かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

音楽雑記帳:朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団によるベートーヴェンの第九を全集を聴いた後でもう一度聴いてみる

音楽雑記帳、今回はある意味「東京の図書館から」の続きという形で、すでに「マイ・コレクション」でご紹介している、朝比奈隆指揮大フィルの「第九」を再度聴いてみたいと思います。全集を聴いた後で、どのように感じるのか。

この演奏はそれほど好きというわけでは実はないんですが、朝比奈さんが振る「第九」というものの一つの姿を現しているなと常に感じます。朝比奈節というのが楽曲全てに対して適用しているのかと言えば、実はそうでもないこともしばしばです。

この第九の演奏でも、実は朝比奈節が適用されていないのではないか?と思える部分があります。それが第4楽章バリトン・ソロからvor Gott!までの部分。ここはむしろそれまで封印してきた喜びを爆発させるような、アップテンポになっているのは印象的です。

それ以外は朝比奈節が全開。ゆったりとしたテンポになっています。これはある意味独創的な解釈です。なぜなら、第4楽章練習番号Mは強調の部分の部分であるはずなのです。ですが朝比奈さんは長音こそ強調だとして、練習番号Mは通過点と解釈。むしろ強調するのはそのあとの「抱きあえ、幾百万の人々よ」からであると提示しているのです。

これは音楽理論からしては自然です。長音は強調だからです。そして私自身も同じ部分こそベートーヴェンが言いたいことであり、意思であると感じています。歌詞の内容、そしてそこに付いた音符を見れば明らかなのですが、とはいえ、練習番号Mの部分もベートーヴェンが共感している部分であり、だからこそオケは八分音符を使いながらも、合唱部分は四分音符という「比較的長い音符」を置いているのです。しかしそれを通過点とし、本当に言いたいのはそのあとであると、明確に示したのが朝比奈氏の解釈、そしてタクトだと言えます。

ここに注目せず、結構朝比奈氏を「神格化」してきたきらいはないだろうかと思うのです。そしてそれが、結果的に芸術のげの字も分からない、理解しようとしない反知性主義の橋下氏に攻撃される一つの理由だったであろうと思います。神なのだから従え、みたいなところはなかったでしょうか。それは大フィル側、あるいは大フィルを支持していた側としては反省すべき点だと思います。

実は私は朝比奈氏の解釈に関してはそれほど支持している人間ではなかったので、神格化まではしていなかったこともあり、橋下氏の言い分にも理解はしていました。しかし大フィルの「演奏者」まで駆り出させて満足気なツィートにはついに「あなたは芸術を理解していない。プロの演奏家たちにいきなりチラシ配りをさせることがなんという事かわかっていない」というリツィートをせざるを得ませんでした。本来これは事務局が真っ先にやらねばならないのです。人手がどうしても足らない場合に、頭を下げて演奏者に「お願い」しなければいけないことなのです。それがプロ・オーケストラの組織論です。

確かに、演奏家もチラシ配りをすることはいくらでもあります。しかしそれは、独奏者である場合で、たいてい個人事業主です。しかしプロのオーケストラは大抵サラリーマンです。そのうえで職人です。普段しない仕事をさせるには、まずさせる側が頭を下げるのが筋です。それを命令系統でやらせるとなると、自分たちは一体何なのだろうという演奏者側の不満を増幅させることになります。何のためにうちには事務局があるんだよ、死ぬほど仕事しろよって考えるのが普通です。

大フィルの演奏が近年あまりクローズアップされないようになったのには、こういう裏側が発生し、演奏に影響を与えているからであろうと想像します。朝比奈氏死後、大フィルはほとんどCDを出していません。そのことで注目度も下がっています。むしろ日本センチュリー響のほうが今や発信力は強力です。それはそれでいいことなのですが、本来は関西にはいろんなオーケストラがあり、切磋琢磨して芸術を発信しているのだということが必要なのですが、現在むしろ関西の芸術は低迷しているということを暗にメッセージとして発信しているという逆効果にもなってしまっているのは大変悲しいことです。

私などは、本当に時間が取れるならば、今日は大フィルあすは日本センチュリー響というような、コンサートのはしごを大阪でしたいとも思います。勿論プロオケは高いので在京のプロオケでもそんなことはめったにやりませんが、関東に住んでいるのであれば、別にはしごする必要などありません。何日かに分けて行けばいいだけです。しかし関西までは高速バスを使っても6000円くらいかかり、往復すれば12000円がかかります。それだけあればどれだけのプロオケが聴けるでしょう?アマチュアオーケストラなら?それを考えたら、まとめて聴いてきたい!というのは私の中にあります。ですが残念なことに、現在の関西のオケの状況を見ると、そこまでお金をかける魅力はありません。日本センチュリー響だけで十分です。それなら大阪に泊るインセンティヴすらなく、コンサートが終わった後で夜行高速バス、あるいはサンライズ瀬戸・出雲(上り列車は大阪に停車するためです)を使って帰ってくるほうが時間を有効に使えます。

そんなことになるなんて、橋下氏は想像もしなかったでしょうね。それだけのファンが大フィルについているなんてわからなかったんでしょう。関西のファンだけで満足していたら、新型コロナがもう大阪の人だけしか宿泊できない状況を作ってしまった・・・・・皮肉です。つまり、橋下氏が下手な介入をしていなければ、東京からは難しくても、近隣の地方からはファンが泊りがけで聴きに来た可能性があったのをつぶしてしまったとも言えるでしょう。それをつぶしてすそ野を広げると言っても、魅力のないオケには聴きに来る人もいません。結局補助金だよりになるわけです。そこがわからない芸術論を振りかざす知事や市長など、長く務めることは不可能だったでしょう。

この演奏は至宝ですが、これ以降なかなか大フィルがアルバムが出せないのが本当に残念です。当初大植氏が就任したあたりではいくつかCDも出ましたが最近はぱったりという気がします。そんな原因を作り、まさに小劇団と同じ状況を作ったのは橋下府政、市政の負の遺産でしょう。或いは古楽テレマン室内あたりを大阪府とかが責任もって広報してくれるのでしょうか?まさか私頼み?大阪が芸術の都だという広報をすれば、おそらく距離的に近い韓国や中国、台湾のクラシック・ファンは来たかもしれないというのに。そのインバウンドを拾う間もなく、Covid-19により大阪近郊の人しか拾えなくなってしまった・・・・・さて、大阪府そして大阪市は、今後の芸術展望をどのように考え、広報するのでしょうか?

久しぶりにこの演奏を聴いて、改めて朝比奈氏の独創性に敬意を表するとともに、このような芸術をつぶして大阪を売り出そうとした橋下府政、市政の薄っぺらさを強烈に印象付ける結果となっているなと思います。これではますます、東京との差は広がっていくだろうなと思います。その東京ですら、はたして今後の展望はあるのだろうかと思いますが、それだけの危機感を、本当に大阪の政治家たちは感じているのだろうかと、この演奏を再び聴いて思います。

さて、ここまで朝比奈氏と大フィルによるベートーヴェン交響曲全集を聴いてきましたが、できればアップスケーリングで聴きたいものです。図書館で借りてきたものはすべてソニーのMusic Center for PCで聴いており、この第九はCDなので、同じソニーのHi-Res Audio Playerで聴いており、いずれもflac192kHz/24bit、DSD1kHzハイレゾ相当にアップスケーリングして聴いていますが、特にこの第九はザ・シンフォニーホールでの収録であるだけに、ホールで聴いているような臨場感を感じます。まだ大阪が輝きを放っていた時代の名演を、ハイレゾ相当で聴けることは非常に幸せなことです。勿論ハイレゾで再販することを望みますが、CD音源をアップスケーリングで聴けることもまた、素晴らしいことです。こういった「遺産」は後世へ引き継いでいくものと信じます。

 

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。