かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~マゼールとウィーン・フィルのマーラー交響曲全集1

東京の図書館から、今回から9回シリーズで、小金井市立図書館のライブラリである、ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるマーラー交響曲全集をとりあげます。

マーラー交響曲全てを集めるというのは、以前神奈川県立図書館にて行いましたが、その時は演奏者などはあえてバラバラにしました。今回は同じ指揮者とオケでまとめた、ということになります。

しかも、マーラーではそれほどいいとは言われない、マゼールウィーン・フィルを振ったものとくれば、逆に興味が湧く、というもの。このコンビでそれほど悪かろうはずがないので。マゼールってそれほど悪い指揮者でしょうかねえ・・・・・

むしろ、私はマゼールが振ったもので、間違いだったためしがないのです。ですので、棚にずらりと並んだマーラー交響曲全集を見たとき、これは借りよう!と意外と早く決断したのを覚えています。

マーラーもいくつかの作品では校訂などが入っていることがありますが、その代表選手ともいうべきなのが第1番でしょう。この全集、番号順で収録されていますので、第1集は第1番、ということになります。そしてこの第1番は、以前も取り上げていますが「花の章」というものがかつては有ったものを、削除して通常の4楽章の交響曲に仕上げた、というものです。

この演奏では、あまりそんな経緯は考慮していないように思われますが、むしろザッツ後期ロマン派という解釈で貫かれているように思います。第4楽章でテンポなどちょっとアレ?と思う部分もあるのですが、さすがこのコンビ、説得力ある演奏を聴かせてくれます。まるでイッセルシュテット指揮ウィーン・フィルベートーヴェンのように・・・・・

まあ、それがウィーン・フィルだともいえるのですよね~。マゼールウィーン・フィルの団員からは親しまれているというか、好きにやらせてくれるという意味で好感を持たれていたようで、いずれにしても信頼関係ばっちし。

聴いている限りにおいては、マゼールウィーン・フィルを好きにやらせているというよりは、お互いの解釈がほぼ合っているため、指示出しとかがそれほど必要なかったというほうが正しい描写なのだろうと思います。それをたまたまウィーン・フィルの団員たちが「好きにやらせてくれる」と言って、拡散したのだろうと思います。演奏をやったことがあれば、そこまで好きにやるかなあと思うのが普通なのですよねえ。解釈のすり合わせはどこかでやらなくてはならないはずですしね。

それなら、指揮者なんて要らないですからね。もちろん、よく言われるのが、ウィーン・フィルでは最も偉いのがコンサートマスターであり、その次が音楽監督である、というもの。オケはタクトよりはコンマスボウイングを見て合わせる、というものですが、確かにアンサンブルやアインザッツを合わすときに緊急の時はそのようにするとは思うのですが、そう番度じゃないだろーとは思うのです。

そういうううわさだったりとはか、昔はわたしも信じている部分がありましたが、自分で舞台に立ち、実際にタクトとどう合わせるのかをさんざん経験してくると、ちょっと変だぞ、と思うものなのです。そのうえで社会人として仕事でいろんな経験もしてくると、いつもそんなことはあり得ないだろうなあとわかるものです。

ウィーン・フィルの自律性を表現するための、端的な著述に過ぎないと私は思っており、実際にはもっと自在に指揮者と合わせていくだろうと思います。むしろこの指揮者のタクトはおかしいからコンマスに合わす、この指揮者なら見やすいので指揮者に合わせ、緊急時のみコンマスボウイング、としているはずなんです。

その意思疎通がはっきりと示されているのが、第4楽章最後の部分でいきなりアップテンポになる部分。非常に感動的な部分ですが、それはマゼールとオケとの信頼関係だろうなあと思います。その時はさすがにコンマスボウイングとしているかもしれませんね。

特にマーラーのような、目くるめく場面が変わっていくみたいな作品を演奏するときは、タクトの打点で合わすのかそれともボウイングで合わすのかをあらかじめ決めておくことは非常に重要なのです。ゲネプロでのテンポと本番のテンポが変わるということも、まれにありますので・・・・・それが人間というものですけれど。

マーラー交響曲は、好き嫌いが結構激しく分かれる代物ですが、演奏経験を持つひとだと、結構ニヤリ、とする部分があり、このマゼールウィーン・フィルの演奏でも、いくつもそんな部分があるのが、聴いていて楽しいところです。

 


聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
交響曲第1番ニ長調「巨人」
ロリン・マゼール指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~伊福部昭 釧路湿原

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリをご紹介します。伊福部昭の交響的音画「釧路湿原」を収録したアルバムです。

棚で見たとき、ほほう、伊福部もこういう作品書いているのね~と思い、手に取ったのを覚えています。しかも、演奏は新星日本交響楽団とずいぶん懐かしい名前。現在は東京フィルと合併したので存在しないオケですが、若いだけあり生命力はあったオケでもあります。

そんなオケを、ベテラン大友氏が振っているこのアルバム、じつはある目的のために作曲され、収録されたものでした。1993年、釧路にて「特に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約」、通称ラムサール条約の第5回締結国会議がおこなわれました。その時に会場で放映され続けたNHKのハイビジョン「釧路湿原讃歌」のBGMとして作曲されたのがこの「釧路湿原」です。

伊福部は北海道出身でもあり、一時は営林署に勤めていたサラリーマンでもありました。そんな自然保護ともかかわりのある作曲家が作る、自然賛美の音楽・・・・・

伊福部らしいオスティナートたっぷりな、日本の旋律も詰まった、まさに日本が誇る湿地というものを歌い上げる作品です。スメタナの「わが祖国」第4曲「ボヘミアの森と草原より」のような物語性はほとんどないですが、同じく自然の美しさを歌い上げる作品にはなっており、4楽章をそれぞれ四季に分けています。しかも、第1楽章は夏。最終楽章を春にしているのです。これは上手な構成だと思います。なぜなら、緑豊かな夏から枯れる秋、そして厳しい冬を経て、再生の春でクライマックス、となるからです。

つまり、じつはしっかりとストーリーもあるわけ、なのです。心憎いなあと思います。テンポが一貫してゆったりであるためか、オケものびのびと演奏している様子がうかがわれ、だからこそ生命力も感じられます。

実は釧路湿原は、鉄道ファンにとっても垂涎の場所。そこを走る釧網本線は本数も少なく、かつのんびり走ることから風景がとても美しく、遠くから見ても、そして乗車していても美しい風景が流れていきます。とはいえ、ここに行くのは本当に大変。そんな風景を、音楽を聴いているとふと想像できたりします。特に、根室本線の先端部、釧路から根室の間は、来年春廃止も予定されています。つまりそれだけ人口が少ないため、自然も残ったとも言えるでしょう(高速道路もまだ開通しておらず、釧路までは貨物列車も数多く設定されています)。

鉄道ファンとしてはさみしい話題もある釧路湿原周辺ですが、廃止となる路線があるくらいの状況でないと、湿原の手つかずの自然を守り抜くこともまた、難しかったろうと思います。実際、釧路湿原は何度も開発の話があっては立ち消えた場所。さらには水害も多い場所でした。湿原に存在する三日月湖は、かつての川です。

そんな湿原の持つ雄大さ、歴史を踏まえた、伊福部らしい作品を、大友氏は真正面から向き合い、オケを朗々と歌わせるのです。伊福部と言えば、そのオスティナートはリズミカルで、まるで打楽器というイメージも強いのですが、こういう壮大かつ雄大な作品も書くのか、と驚きを隠せませんでした。しかし何度も聴いているうちにその徹頭徹尾の美しさに魅了され、伊福部の芸術の一面を見させてもらった気がします。

もしかすると、伊福部の作品と言えば!と固定観念でアルバムを作っていないかなあ、という疑念が私の中でふつふつと・・・・・日本人なのに、まだまだ私は伊福部の芸術を知らねえなあ、と反省しています。

 


聴いている音源
伊福部昭作曲
交響的音画「釧路湿原
大友直人指揮
新星日本交響楽団

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今月のお買いもの:スメタナ スウェーデン時代の交響詩集

今月のお買いもの、令和2(2020)年5月に購入したものをご紹介しています。スメタナスウェーデン時代の交響詩を収録したアルバムをご紹介します。e-onkyoネットストアで購入したハイレゾです。

スメタナと言えば、連作交響詩「わが祖国」で有名ですが、実は数多くの作品を書いています。それは交響詩でも例外ではなくて、「わが祖国」以外でもいくつか残しています。

それは知っていたのですが、では具体的にそれを聴いたことはあるかと言えばなくて、そんな折に検索していたら見つけたのがこの音源です。レーベルはナクソスで、こういう作品を取り上げるのはさすがナクソスだなあと思います。ハイレゾなので音もいいですし。

さて、このアルバムには「スウェーデン時代」とあります。スメタナチェコで名声を得ましたが、じつはその前にチェコ以外の国で活動しています。当時ヨーロッパは国民国家が成立するという時代。どの国でも民族主義が台頭し、時には不健康な姿すら見せていました。

そんな嵐の時代に、スメタナは作曲をしていたということはわかっていていいのではないでしょうか。さらに言えば、チェコはまだ他国の支配、あるいは影響下の中にいました。そんな中、自由な創作を求めて周辺国へのがれ、活動していた時期があり、スウェーデンにいた時代もそんな時期の一つです。

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スメタナ自身は民族派と言われる潮流の中にいました。もう少しリベラルなのが実はドヴォルザークで、両者は対立関係にありました。今から見ればどちらも十分民族的なのでささいなことをと思いますが、他国の強い影響下にある中では、そうならざるを得なかったということもあるでしょう。あれ、アジアのどこかの国みたいですねえ。

ええ、我が国のことです。やれ媚中だやれアメリカの押し付け憲法だとか、他国の影響力が強すぎるためにフラストレーションがたまり、極端な民族派が力を握っているという現状は当時のチェコそっくり、なのです。ですので私は常にスメタナドヴォルザークの作品を聴くにつれ、当時のチェコと今の日本に想いを馳せるのです。さて、今の〇〇会議の方々が、結局はどちらも変らないわけだからと極端な左翼叩きなどやめるのは何時になるのでしょうか・・・・・

さて、話をスメタナに戻しましょう。それでもドイツ的だと認識されてしまったスメタナは、なかなか成功せず、スウェーデンへ移住します。そんな中で書かれたのがここに紹介する交響詩です。

確かに、私たちは「わが祖国」のイメージが強いので、スメタナは極右ではなのかと思いがちなのですが、むしろスメタナは日本で言えば自民党リベラルのような立ち位置です。ドヴォルザーク立憲民主党という感じでしょうか。そんなスメタナです、じつはここに収録されている交響詩の中で、チェコを題材にしているのは実は一つもないのです。リチャード三世はイギリス・シェイクスピアの舞台が元ですし、「ワレンシュタインの陣営」はドイツの詩人、シラーの詩が元になっています。そして最後の「ハーコン・ヤルル」はスウェーデンのバイキングの英雄を題材にしており、チェコを思ったものは最後の「勝利の交響曲」だけです。これも現在では祝典交響曲と言われているものです。

こう見てみると、確かに当時スメタナのイメージは悪かったろうなあと思います。もちろん私から見れば十分チェコ的ですからくだらないんですが、当時は嫌な思いをたくさんしたわけです。チェコの政治体制が変ったのでチェコに戻っても、急進的民族派の影響力は強く、スメタナはなかなか成功しません(その意味では、早くからヨーロッパ全土で活躍するためドイツの作曲コンクールにせっせと作品を送って、ブラームスに見いだされることを選択したドヴォルザークは正しかったともいえます)。彼が認められたのは「わが祖国」の成立です。そして民族的題材のオペラ。この二つでようやく落ち着いたと言えます(実際は、失聴などで晩年もつらい思いをしますが)。

私とすれば、聴けば聴くほど、後年の煽情的なスメタナの音楽スタイルがすでに確立していると思うのです。そのスタイルを、チェコを思うのではなく、受け入れてくれているスウェーデンのためや、自分自身の感動を音楽で表現するなどで残したという作品たちばかりなのです。特に「リチャード三世」はオペラ「リブシェ」序曲に似た旋律もあり、リチャード三世をどこか祖国と重ね合わせているような感覚すら受けます(それだけで十分民族的ですけれど、当時も今も「うましかさん」がわんさかいた、というわけです)。

ja.wikipedia.org

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え、チェコではリチャード三世上演できなかったのか?と思うかもしれません。できなかったとするだけの材料を私は持っていませんが、その可能性は高かったろうと思います。そうじゃないとスウェーデンへ移住しようと思うのか?と思います。スメタナ民族派ですが自由主義者でもあります。そんな人間が「王国」へ移住するのです。どれほどの閉塞感がスメタナにあったかは、それで想像できるでしょう。そんな時期の作品達だということを知って聴くと、私など落涙寸前になります。少なくとも、スウェーデンで上演を見て感動してスメタナが書いたのは間違いありませんから。

演奏はスヴァロフスキー指揮スロヴァキア・フィル。オケはナクソス常連のステディな演奏で定評のあるオケですが、ここではやはり昔は一つの国だったということもあり、かなり感情移入している感じを受けます。いいテンポとそのテンポが生み出すドラマが私にとってはちょうどよく、スメタナの立ち位置を明確にしているとすら思うのです。チェコ・フィルではなくスロヴァキア・フィルだからこその視点というか。

チェコと言えば、「プラハの春」などで私たちとしては感情移入もする国ではありますが、同時に連邦国家として様々な問題も抱えた国でした。そのためのちにそれぞれチェコとスロヴァキアに分かれたわけで、その一方のスロヴァキアのオケだと、冷静に物事を見ることができるように思うのです。そんな冷静かつ情熱的な感覚が見事にドラマとして結実したのが、この演奏だと思います。さて、韓国のオケが日本の民族的作品を演奏する日は来るのでしょうか?あるいはその逆は・・・・・両国の政治状況だと、なかなか遠い未来のように思われます。その意味では、チェコとスロヴァキアの関係性はうらやましいです。

 


聴いているハイレゾ
べドルジハ・スメタナ作曲
交響詩「リチャード三世」
交響詩ワレンシュタインの陣営」
交響詩「ハーコン・ヤルル」
勝利の交響曲より第3楽章スケルツォ
レオス・スヴァロフスキー指揮
スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団
(Naxos 8.573597)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:カバレフスキー ピアノ作品集2

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、カバレフスキーのピアノ作品集を取り上げていますが、今回はその第2集です。

私が借りてきているのはこの第2集までなのでここで終わりですが、じつはこのCD、続きがあります。調べてみると第5集まで出ているようです。

そして、その大部分を占めるのが実はバッハの作品の編曲なのです。この第2集ではBWV553、BWV538の二つが収録されています。

expiano.org

この二つの作品はバッハのオルガン曲で、おそらくいずれもこのブログで取り上げたことがある作品です。それをカバレフスキーはピアノへと編曲しているのです。そしてそれはかなり原曲を意識しており、そのうえでモダンピアノで弾くことも配慮したものとなっています。

しかし、あれ?と思うはずです。カバレフスキーと言えば、旧ソ連社会主義リアリズムバリバリの音楽を書いていたはず、ですよね?それがなんと、ピアノ曲に関してはバッハのオルガン曲の編曲を残している、ということなのです。しかも結構数多く、です。

本来なら、バッハを取り上げるなど、「宗教はアヘンだ!」と叫ぶソ連で許されるはずがありません。しかしこのように残っているわけ、なのです。上記ブロガーの方はそれを期待してこの全集をそろえていらっしゃるわけでもあります。そのことを、パヨクとか言われる方々はどのように解釈されるのでしょうか。

さらには、「さくらさくら」を主題として変奏曲まで。これは民謡の主題による変奏曲作品87の第3曲で、アメリカ、フランス、そして日本の各々民謡を主題とする変奏曲がまとめられているもので、1967年の作曲。その当時バリバリ冷戦ですよ。各々敵国です。しかし、このように主題として使っており、これも「さくらさくら」の和音階がまず忠実に奏された後、徐々に西洋音階もつかいつつ和音階にて変奏されていく様子は見事であり、なんと!社会主義リアリズムの作曲家に、日本の和音階が普遍性を持つことを教えられます。

そのうえで、そのあとに収録されている、カバレフスキー作曲の作品は主に子供向け。ですから平易な音楽がそこにはありますが、かといって「これならわかりやすいよね!」という安易なものは一つもありません。むしろ和声としては多少複雑なものすらあり、カバレフスキーの作品の多様性をこれでもかと見せつけるものです。

これは演奏する有森氏の方針だったのか、それともレコード会社の方針だったのかはわかりませんが、いずれにしても、私たちが持つ先入観をこれでもかと破壊します。そのうえで歌い上げる共感の歌。繊細かつ透明感のある演奏が、むしろ暴力的にすら聴こえます。あなた方の認識は間違っているんだ!という・・・・・

とはいえ、それは静かなものですが。その静謐さの中に秘められた想いが、ビンビン伝わってきます。ここでも私は、ハンマーで頭をガツン!と殴られたような感覚になります。なんと自分の認識は浅く、浅はかだったか!と。こういう資料を図書館が持つということが、今こそ非常に大事だと思うのはわたしだけなのでしょうか?

こういう気骨のある日本人が少なくなったなあと、さみしさの中でも、演奏の暖かさを噛みしめています・・・・・

なお、最後の「子供のためのピアノ小曲集作品27」は、通常と異なり曲順が後ろからになっていることを付け加えておきます。

 


聴いている音源
ドミトリー・カバレフスキー作曲
8つの小前奏曲とフーガ第1番ハ長調BWV553(J.S.バッハ作曲、カバレフスキー編曲)
トッカータとフーガ ニ短調(ドリア風)BWV538(J.S.バッハ作曲、カバレフスキー編曲)
4つの前奏曲作品5
ロンド イ短調作品59
日本民謡による変奏曲(民謡の主題による変奏曲作品87より)
子供のためのピアノ小曲集作品27
有森博(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

神奈川県立図書館所蔵CD:カバレフスキー ピアノ作品集1

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、今回と次回の2回に渡り、旧ソ連の作曲家、カバレフスキーのピアノ作品集を取り上げます。

カバレフスキーと聞いて、ピンと来る方は少ないのではないかと思います。しかし実は最近カバレフスキーの作品をこのブログで取り上げているんです。「スーパーマリンバ」というアルバムをとりあげたとき、「道化師のギャロップ」が運動会でよく聴く作品だと述べているのですが、その作曲家がカバレフスキーなのです。

ja.wikipedia.org

実は、旧ソ連で結構辣腕を振るった作曲家だということを、検索するまでなかなかわかりませんでした。確かにわかりやすい音楽ではあり、社会主義リアリズムに沿った作品ではあると思いますが・・・・・

このピアノ作品全集の第1集に収録されている各曲を聴きますと、カバレフスキーの本当の姿は一体何だったのだろうと考えてしまいます。確かに一見するとわかりやすい作品たちが並んではいますが、結構陰影の差が強かったり、不協和音もつかっていたりと、おそらく私たちが批判的に見る「社会主義リアリズム」とはちょっとだけ違うように感じるのではないでしょうか。

例えば、第1曲のピアノ・ソナタ第3番。ピアノ作品の解説ではぴか一のピティナではどう解説しているかというと・・・・・

enc.piano.or.jp

「その中でも」という枕詞がありますよね?ということは、それ以外には結構難しい点もある、ということを示しています。では、第2番はどういう解説になっているかと言えば・・・・・・

enc.piano.or.jp

難易度には触れていないんです。実際は親しみやすい旋律ですけれども、聴けば少なくとも第3番よりは難しいのではないかなと思います。そして戦争を経た経験からの作品でもあるので、不協和音も結構並んでおり、どこが社会主義リアリズムのわかり易さだよ、って思います。

一方ソナチネはどれも平易でわかりやすい作品が並んでいますが、ソナチネにせよ、ソナタにせよ、作曲されたのはほとんど1945年前後なのです。その年代を考えると、まあ、そう簡単な旋律だけで収まるはずもないわけなんです。ではそれはなぜなのかと言えば、簡単に言えば、私たちが知っている以上に現場は複雑怪奇だったであろう、ということです。これはどの国のどんな政治体制であったとしても同じだと言えるでしょう。ただ、旧ソ連は国家による抑圧が強かったということは言えますけれど、そんな中でもカバレフスキーは自身の政治力を使って、結構自由にやっていた、ということは言えるのではないかと思います。そういう事は、本当にどの国でも起こりえます。実際、この日本でだって・・・・・ねえ。音楽家ではないですけれど、政治や法律の世界では今当たり前になってしまっていますよねえ。同じことです。

その意味では、このアルバムはその演奏によって、私たちの単細胞的な社会主義リアリズム批判に対し、ハンマーで頭を殴るような効果を持つのではないかと思います。演奏するのは日本人ピアニスト、有森博。ロシア作品のエキスパートだけあり、単純なソ連批判とは一線を画しているように思います。

arimori.info

現地の空気を吸い、日本とは違う大陸の雰囲気を存分に経験してきたそのピアニズムは、どこか境界線をしっかりと引き楽譜と向き合い、行間を掬い取り、自身の表現へと結実しているように思います。そこから浮かび上がるのは、美しいものを追求する芸術家の姿です。一人の芸術家が真摯に楽譜に向き合い、対話をし、その結果を演奏としてフィードバックした結果、芸術に真摯に向き合う一人の作曲家の姿が浮かび上がっているのが素晴らしいと思います。決して感動するとかそういう演奏ではないですし、作品達もそういったものではないんですが、しかし喜びだったり、けだるさだったり、楽しみだったりは確実に伝わってきます。そこには人間カバレフスキーが見え隠れしているように感じるのはわたしだけなのでしょうか。

いずれにしても、ピアニストから、その批判本当に正しい?と問いかけられているように感じるのです。そして私自身、ぼんやりとしたものはありますが、明確な答えを導き出すことはできていません。ただ、人間カバレフスキーという存在がいたということを、私自身は認識しているか?と自問はするのです。実はここに収録されているすべての作品は、3楽章形式、なのです・・・・・

 


聴いている音源
ドミトリー・カバレフスキー作曲
ピアノ・ソナタ第3番作品48
ピアノ・ソナタ第2番作品45
ソナチネ第2番作品13-2
ピアノ・ソナタ第1番作品6
ソナチネ第1番作品13-1
有森博(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:團伊玖磨 交響曲第6番

東京の図書館から、今回は府中市立図書館のライブラリをご紹介します。今回は團伊玖磨交響曲第6番を収録したアルバムを取り上げます。

三人の会で有名な團伊玖磨。あるいは、オペラ「夕鶴」で知っているという人も多いかと思います。確かこのブログでは稲見里恵女史が主演したオペラ「夕鶴」と、歌曲集「マレー乙女の歌へる」をとりあげたことがあったかと思います。

そのため、私の中では特段拒否することもない作曲家なのですが、国内の評価は決して高いものではありません。團氏が名家の出身ということもあるのかもしれませんが、そんなことはむしろ民主主義国であるからこそ関係ないはずです。実際、團氏は同じく名家出身のリベラル芥川也寸志氏と共に「三人の会」を組織していますし。

「三人の会」はその構成メンバーからして、当時は意欲的な活動だったと私は想像しています。なぜなら、そのメンバーは團伊玖磨芥川也寸志黛敏郎の三人ですから。うち黛氏はかなーり右の人。團伊玖磨が中道、そして芥川がやや左。政治思想では対立してしまいかねない三人が、クラシックという芸術で一つの団体を構成して、創作発表をする場を作る・・・・・戦後日本の理想像としていたのではないでしょうか。

そんな團氏が、自民党系の青年会議所の一つである、広島青年会議所の平和問題委員会より依頼を受けて作曲したのが、ここに収録されている交響曲第6番「HIROSHIMA」です。

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欧州の作曲家のような、悲劇的な部分はあまりなくて、むしろ作品は元になった詩の内容から、広島という都市が戦後復興してきたことの賛美になっています。しかし、原爆だとか戦争というものがそこに無いのかと言えばそんなことはなく、とても日本的な旋律、そして篠笛など和楽器も編成の中に入っているにもかかわらず、じつは交響曲としてはフランス式を取ります。この作品、じつは3楽章であるということが、いろんなレビューを見ても触れられていないのは実に残念です。

3楽章ということは、その根底メッセージは「自由」である、ということなのです。これを受け取れない、ある意味政治的プロパガンダを狙ったレビューが多くネット上には存在することを意味します。三楽章形式なのですから、團伊玖磨がそこに込めたメッセージは自由だった、ということになります。そしてそれは、平和へとつながる・・・・・自由な時代の、広島の復興。それがメインテーマであると言っていいでしょう。

そこに、自民党系というところからの依頼というテーマにそくすように日本的なものも入れていく・・・・・・絶妙のバランスです。ですがそれゆえにメッセージとしては多少ぼやけてもいますが、真に芸術を愛し、クラシック音楽の歴史を知っている人であれば、理解するのにさほど時間はかかりません。泣くほど感動はしませんが、じんわりとしたものが自分の中に湧き上がってくるように思います。

そして、そんな作品を指揮するのが、じつは作曲者自身、なのです。では、オケは日本なのかと思いきや・・・・・ウィーン交響楽団、なのですよねえ。保守系のオケだって日本にはありますし、プロがやらなければアマチュアがやってもいいともいますが、コンサートピースに乗りませんね。そんな作品を、オーストリアという左翼が強い国のオケでやってしまったんですよ。これ、快挙と言っていいのではないでしょうか(正直、これを誇りを思えない保守の方は正直保守じゃないんじゃないかとすら思っています)。

しかも、じつはこれ、調べてみると團伊玖磨交響曲全集からのものなんですね。借りたときには気が付かなかったです。で、しかも旧デッカ、です。もうすこし保守界隈で話題にしてあげてもいいんじゃない?と思います。なんか左翼叩きにご執心で、こういった保守系の優れた作品をとりあげることがおざなりになっているのは非常に残念で、どんな気持ちで團氏はウィーン響を振っていたのかなあと思います。私が持っている中ではチャイコフスキーのピアノ協奏曲の演奏オケであるウィーン響が、実に明確にそして豊潤に日本の旋律を演奏するのを聴きますと、やはり自分は日本人である、と確信します。ああ、こういうサウンドを想像して團氏は書いていたんだなとすら思います。

そろそろ、左右の対立など不毛なことはやめて、真に芸術に向き合い、いいものは左右共に顕彰していく時期になっているように思うのはわたしだけなのでしょうか。そもそも、保守が團伊玖磨交響曲全集が出ていることを誇りに思わず、またそのオケが日本のプロオケでないことを恥じないなど、保守なの?と思うのですが・・・・・それならまだ、左翼のほうがましなのですがね。

なお、横笛とある赤尾三千子は、篠笛など和楽器の横笛の第一人者。初演の広島響とでも共演しているソリスト。なので編成にある篠笛や能管は、彼女一人で持ち替えでやっていると思います。

 


聴いている音源
團伊玖磨作曲
交響曲第6番《Hiroshima》
エドマンド・プランデン(詩)
アナ・プサール(ソプラノ)
尾三千子(横笛)
團伊玖磨指揮
ウィーン交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:早坂文雄 交響詩「ユーカラ」

東京の図書館から、今回は府中市立図書館のライブラリをご紹介します。早坂文雄が作曲した交響詩ユーカラ」を収録したアルバムをご紹介します。

早坂文雄も、ナクソスの「日本作曲家撰集」シリーズで取り上げられている作曲家の一人で、以前からその作品が聴きたいなと思い続けてきた作曲家です。民族派と言いますが、いわゆる今どきの極右とは異なる、真に日本の風俗や文化を真正面から向き合い、作品を紡いだ作曲家だといえるでしょう。

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ウィキを見てみれば、チェレプニン派なので、納得です。こういった作曲家に対して冷遇してきたのは決してリベラルだけではありません。むしろ〇〇会議など、極右界隈もずっと冷遇し続けてきています。つまり、日本の多くのクラシックファンである、と言っていいでしょう。FBなどで、早坂文雄だとか黛だとかがいつ出てきたでしょうか?某議員の言葉「恥を知りなさい」は〇〇会議の皆様にそのままお返ししたく存じます。

さて、そんな早坂がずっと作曲したかった題材がアイヌの伝説だったようで、このアルバムに収録されている「ユーカラ」とは、アイヌの青年英雄の叙事詩が題材となっています。

ja.wikipedia.org

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アイヌの伝説が残ってきた「口伝」という方法は、古代では世界的に普通の形でした。おそらく、日本神話の元となったものも、口伝だったはずで、それを国家方針としてまとめたのが日本書紀であり、幾分国家色がないのが古事記です。この二つは歴史書と位置付けられますが一方で、口伝されてきた神話を文字に起こしたものだともいえます(特に古事記は)。

そんな古い形態として紡がれてきた「ユーカラ」。それを早坂が組曲(私は事実上の連作交響詩だと思っていますが)にしたいと思ったのには、多分に後期ロマン派における交響詩が念頭にあったはずです。そのイメージから出発し、あくまでもチェレプニン派の一人として創作したのがこの「ユーカラ」だといえるでしょう。それは早坂が語った以下のことから明確でしょう。

「原詩は叙事であるが、音楽は描写的な叙事をせず、これを直観的に抽象化し、形而上の世界のものとすること...」
管弦楽法は、従来の西洋の伝統である肉付を主とした常識的な手法を避け、〈線〉と〈点〉を主とした東洋的感覚によった手法を意図した...」

神々の住む世界を、まるでドビュッシーの「沈める寺」を東洋的感覚で描いているような感じ。それがこの「ユーカラ」だと思います。

ですから、和声的には不協和音全開。ですが、それが全く気持ちよく、違和感ないんです。それは早坂が目指した「東洋的感覚」がしっかり作品として結実しているからであろう、と思います。

それを演奏しているのが、日本フィルなのですが、指揮がなんと!山田一雄、なのですよ、ええ。第九など西洋音楽のタクトを私たちはずっと聴いてきていますが、この「ユーカラ」でもそのタクトはさえわたっています。不協和音多用のこの作品を、実に冷静かつ情熱的にオケを鳴らし、むしろ叙事ではないのにどこかに物語がありそうに聴こえるんです。神々の生命力、というか・・・・・

本来、「ユーカラ」は叙事詩であり、その主人公は青年の英雄です。つまりは英雄譚。ですが、むしろワーグナー巨人族のような、神々の人懐っこさも存分にあるのです。スメタナの「わが祖国」のような物語性がないのに、そこには物語が自然と浮かび上がる・・・・・それは、聴き手の脳内妄想にゆだねられているという、民族派の作品でありながらも、じつはとてもリベラルな部分も内包されているという事実を浮かび上がらせる・・・・・実に素晴らしい演奏です。

もちろん、細部を言えばいろいろありますが、それは我が国では何故か自国の作曲家の作品をコンサートピースに乗せないということを長年やってきているため、演奏例が少ないためだと思います。もっと演奏される機会が増えて、さらに深い譜読みをする指揮者が現れれば状況は一変します。「ヤマカズ」さんに続くのは一体どなたでしょう?おなじ「ヤマカズ」さんなのかな?とも思いますが、さて。今でもこの演奏は色あせないメッセージを豊富に内包しているように、私には聴こえるのですが・・・・・

 


聴いている音源
早坂文雄作曲
交響的組曲ユーカラ
山田一雄指揮
日本フィルハーモニー交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。