ヤナーチェクはより民族的な音楽を書きました。そのうえで、自らの内面を表現する音楽が、ピアノ作品だと言われます。ヤナーチェクのピアノ作品に以前から興味を持っていたので、借りてきたというわけでした。

まず、1曲目は「ズデンカ変奏曲」。栄えある作品1です。これはドイツ的な主題と変奏がなされる曲で、ヤナーチェクがドイツへ留学していた時に作曲されたものです。この時、ヤナーチェクはズデンカ・シュルツォヴァーという女性と仲良くなり、その女性を想って作曲したのがこの作品です。

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ドイツロマン主義に満ちた作品ですが、一方でこのロマン派様式に触れたからこそ、ヤナーチェクパトリオティズムが生まれたとも言われています。国民楽派とは、ある意味ドイツ後期ロマン派の一様式とも言えます。ただ、ドイツ的な価値観からは距離を取るというのが特徴です。それは当時ヨーロッパに勃興していた国民国家の価値観に由来するもので、ある意味複雑なのですよね。その複雑さを単純化するのは危険だなあと私は考えています。簡単に説明するためには、複雑な国際情勢が絡み合っていると説明するほうが、本質を理解しやすいと思いますので私は今回そう書くことにしています。

続く2つはピアノ小品集の「草かげの小径にて」。第1集と第2集の二つ全曲が収録されています。第1集には標題がついており、第2集には指示表記が記載されています。これは出版年の違いによるもので、第1集はヤナーチェク生前の1908年に、第2集は死後の1942年に発表・出版されています。どちらも夭折したヤナーチェクの娘オルガの追悼のために作曲されました。

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そもそもは、第2集も含めて1911年には完成していましたが、その当時は出版されていたのは第1集の10曲のみ。そのため、死後出版された第2集においては、表題がついていないということなのですが、恐らく、第1集の標題は出版するときに付けたのでは?という気がします。ヤナーチェクの中にはある程度のイメージがあって作曲したのだと思いますが、正式な標題は作曲時付けていなかったのが第2集の作品群だと言っていいでしょう。

続くのが、ヤナーチェク唯一のピアノ・ソナタである、「1905年10月1日、街頭から」。たぶんに民族意識が強い作品であり、ゆえに出版まで複雑な経緯をたどった作品です。1905年に発生した、チェコ人青年の射殺事件が基になっています。

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注目すべきは、2楽章であると言うこと。4楽章でもなく、3楽章でもないという点が重要だと私は考えます。4楽章となれば多分にドイツ的ですし、3楽章だと「自由」を暗喩するのですが、その自由もない。故にそれ以外の楽章数を選択せざるを得なかったヤナーチェクの心情が見て取れます。ここで言う「ドイツ的」というのは、ヤナーチェクが生きた時代のドイツ的という意味であって、ベートーヴェンなどを必ずしも指すわけではないと私は判断しています。なぜなら、ではなぜ2楽章という、ベートーヴェンがピアノ・ソナタで用いている楽章数をヤナーチェクは選択したのかで、整合性が取れないからです。

つまり、ヤナーチェクパトリオティズム(あえて私は「愛国主義」という日本語を使いません。なぜなら、言葉としては国家主義愛国主義は異なるのですが、我が国においては同列に置かれるからで、私はそれに異を唱えるからです)はベートーヴェンの自立した作曲家という「個人の自由」の思想に立脚すると考えるからです。この辺り、理解できていない人は多そうですね。国連の常任理事国であるとあるスラヴ民族の国家元首が正しいとか言う人たちとか・・・

その「個人の自由」の延長線上に、ヤナーチェクの「国家の自立と自由、尊厳」はリンクしているように思います。おそらくですが、ヤナーチェクが生きた時代も、そんな民族主義の勃興の中で、。同じパトリオティストの中で対立があったのだろうなあと想像します。

その次に収録されているのが「霧の中で」。すでに齢60近くになりベテランの域に達したヤナーチェクですが、その名声という意味では不透明さがあった時期に作曲された作品です。まさに自分自身を取り巻く状況が「霧」に近いと考えていたことがうかがえ、ストレートな作品だとも言えます。

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ピティナでは内面の吐露という面では弱いと記載がありますが、その弱弱しさと気品こそ、ヤナーチェクのメッセージだと私は受け取ります。故に、ヤナーチェクの内面が強く浮かび上がるように感じるからです。自らの弱弱しさにしっかり向き合い、それでも希望を捨てないヤナーチェクの内面が見えるのです。

最後の曲が「思い出」。ここではあまり民族的な強さはありませんがかといってドイツ的でもない、ヤナーチェクが到達した一つの境地が詰まっている作品ではないでしょうか。作曲年は1928年。この年、ヤナーチェクが亡くなっていることを考えますと、自分の人生の振り返りだとも考えられます。

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演奏するのは、ルドルフ・フィルクシュニー。彼はモラヴィア出身のピアニスト。故に、ヤナーチェクの作品の演奏に最適だと言えます。しかも、フィルクシュニーはヤナーチェクの弟子でもあります。

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このアルバム全体としては、歌いすぎず、しかし楽譜から作曲家の内面を掬い取るような演奏をしています。のめり込みすぎず、冷静に楽譜と向き合いながらも、自らの情熱と楽譜との整合性を計っているかのように見えます。故に、作曲者が作品に込めた喜怒哀楽が、自然と浮かび上がるようです。ヤナーチェクという人間を知っているからこその表現は、実に繊細かつ力強さを持ち、私の魂を揺らします。そして、ヤナーチェクもまた、私にとって仲間なのだと知らしめてくれるのです。私も仲間なんです、あなたもでしょ?と軽くウィンクしているかのよう。

それは、やはりフィルクシュニーが望んでヤナーチェクの弟子になったということが背景にあるように思います。フィルクシュニーは単にヤナーチェクに憧れて弟子になったのではなく、仲間だと思ったからこそ弟子になったと私は感じるのです。その強い関係性が、フィルクシュニーにとって表現の基礎ではないかと思います。故に、演奏が魂を揺らすのだと思います。

ヤナーチェクはどうしても同じチェコの作曲家だとドヴォルザークスメタナ、マルチヌーと言った作曲家の陰に埋もれがちですが、こう聞いてみますと、どうしてどうして、はっきりと並び立つ作曲家であると言えるでしょう。この点でもやはり、私が以前から貫き通している「あまり聴いたことがない作曲家の作品はまず室内楽から聴いてみるべし」が適切であることを強く感じるものです。

 


聴いている音源
レオシュ・ヤナーチェク作曲
主題と変奏(ズデンカ変奏曲)
ピアノ小品集「草かげの小径にて」第1集
ピアノ小品集「草かげの小径にて」第2集
ピアノ・ソナタ「1905年10月1日、街頭から」
霧の中で
思い出(1928)
ルドルフ・フィルクシュニー(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。