かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

コンサート雑感:「学生の第九」を聴いて

コンサート雑感、今回は令和6(2024)年2月28日に聴きに行きました、「学生の第九」のレビューです。

「学生の第九」って、学生だけなのですかって?ええ、おっしゃる通りです。学生だけで演奏、運営されたコンサートです。演奏されるのは、ベートーヴェン交響曲第9番

このコンサートを知ったのは、実はこのコンサートの2週間くらい前でした。確か、2月10日に聴きに行った、Carpe Diem Philharmonyさんの演奏会会場にあったチラシだったと思います。学生が第九をやるのか!と。これは聴きに行かなくてはと思ったのです。

実は、私の合唱のキャリアは第九から始まっているのですが、その初めての第九も実は学生による演奏だったのです。当時はなかなか人が集まらず、結局社会人にも入ってもらったのですが。

ykanchan.hatenablog.com

私自身が学生主宰の第九の演奏会に参加し、その後いろんな経験を積むきっかけになったので、ぜひともこれは応援しなくては!と思ったのでした。

今回のプログラムは、以下の通り。

①バッハ 6声のリチェルカーレ(ウェーベルン編曲)
ボロディン 歌劇「イーゴリ公」より「だったん人の踊り」
ベートーヴェン 交響曲第9番

学生が演奏するにしては、結構攻めたプログラムだと思います。バッハもそうですが、とくに「だったん人の踊り」が・・・

まず、バッハの6声のリチェルカーレ。そもそもは「音楽の捧げもの」ですが、それを20世紀の作曲家であるウェーベルン管弦楽へと編曲したもの。ウェーベルンの編曲では冒頭はトロンボーンとトランペットにより奏されますが、ちょっとだけ管楽器は不安定。しかし、弦楽器は・・・え?このやせた音が無いのは何だ!まさか、またすごいオーケストラに私は当たってしまったのか・・・

学生と言っても、総合大学もあれば専門科大学もありますし、音大もありますが、これは音大のオーケストラなのかと錯覚してしまいます。今回、参加大学は記載がないので分からないんですが、音大生がかなり入っていても不思議はないと思っています。しかしそうだとしても、他の大学オケで活躍している学生のレベルが音大生と釣り合わないと、はっと見張るような素晴らしいアンサンブルとアマチュアとは思えないやせた音がない弦楽器など実現できるはずがありません。これは合唱と何ら変わりありません。全体の合奏になるとさらにアンサンブルが光ります。いやあ、またまたとんでもないオーケストラに私は当たったようです。

2曲目が、ボロディンの「だったん人の踊り」。たいていはアマチュアオーケストラでは管弦楽だけで演奏されるのですが、今回なんと!合唱付きなんです。勿論、それが正式なんですが・・・実は、私はこの曲を歌ったことがあるんです!この曲はロシア語が難しいのと、その音域が結構高い!しかも、いきなり高音を歌わないといけないなど、ベートーヴェンの第九に匹敵するくらい難しい曲です。

弦楽器は当然やせた音もなく素晴らしく、金管はしり上がりに良くなっていきます。そのうえで、合唱が入ったとたん・・・美しく力強いソプラノ!しかも優しくホールを満たします。まさに、イーゴリ公をもてなすポロ―ヴェッツの娘たち!私がいた宮前フィルハーモニー合唱団「飛翔」を軽ーく超えてきました・・・

いや、私がいた合唱団どころか、コール・ダスビダーニャすら超えて行きました。男声も入って力強い踊りのシーンに突入すると、恍惚の声楽がほーるを満たし、力強くしなやかな声楽!実は合唱団には学生と言っても高校生もいるんです!いやあ、このレベルの高さ・・・度肝を抜かれました。最後の部分は完全に力強い声楽に酔いしれます。ちなみに、ホールは府中の森芸術劇場どりーむホール。

このホール、シューボックス型なんですが、いやあ響く響く!残響時間も結構あるように聴こえます。いや、府中市交響楽団さんの演奏を聴いてもそれなりに響いているのでいいホールでもあるんですが、同じ府中の森芸術劇場ならウィーンホールのように聴こえるんです。これもまた素晴らしいところ。

よく見てみれば、オーケストラはあくまでも舞台では反響板から出ていません。しかし、このまま第九を歌うのか?実は、そうなんです!ということは、合唱団の人数はCarpe Diem Philharmonyさんとほぼ同じということになります・・・本当に大丈夫かと心配になります。

さて、休憩後、ベートーヴェンの第九。第1楽章出だしはちょっとだけトランペットが不安定ですが、それでも立て直します。ただ、どこか弦楽器が走っているような印象を受けましたが、崩壊までしないんですよね。コンサートマスターは前半と後半とでは変更があり、別な人が務めたのですが、かといってボウイングに合わせるとかではないですし。オケが前のめりになっているかなあと思ったり。しかし、後半わかるのですがそれは指揮だと気付きました。実は指揮者も学生なんです。そこまでこだわるのか!と思いました。本当に何から何まで学生による演奏なんですよね。実はソリストも3名が学生、1名が海外で留学中。私の時は指揮者は今や大御所になりつつある藤岡幸夫でしたが・・・

第2楽章からは、金管楽器は全く問題なし。しかし弦楽器のテンポが若干前のめりで走りがちになっているのだけが気になります。でも、とてもアグレッシヴなタクトの中でしっかり演奏できているのはさすが。これが音大生だけではなく普通の大学オケの学生もいてなんです。ちなみに料金は1000円・・・バジェットプライス。

第3楽章で弦楽器は落ち着くのですが、段々テンポアップしていくんです。これはオーケストラではなく指揮者がヒートアップしてタクトが走っているのでは?と思います。宮前フィルハーモニー合唱団「飛翔」音楽監督だった昨年亡くなられた守谷弘が生前「かっこいい指揮をしようとしていたんだけど、そう振っているとわかりにくいと言われて随分と修行した」とご自宅で鍋を囲みながらお話されていたのを思い出します。もし指揮者の方で参考になれば。守谷弘は2つ振りで淡々と振っていくのがスタイルで、感情が湧き上がってくるとちょっとだけタクトが激しくなる感じでしたが、それでも打点だけはしっかりとしていました。その守谷弘も第2回定期演奏会モーツァルトの戴冠ミサを振ったとき、ゲネプロよりもテンポが速くて難儀したのですが必死に追いかけたことを思い出します・・・

今回、ホルンは全くひっくり返らなかったのですが、ホルンを考慮したのかもしれません。仮にそうだったとすれば、ゲネプロでのオーケストラとの関係性構築に原因があるのかなと思いました。素晴らしい演奏だったのでもう一段レベルアップすれば最高だったと思います。

さて、第4楽章。ティンパニも第1楽章から本当にぶっ叩いてくれますし、アグレッシヴな演奏。そこにオーケストラがまったくやせた音がないサウンド、アンサンブルでついていきます。歓喜の主題がコントラバスとチェロから奏され始める部分からは段々合唱団が立ち上がっていきます。これは面白い演出だと思いました。いきなり立つのが普通なのですが、まるでハイドンの「告別」の逆を見るかのように、段々合唱団が座った状態から立ち上がっていきます。そしてバリトン・ソロの直前で全員立ち上がり、バリトン・ソロ、男声合唱、そして歓喜の歌が始まります。この合唱も本当に美しい・・・まるでわ(以下自己規制)

韃靼人でも素晴らしい声楽を聞かせてくれたソプラノが入るとまるで天井の声のよう!力強いだけでなく本当に美しいんです。私が宇宿允人氏の指揮で歌った時の合唱指揮者も美しく歌おうと指導されましたが、どうやらそういった指導を合唱指揮がされたのでは?と思います。ソリストのうちアルトはなんとカウンターテナーなのですが、全く違和感なし!こんな編成、プロでは聴けません。これぞ若者の特権!ものすごい冒険ですがしかし結果はオーライです。

そして、私が常に問題にする、vor Gott!の部分。vor一拍につきGott!はなんと残響入れて9拍・・・はい、変態演奏です。しかし、府中市交響楽団さんの「府中市民第九」では残響がそれほどではないのに今回はまるで教会のよう。同じホールです。いやあ、それはそれで素晴らしい解釈です。

続くいわゆる「ナポレオンマーチ」の部分ですが、テノールソロいいわあ。力強く朗々と歌うソロは、まさに男声を引っ張るのに十分。それに応える男声合唱も力強く美しい。私も21歳、大学2年生(音大ではなく中央大学文学部史学科国史学専攻)で第九を初めて歌いましたが、これだけ上手には歌えませんでした。周りに助けられてやっとです。その後「飛翔」に入ってかわさき市民第九やいろんなところに助っ人に入って段々うまくなっていったという感じです。

そして、練習番号M。いやあ・・・喜びが満ち溢れているんです!力強いだけでなく、そこに美しさもあります。私は涙を自分の瞼にためながら、自分の中に喜びが湧き上がってくるのを感じます。ウン十年という時間は、本当に日本のアマチュアを成長させたなあと思います。

考えてみれば、彼らは入学後しばらくは対面で講義や授業を受けていないんですよね。そんな連帯へのあこがれが、彼らをして演奏に感情がこもったのかもしれません。その結果が力強くも美しい合唱につながったのかもしれません。まさに、一昨年仙台育英高校野球部監督の須江氏が、甲子園で語ったように、困難な時期を乗り越えてきたという経験が、表現に現われているように感じました。

特に、その後の「抱きあえ、幾百万の人々よ」以降の部分は、自分たちがしたくもできなかった、対面での「連帯」が今実現している喜びをかみしめたもののように聴こえます。ただ、男声はもうすこし声が太くても良かったと思います。女声はもう申し分ありません!ほとんどが初めて第九を演奏する、歌うというフェーズで、プロとさほど変わらない演奏ができるだけでももうあっぱれですから。

二重フーガ直前も本当にまるで星空から声が降ってくるよう。二重フーガも完璧!そのあとのソリストと合唱の部分も、かなりppからffまでダイナミックな部分ですが、しっかりと表現されており、気持ちが伝わってきます。抱きあえ、幾百万の人々よ!この口づけを全世界に!という部分こそ、ベートーヴェンが第九でいいたいところですよね?と語り掛けるよう。いや、その通りだと思います。実際、ベートーヴェンは第1楽章から第4楽章の練習番号Mまで一切トロンボーンを使わず長音符をあまり使っていませんが、そのあとの「抱きあえ、幾百万の人々よ!この口づけを全世界に!」からトロンボーンが登場し長音符が連続するんです。これは明らかにベートーヴェンが言いたいことなので強調している部分だと解釈できます。練習番号Mの部分の歌詞で批判する人がいますが、しかしそこがベートーヴェンの言いたいところではないと私は考えますが、同じ解釈であるのは嬉しいところです。

最後のプレスティッシモの部分も疾走しながらも歌詞をしっかりしゃべりつつ美し声楽にするというある意味高度なことをいとも簡単にやってのけるんですよね。いやあ、若いっていいなあ。聴衆も皆さん聞きほれて、残響を味わいながら万雷の拍手!

・・・とここで、ものすごいサプライズが。何が起こったかと言えば、実は、その拍手が、アンコールだったのです!え?どういう意味ですかって?いやあ、この団体、やってくれます。しれっと、アンコールを「演奏した」のです。それは、ジョン・ケージの「4分33秒」。

ジョン・ケージの「4分33秒」はよく演奏しないとされていますが、正確に言えば間違いです。私も演奏しないものと理解していたのですが、終演後、アンコールのかんばんを見て、写メを取りYouTubewrカコ鉄さんが運営するコミュニティに投稿したところ、ジョン・ケージはその場の音を演奏とみなすという作品なのですと指摘がありました。つまり、実は私たち聴衆がしていた拍手こそ、アンコール曲だったのです!

ja.wikipedia.org

あるいは、1プロと2プロの間だったのかも。実は椅子を追加するために1プロと2プロの間でオーケストラはいったんはけています。その時がアンコールだったのかもしれません。いずれにしても、ジョン・ケージの「その場の音を聴く」ということまでアンコールにするとは!今回1回だけでの演奏会で終わらすのはもったいないと思います。再び第九をやってもいいですし、他の曲にチャレンジしてもいいのでは?と思います。声楽を伴うのであれば、マーラーの「復活」やバッハの受難曲やロ短調ミサ、メンデルスゾーンの「エリア」や交響曲第2番「賛歌」、ショスタコーヴィチの「森の歌」などなど、聴きたい曲はやまほどあります。オーケストラだけなら、ショスタコーヴィチの「レニングラード」も面白そうです。オーケストラ・ダスビダーニャをはるかに超えるような素晴らしい演奏を、ベートーヴェンの第九で聴かせていただきました。終演後、東府中駅そばのファミリーレストランで食事をしましたが結構オーケストラの方たちが続々と集まってきていて、仲の良さも垣間見えました。今後もぜひとも、学生だけの演奏会を聴かせてほしいです!今回限りであったとしても、皆さんがプロなりアマチュアなりのオーケストラでご活躍されんことを!足をどんどん運びますよ!皆さんが今度は日本のクラシック音楽シーンをプロやアマチュアで盛り上げてください!いえ、必ず盛り上げると私は信じています!

もう一度言いますが、いやあ、若いって本当にいいですねえ。

 


聴いて来たコンサート
「学生の第九」
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲(アントン・ウェーベルン編曲)
「音楽の捧げ物」BWV1079から「6声のリチェルカーレ」
アレクサンドル・ボロディン作曲
歌劇「イーゴリ公」から「韃靼人の踊り」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」
ジョン・ケージ作曲
4分33秒(アンコール)
八木麻友子(ソプラノ)
長谷川大翔(アルト、カウンターテナー
坪井一真(テノール
植田雅朗(バリトン
大森大輝指揮
学生の第九 オーケストラ・合唱団(合唱指揮:岡崎広樹)

令和6(2024)年2月28日、東京、府中、府中の森芸術劇場 どりーむホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

コンサート雑感:シンフォニア・ズブロッカ第16回演奏会を聴いて

コンサート雑感、今回は令和6(2024)年2月24日に聴きに行きました、シンフォニアズブロッカの第16回演奏会のレビューです。

あのう、かんちゃんさん、前回のコンサート雑感で行ったコンサートの日付、同じですが間違っていませんか?という、ア・ナ・タ。間違っていません。またはしごやってます!しかも、実はこの日のはしごは意識してはしごするつもりで設定しました。

前回のコンサート雑感で取り上げた、Orchestra HALさんではなく、実はそもそもは2月24日には東京オペラティコンサートホールで開催されたメンデルスゾーンの「エリア」を予定していました。この演奏会が昼間であること、そして場所が初台であることから、はしごが可能であると判断し、そもそも二つをはしごする予定を立てていました。ところが、「エリア」のチケットを予約しようとしたタイミングでは、すでに高い値段の席しか残っていなかったため、あきらめたところ、ハルオケさんが同じ日に演奏会があることを発見、ハルオケさんの方を聴きに行くことが出来た、というわけなのです。なので、実はシンフォニアズブロッカさんは初めから狙っていたというわけでした。

シンフォニアズブロッカさんは、東京のアマチュアオーケストラです。2005年創立の比較的新しいオーケストラではありますが、その創設から学生や社会人が集う団体として発足したようです。これはクレセント・フィルハーモニー管弦楽団中央大学管弦楽団卒業生が創立。中央大学管弦楽団の学生も参加)や先日取り上げたオーケストラ・ルゼル(東京電機大学管弦楽団卒業生が創立。東京電機大学管弦楽団の学生も参加)と似ていると思います。今後少子化が進めばこのような学生も社会人も参加するというオーケストラがアマチュアオーケストラのスタンダードになることでしょう。市民オーケストラもその方向に行くと思います。ちなみに、ズブロッカとはポーランドウォッカのことだそうです。私は酒が飲めませんし飲んではいけないのですが、いい感じに酔える雰囲気を作ろうとすることは重要だと思います。

sinfoniazubrowka.g1.xrea.com

そんなシンフォニアズブロッカさんですが、実は演奏会に足を運ぶのは初めてです。名前だけはいろんなチラシで知ってはいましたが。ではなぜ足を運ぼうと思ったかと言えば、それは当日のメインがショスタコーヴィチ交響曲第7番「レニングラード」だったから、です。シンフォニアズブロッカさんのコンサートのチケットを取るタイミングは、実はオーケストラ・ダスビダーニャのチケットを取るタイミングとほぼ同じだったんです。そして、奇しくもどちらもメインは「レニングラード」。そして、シンフォニアズブロッカさんが今回選択したホールは、オーケストラ・ダスビダーニャが第19回定期演奏会で「レニングラード」を演奏した、すみだトリフォニーだったことが決め手です。

ykanchan.hatenablog.com

当然、オーケストラ・ダスビダーニャ(以下、「ダスビ」と略称)との比較、ということになります。

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ダスビは第19回の演奏をさらにブラッシュアップさせて、第30回では素晴らしい演奏を披露しましたが、果たして、シンフォニアズブロッカさんはその演奏を超えるか否や?

当日のプログラムは、以下の通り。

R.シュトラウス 交響詩ドン・ファン
ショスタコーヴィチ 交響曲第7番「レニングラード

いやあ、おなか一杯って感じのプログラムですね。ダスビだとさらにショスタコーヴィチの序曲とか持ってきますけれど、さすがにショスタコーヴィチ「狂い」というような人達ではないと思いますので、そこまではしなかったわけですが、それでも、「ドン・ファン」を持ってくるだけでも、気合は入っています。

まずは、1曲目の「ドン・ファン」。R.シュトラウス交響詩の中ではよく知られた、がっつり後期ロマン派の作品ですが・・・

ja.wikipedia.org

・・・私はプロオケを聴きに来ているのだろうか?と錯覚するような、やせた音が全くない弦楽器。そして不安定な音が全くない美しく豊潤な金管。まさに、「ドン・ファン」の物語を彩るにふさわしいサウンドが、ホールをのっけから満たすのです!これにはびっくりです。またまた、素晴らしいアマオケに当たってしまった・・・

特に、ヴァイオリンはほぼ全員が体を動かし使って演奏しているのが印象的。ほぼ全員というのは本当になかなか見られない光景です。ヴァイオリンに限らず、弦楽器全体が体を使っての演奏をしており、それが表現の安定さや豊かさ、感情移入による聴衆が魂レベルでの共感につながっているかなという気がします。

こうなると、楽しみなのは「レニングラード」になるわけです。何しろ、比較対象はショスタコーヴィチの音楽が好きで好きでたまらない「ショスタコ狂い」集団、オーケストラ・ダスビダーニャ。さて、その実力のほどは・・・

いやあ、安定さという意味では、軽くダスビを超えて行きました。これもびっくりです。ただ、テンポが走らず安定していることはいいのですが、その分どこか客観的過ぎるかなと感じたのです。魂レベルでの共感が伝わりにくい点が、マイナスだったかなと。勿論、演奏レベルではもはやダスビを超えているのは事実です。ですが、感情移入が伝わりにくいという点が感じられたのです。

それは、朗々と鳴らす指揮者の解釈もあるのだと思います。実際、クレッシェンドしていく部分だとか、第1楽章において小太鼓が始まり戦争の影が近づき、それがクライマックスを迎え凶暴な音楽に変化していくさまは圧巻!決してダスビに引けを取らないどころか、もやはプロのレベルです。ppとffの差もダイナミックで素晴らしいですし、それゆえに感情が伝わってくる場面もいくつもありました。その意味では、ダスビの場合いかに指揮者長田氏の解釈も演奏に反映されているのかと感じました。相互に積み上げてきた時間の差だと思います。

今回、シンフォニアズブロッカさんを振ったのは、金井俊文氏。ハンガリーのオーケストラでレジデント・コンダクターを務めていたり副指揮者であったりする方です。特に素晴らしいと思ったのは、金管が朗々かつ豊潤に鳴らすこと。これって、ダスビの金管トレーナーであるトカレフ氏と同じアプローチなんです。そのアプローチを日本人指揮者がやってしまうんです。才能はどこに埋もれているか本当にわかりませんね。若い才能を知りたければ東京のアマチュアオーケストラの演奏会に足しげく通われることを切にお勧めします。

シンフォニアズブロッカさんはこの金井氏が常に振っているわけではなくコンサートごとに違った指揮者を迎えるオーケストラ。その点がダスビと結果が違った原因かなと思います。それでも、全体的に見れば本当に情熱的かつ冷静で、感動的な演奏でした。こういうオケを聴きますと、ますますプロオケからは足が遠ざかります・・・安い値段で魂が喜ぶのなら、アマチュアを選択してしまいます。勿論、日本のプロオケの実力はあがっているので、海外オケでなくても日本のプロオケで十分満足できるのですが、これだけ喜びを感じさせるアマチュアがいるとなると、むしろ数多くアマチュアの演奏を聴きに行きたいのが私なので、どうしても資金的にプロオケへ足を運べる余裕はありません。そのうえで、最近公共交通を取り上げるYouTubeも始め、その旅費が馬鹿になりませんので、余計プロオケへはいけません。まあ、地域公共交通とアマチュアオーケストラとは似た関係もありますので、その二つを取り上げることが私に与えられた使命なのだと考えています。

その視点からも考えても、今回のシンフォニアズブロッカさんの演奏はもうブラヴォウ!をかけていい演奏ですし、実際にかけました。その後続々と終演後ブラヴォウ!がかかったことが、この演奏のすばらしさを物語るものでした。また一つ、聴きに行きたいアマチュアオーケストラが増え、私はうれしい悲鳴を上げております・・・

 


聴きに行ったコンサート
シンフォニアズブロッカ第16回演奏会
リヒャルト・シュトラウス作曲
交響詩ドン・ファン」作品20
ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ作曲
交響曲第7番作品60「レニングラード
金井俊文指揮
シンフォニアズブロッカ

令和6(2024)年2月24日、東京、墨田、すみだトリフォニーホール 大ホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:熊本マリ タンゴ

東京の図書館から、今回は府中市立図書館のライブラリである、熊本マリさんのアルバム「タンゴ」を取り上げます。

こういうアルバムを取り上げるのも久しぶりだと思います。収録されているのではすべてタンゴあるいは類似する楽曲です。まず最初の4曲がピアソラなのも粋ですねえ。タンゴと言えばピアソラですね。

タンゴと言っても、アルゼンチンタンゴもありますしヨーロッパタンゴもありますが、最初にアルゼンチンタンゴの巨匠ピアソラを持ってくるのはベタなだけでなくやはり王道という気がします。それを、普通はバンドネオンなどで演奏するところを、ピアノでやってしまうわけなので・・・

とはいえ、タンゴにおいてピアノが使われないというわけでもありません。特にヨーロッパではピアノもよく使われる楽器です。バンドネオンはどちらかと言えばアルゼンチンタンゴです。このアルバムはそんなアルゼンチンタンゴも含めてピアノで演奏しているわけです。

1曲目のピアソラ「タンゴエチュード」はフルートでの演奏もある曲ですし、2曲目の「天使のミロンガ」はバンドネオンで演奏されるのが常です。後半の他の作曲家の楽曲だとピアノというケースもあります。であれば、いっそピアノで全部演奏してしまおうという感じです。ですが、そのピアノが粋な演奏でありかつ生命力も感じられるから不思議です。

ピアノは一台で表現できる楽器ですしそのように発展してきた楽器です。本来だとバンドネオンとピアノは機能的に相反する楽器なのに、魅力ある演奏になっているのは、そもそも作品がある楽器専用で考えられているわけではないということと、弾いている熊本マリさんの実力でしょう。プロだから当然と断じるのはどうかと思います。簡単に弾いているようで実はかなりスコアリーディングをして、ピアノだとどのように弾けばいいのかは収録前にかなり練習し決定しているはずです。その過程無しにバンドネオンの曲がピアノでも違和感ない演奏になるはずはありません。プロであってもそのあたりは練習で弾いているときに迷いながら、楽譜にペンを入れて、演奏に関して参考にし決定しているのが通常です。

むしろプロだからこそ、そういう事前の準備を怠らないがゆえに、素晴らしい演奏になっているわけなんです。熊本マリさんの実力の高さが、こんなアルバムでわかるわけなんですよね。むしろその強調として、このアルバムは制作されたのでは?と私は考えるところです。

私たちが音楽を楽しめる根底には、演奏者の事前の十分な準備があってこそなのです。勿論即興で演奏することだってあると思いますが、通常はプロであっても完全な演奏になることは稀です。だからこそ、モーツァルトは天才と謳われ、ベートーヴェンは神童とされ時代の寵児になりました。

私自身、合唱だけやっていればそれに気が付くことはなかったと思います。SNS時代になってプロのピアニストの方と親しくなり、サロンに顔を出させていただいたりしたからこそ、ピアニストがどのような準備をして演奏に望んでいるかを知ることが出来ましたし、その結果いかにモーツァルトが天才だったか、ベートーヴェンが努力の人だったかが分かるのです。そして私自身もアマチュア合唱団員として準備にいそしんだ経験があるからこそ共感もできます。

マチュアオーケストラのコンサート会場に行きますと、結構楽器を持った人が大勢います。それはそのオーケストラに参加していると言うよりは、多団体で興味を持ったからとか、たまたま指揮者が同じだったからとか、大学の指導教官だとかという理由です。だからこそ、練習の後とかに楽器を持ってコンサートに行ったりとかで楽器を持っているのを目撃するということになります。同じように演奏に携わっているからこそ、演奏に共感できる部分があるのです。

じつは、それは音楽以外でも同じです。私はかつて厚生年金基金の職員でしたが、上司である事務長の名代として講演会などに参加したこともたくさんあります。そういう中で同じように名代として参加している職員と話をしたり、他基金の事務長さんと話が出来たりしました。自分も職員としていろいろ考えていたこともあって、職の上下に関係なく、結構話題が弾んだものでしたし、仕事で助けてもらったこともあります。音楽でもそれは同じことでして、それが仕事であろうが趣味であろうが、何かに携わると言うことにおいては同じなのだと感じます。以前の職場で上司から「事に仕えると書いて仕事です。それはお金を稼ぐという意味だけではないんですよ」と言われたことを今でもしっかり心に刻んでいます。

それがお金になるかならないかに関わらず、音楽という「事」に「使える」のが演奏です。そこにどれだけの準備をするのか・・・それが演奏の「質」を決めることを、熊本マリさんは演奏によって如実に語っているのです。このアルバムのすばらしさは、その熊本さんの実直さに支えられていると言っても過言ではないでしょう。

 


聴いている音源
アストル・ピアソラ作曲
 タンゴ・プレリュード
 天使のミロンガ
 天使の死
 天使の復活
エルネスト・ナザレ―作曲
 ヴィトリオーゾ
 7月8日
 レマンド
カルロス・ヒメネス作曲
 タンゴ
イサーク・アルベニス作曲
 タンゴ ニ短調作品165-2
 タンゴ イ短調作品164-2
ラウール・ラバーラ作曲
 タンゴ(「イベリアの風景」より)
アレクサンドル・タンスマン作曲
 タンゴ
ジャコモ・プッチーニ作曲
 小タンゴ
エリック・サティ作曲
 タンゴ
ダリュス・ミヨー作曲
 タンゴ(「屋根の上の牛」より)
アレクサンドル・タンスマン作曲
 ハバネラ
ハビエル・モンサルバーチュ作曲
 ハバネラ
ホアキン・トゥリーナ作曲
 ハバネラ
エマニュエル・シャブリエ作曲
 ハバネラ
イグナシオ・セルバンテス作曲
 さわらないで(ダンサ・クバーナ)
熊本マリ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:モンポウ 静かな音楽

東京の図書館から、今回は府中市立図書館のライブラリである、モンポウの「静かな音楽」を収録したアルバムをご紹介します。

このアルバムを借りたきっかけは、実は元東京都知事猪瀬直樹氏のツィート(現Ⅹのポスト)です。そこで熊本マリさんのアルバムのことをつぶやいていたので、興味を持って熊本マリさんのアルバムを借りてみよう、と棚を見た時、このモンポウの「静かな音楽」のアルバムを見つけたというわけです。

猪瀬氏と言えば、副知事時代には東日本大震災を経験し、知事になってからは都営地下鉄東京メトロの合併などを模索した人ですが、そのやめ方が・・・まあ、そのあたりはあまりほじくらないこととして。とはいえ、実はその都営地下鉄の一件で、私としては距離を置いた人でもありました。まあ、言いたいことはわかるのですが・・・それはここでは触れないこととします。

さて、その猪瀬氏と言えば、結構孤独というか、自分の意志を貫く人でもあります。そんな人が評価した演奏家のアルバムはどんなものなのだろうかと、興味を持ったのは事実です。少なくとも、このアルバムを聴いていますと、何となく好んだ理由が分かるような気がしています。

モンポウは、主に20世紀に活躍したスペインの作曲家です。フランス人の血筋を引いており、作品もフランス語で解説していたりもするそうです。

ja.wikipedia.org

しかも、スペインと言ってもカタルーニャ出身。ということは、スペインの中でもマイノリティーだということになります。基本的に、フランス印象派の影響を強く受けています。「静かな音楽」も基本的にはフランス印象派の影響のもとにある作品だと私は判断しています。

ja.wikipedia.org

「静かな音楽」よりは「ひそやかな音楽」と訳されることが多いのですが、果たして、その訳で本当にいいのだろうかと思うところもあります。実は、この作品は晩年身近な人々をモンポウが亡くしたことがきっかけになっています。

enc.piano.or.jp

直訳すると「沈黙の音楽」なのですが、なぜ「沈黙」なのかという点ですね。一応原語のスペイン語であるCalladaを検索してみると、静寂とか沈黙、あるいは海の凪の状態というような意味があるそうです。

kotobank.jp

その意味で言うと、ウィキペディアの「題名」の項目に重要な文章が載っていると私は思います。

「題名はスペインの神秘思想家十字架の聖ヨハネ(San Juan de la Cruz)の詩『霊の賛歌』(Cántico espiritual)の中にある一節「音のない音楽、叫ぶ孤独」(la música callada, la soledad sonora)からとられている。十字架の聖ヨハネはこれを、「自然の感覚と能力に関する限り、その音楽には響きがない。しかし、孤独は精神の持つ能力を通して大きく響く」と説明する。一方、当曲集第1巻序文にフランス語で書かれているモンポウ自身の言葉によれば、「música callada」の真の意味をスペイン語以外で表現したり説明しようとするのは難しいという。」

十字架の聖ヨハネは、スペインにおいて宗教改革を実行し、カトリックの中で異端とされ抑圧された人生を送った人です。

ja.wikipedia.org

カタルーニャ人でありさらにフランス人の血が混じるモンポウとしては、十字架の聖ヨハネの人生や治績が自分と重なるものがあったように私には見えます。そこが、猪瀬氏にとって、共感するところであり、そしてその部分を掬い取ろうとしている熊本マリさんの演奏が、心にしみたんでしょう。私も一応自分でどこか違うところがあると思っているので、何となくわかる気がするのです。

演奏する熊本マリさんは、実はモンポウに関する書籍の日本語訳をした人(ウィキペディアモンポウ」脚注3)です。そのうえで、自分で演奏もしている。聴いていると、演奏はどことなくタッチが柔らかく、丁寧さが目立ちます。沈思黙考という言葉が日本語にはありますが、まさに言葉通りな演奏なのです。作品自体も全体的には印象派の影響下にあるせいか、調性と無調が入り混じっており、かつ段々作曲年代が下るにつれ、不協和音や無調的な音楽が強くなります。それが1959年に第1巻を作曲して、最後第4巻成立の1967年という8年で変わっていくさまを、熊本さんが楽譜から掬い取っているように聴こえるのです。

特に、第4集は作曲が1967年なのに、初演は1972年。5年もの間が空いています。しかも、第4巻だけ献呈者が存在し、それが名ピアニストのアリシア・デ・ラローチャで初演も彼女です。その名ピアニストが初演した作品も含まれることで、多少の緊張もあるはずですが、演奏は実に自然体で聞こえてきます。名ピアニストがどうのではなく、作品そのものがいかに成立し、どのような精神を内包しているのかに、演奏が集中されているように聴こえるのです。おそらく、熊本マリさんも、「ひそやかな音楽」という訳に対して、違和感を持っているのでは?と思います。霊的世界との対話という印象が強い作品だと私は受け取っており、その霊的世界とは、実は自分の内面のように思うのです。すくなくとも、ここに他者は存在せず、自分の内面と、恐らく自分を超えた大きな力との対話が、作品に現われていると感じます。音楽そのものもそうですが、その音楽の基礎には、十字架の聖ヨハネが人間の生き方、精神の在り方として理想としたものがあると私は思います。

それは、スペインだけでなく、もしかするとこの日本でも当てはまるような気が、私はしています。そして同じように熊本さんも感じ、猪瀬氏も感じ取ったのでは?と思います。ただ、私自身もそうなのですが、異端を貫き通し自分を守るというのは、なかなか大変でしんどいです。しかしだからこそ、この「静かな音楽」にどこか共感する自分がいるのですよね。猪瀬氏も、自分のオリジナリティを保つのに大変でしんどかったのでしょうが、しかしそれは自らが選択した人生でもあります。その人生をどこまで引き受けることが出来るのか・・・政治スタンスがいかなるものであろうとも、人間というのは自らのアイデンティティを守るというのはなかなかしんどいことなのではないでしょうか。しかし、そのしんどさを音楽で分かち合うことが出来れば、たとえ自分が一人であっても、さみしくはないのではと思います。どこかで必ず、同じように考えている人に出会うものです。その出会いを大切に生きれば、どんな困難があったとしても、乗り越えられるように私は思います。

私は決して一人ではない・・・音楽を聴くたびに、私は思い返すのです。「静かな音楽」は最後、明るい調性かつ調性音楽的に終わります。そしてカップリングのアリアーガにたどり着きます。アリアーガも素晴らしい音楽を書く人でしたが・・・

ykanchan.hatenablog.com

このアリアーガの明るい音楽につなげていることが、熊本さんのモンポウ解釈であり、そこには「必ず希望がある」ことを明示しているように聴こえるのです。

 


聴いている音源
フェデリコ・モンボウ作曲
静かな音楽
ホアン・クリソスト・アリアーガ作曲
ロマンス
熊本マリ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

コンサート雑感:Orchestra HAL 第24回定期演奏会を聴いて

コンサート雑感、今回は令和6(2024)年2月24日に聴きに行きました、Orchestra HALの第24回定期演奏会のレビューです。

幾度かこのブログでも取り上げております、Orchestra HALさん(通称ハルオケ。以下「ハルオケ」と呼称します)。この2月は一気にいろんなアマチュアオーケストラの演奏会が復活したことで、ハルオケさんのコンサートも行けずじまいになるところでした・・・危なかった。実は、そもそもこの日は日中にある合唱団の演奏会(メインはメンデルスゾーンの「エリア」)を予定していたのですが、3月に九州は香椎線(自動運転レベル2.5実証実験中で、3月16日のダイヤ改正から本格運用予定)に乗りに行こうと計画していることから、予算的に厳しくなったことで断念したことが幸いしました。人生すべて塞翁が馬と言いますが、本当に感じます。

さて、ハルオケさんは、東京のアマチュアオーケストラで、対話を大事にするオーケストラです。これ、なかなか実践するのは難しいのですが・・・

hal.mu

結果で示すところは、他のオーケストラも参考にできる部分はたくさんあると思います。いや、オーケストラ関係者だけでなく、普通に生きる私たちもまた、考えさせられるところです。

今回のプログラムは、以下の通り。

オール・ドヴォルザーク・プログラム
①序曲「謝肉祭」
交響詩「真昼の魔女」
交響曲第9番新世界より

オーケストラの配置は対向配置・・・と思いきや、何だか違う。客席から見てひだりにヴァイオリン属とチェロ、コントラバスが要るのです。どうやら、ヴィオラですね。この配置、最近結構見かけます。対向配置のように見えて保守的な配置だと思います。ヴィオラの位置をチェロと入れ替えただけと考えていいと思います。この配置だと、ヴァイオリンは第1と第2が互いに音を聴くことが出来るので、間違いが少ないという利点があると思います。

毎回テーマがあるハルオケさんですが、今回のテーマはズバリドヴォルザークだったわけです。指揮者が石毛さんで固定というのも、ハルオケさんの特徴。関係性を大切にして徹底的に議論し作り上げていくその姿勢は、本当に頭が下がります。

まずは、「謝肉祭」。キリスト教カトリックの「四旬節」は断食の儀式なのですが、その直前にしこたま食べておこうという民間の行事を指します。なのでじつはキリスト教と関係が無いのですが、その「関係ない」というところがミソだと思います。

www.cbcj.catholic.jp

そういう背景の中で作曲されたのが、ドヴォルザークの「謝肉祭」なのです。「自然と人生と愛」と名付けられた3つの演奏会用序曲のうちの一つです。

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キリスト教とは関係ないといいつつも、実はオーケストラはキリスト教の影響を受けた編成でもあります。それは、先日オーケストラ・ルゼルのエントリの中でも触れましたが、トロンボーンは3管編成であると言う点です。そもそもトロンボーンは教会で使われていた楽器である上に、3という数字は「三位一体」を表わしていて、そもそもキリスト教由来なのです。

なのに、「謝肉祭」はある意味、教会の四旬節の前に、思いっきり食べてやろう!というある意味反骨の意志を表わしたもの。そもそも、四旬節って節制の意味があり、イエスの労苦を偲び自らを振り返りましょうというものであるはずですが、その真逆のことをしておくということなんですね。

でも、考えてみれば、人間が食べるという行為は生きていくうえで必然です。食べなければ死んでしまいます。しかも、人間にとって食べることは喜びでもあります。動物と異なりその喜びを表現する生物です。それは生きる喜びでもあります。そう考えると、どこか教会とは距離を置くような気がしますよね?

音楽自体はお祭り騒ぎのような雰囲気もあります。これは他の作曲家が謝肉祭を描いたものでも共通する雰囲気です。考えてみますと、謝肉祭を扱った作品が増えるのはキリスト教が退潮した19世紀以降に多いことに気が付きます。謝肉祭とは、ある意味歴史を背負ったものであると考えてもいいのではないでしょうか。この作品をドヴォルザーク・プログラムのトップバッターに据えてきたか!と思うと、ハルオケさんの知性のすばらしさに感嘆せざるを得ません。そして、そのハルオケさんが生き生きと、しかし、一切アマチュアらしいやせた音なしに演奏するんです!いやあ、のっけから聴かせてくれますね。

2曲目が交響詩「真昼の魔女」。いたずらをする子どもに、魔女がでるからやめてと母親が懇願しますが、ついに魔女が登場、母親は気絶し子どもは絶命し、それを父親が発見するという悲しい物語です。

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これって、何かに似ていると聴いていて思いました。シューベルト「魔王」と・・・

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ただ、二つの違いは、「真昼の魔女」は最初は穏やかに始まるのに対し、「魔王」は最初から厳しい音楽だということです。しかし、最後はどちらも子どもは絶命。ある意味、私たち日本人が「死んだら閻魔様に舌を抜かれて地獄に落ちる」と言い聞かされるのと似ています。そう考えると、洋の東西を問わず、人間というものは似ているなと思います。

子どもの死という意味では、ドヴォルザークは生涯で生前に子どもを亡くしていますが、その経験もあるとはおもいますが、むしろこの作品がアメリカからボヘミアへ帰って来て成立していることを考えると、どこかアメリカにおけるインディアンの扱いを見た経験が根底にあるのでは?と私は思いました。メインの作品を考えるとその関連でハルオケさんが選択したように思いますし、その共感に演奏はあふれていたように思います。特に魔女が登場した場面以降の、白熱した演奏を聴きますと感じます。

休憩後のメインが、いよいよ「新世界より」。もうドヴォルザークと言えばこれ!という定番の作品ですが、オーケストラのトロンボーンは3管編成というのと、2つの曲を踏まえてこの曲を聴きますと、また違った印象を受けます。そもそも、「新世界より」は新世界と言われたアメリカの風景を切り取ったような作品で、随所にインディアン民謡や鉄道のエッセンスが盛り込まれています。まるで大陸横断鉄道がインディアンの居住区を走り抜けていくような・・・

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とくに、この曲においては、鉄道のエッセンスが極めて重要だと私は個人的に思います。そもそも、ドヴォルザークはクラシックの作曲家の中では筋金入りの鉄道ファンです。鉄道を描くというよりは、そのリズムを積極的に普通に作品にしれっと使う人です。ドヴォルザークはひていしていますがそのうえでアメリカ・インディアンの旋律も借りています。少なくとインスパイアされていることは明白です。それがこの曲がまさに「新世界より」と言われるゆえんでしょう。しかし、ではなぜドヴォルザークアメリカインディアンや黒人霊歌から題材をとったりインスパイアされたりしたのでしょう?

それは、ドヴォルザークチェコ国民楽派につらなる人だったからと、端的には言っていいでしょう。チェコ、当時はボヘミアですが、ボヘミアの音楽を題材、あるいはインスパイアされて作曲していたドヴォルザークにとって、アメリカの先住民族であるインディアン、そしてヨーロッパにはない黒人の音楽はまさに新世界であるアメリカを代表する音楽だったのです。使わないほうがおかしいですね。そこにはしっかりと「権力や権威からの距離」を感じるのです。それを、ドイツ音楽の延長線上にある交響曲という様式を使って表現する・・・そもそも、交響曲とは、ハイドンが生きた時代の先進地域であったイタリアやフランスと言った国に対するアンチテーゼであり、民族意識を勃興させる道具でもありました。それがドヴォルザークの時代になると、単に民族自決の道具に置き換わったというわけです。ここが、私はバルトークが理解できなかった点だと思っています。

その音楽史を踏まえた視点が、ハルオケさんにはしっかりとあるのでは?と思いました。共感にあふれる、朗々とした金管、そしてトロンボーン。機関車が近づいて姿が見える場面を想起させるような場所で鳴らされることへの共感も感じます。リズミカルかつ歌う弦楽器。徹底的に歌う木管。そこには、ドヴォルザークアメリカで見聞きしたものがすべて詰まっているように思いますし、それはドヴォルザークらしい「批判精神」なのではと、聴いていて思いましたし、それを考えさせるハルオケさんの演奏でした。

これは、売上や利益も追求しなければならないプロオケでは味わえない喜びだと思います。確かに、プロオケならもっと高いレベルを味わえるでしょうが、果たして、ここまで魂レベルで共感したり考えたりできる演奏をあじわうことが出来るだろうかとも思いました。人間のよろこびとは?魂の愉悦とは?常に考えさせるハルオケさんの定期演奏会には、今後もできるだけ足を運びたいと思います。

 


聴いて来たコンサート
Orchestra HAL 第24回定期演奏会
アントニン・ドヴォルザーク作曲
序曲「謝肉祭」作品92 B.169
交響詩「真昼の魔女」作品108 B.196
交響曲第9番ホ短調作品96 B.178
石毛保彦指揮
Orchestra HAL

令和6(2024)年2月24日、東京、大田、大田区民ホール アプリコ大ホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

コンサート雑感:オーケストラ・ルゼル第29回演奏会を聴いて

コンサート雑、今回は令和6(2024)年2月23日に聴きに行きました、オーケストラ・ルゼルの第29回演奏会のレビューです。

オーケストラ・ルゼルは東京にあるアマチュアオーケストラです。東京電機大学のOB・OGたちが2004年に創設しました。

www.lezele.org

ボランティア活動もやられているようで、市民オーケストラではないんですが社会と積極的につながる姿勢は好印象です。

さて、このオーケストラ・ルゼル、実は以前からその名前だけは存じ上げておりました。ただ、中大関係ではないので、どうしようかなあと二の足を踏んでいたのでなかなか聴きに行けないオーケストラだったのです。ただ今回、指揮者が橘直樹(ブラバン!甲子園の指揮者)氏だったことと、実は次回第30回にベートーヴェン「第九」を演奏されると言うことで、なら聴きに行こう!と決断し行ってきました。今回は葛飾区にあるかつしかシンフォニーヒルモーツァルトホールでした。

オーケストラ・ルゼルの「ルゼル」とは、フランス語で「ル・ゼル」、つまり情熱という意味。情熱と言えば、私が好きな演奏は「情熱と冷静の間」な演奏。さて、このオーケストラはいかがなものでしょうか・・・

当日のプログラムは以下の通り。

ベートーヴェン 「フィデリオ」序曲
ヒンデミット 交響曲「画家マティス
ブラームス 交響曲第2番

どれも魅力的な曲なのですが、「画家マティス」を演奏するアマチュアオーケストラも少ないですから、ぜひ聞きたかったのですが・・・やっちまいました。スマホを家に忘れて取りに帰る・・・しかも、そもそも出発も遅れていました。

都下から下町までは1時間はかかります。同じ東京と言えど広いのです。そのため、ホールに着いたときは前半終ってました・・・つまり、「画家マティス」は聴けずじまい。これは残念だったなあと思います。

かんちゃんさんがそういう時って、大抵いい演奏だったときですよね?というア・ナ・タ。鋭い!おっしゃる通りです。オーケストラ・ルゼルさん、本当に素晴らしいオーケストラなんです。

今回聴けたのは、後半のブラームス交響曲第2番。そのレビューとなるのですが、冒頭第1楽章のトロンボーンが素晴らしい!オーケストラによっては不安定にもなる部分なのですが、不安定な部分がみじんもありません!当日、指揮者の橘氏から曲の解説があり、トロンボーンは3管が基本で、それは「三位一体」を表わす(音階を自在に出すことが出来るため教会で使われることが多かったためで、実は以前私もブルックナーのモテットのエントリで触れています)ので。ブラームスの言いたいことはいったい何かを常に考えて振っていますと述べられたのですが、それはそれで重要なコメントですが、オーケストラにとっては緊張する一言だったと思います。そのプレッシャーがある中で、見事に朗々と鳴らすとは!

さらに、弦楽器からは全くやせた音が見受けられず、最後まで徹底されていました。アマチュアらしさは、金管のちょっとした雑さくらい。私はプロオケを聴きに来ているのか?と錯覚するくらいです。表現力も豊かで、単にのどかであるだけでなく、途中短調へ転調する部分は、まるでブラームスの心のうちを聴いているかのよう。

トロンボーン奏者が、このブラームス交響曲第2番という曲のトロンボーンの役割と位置付けというものを考えながら、指揮者と意思統一が出来ていると感じました。橘氏は決してオーケストラ・ルゼルの音楽監督ではないんですが、オーケストラと指揮者との信頼関係が出来上がっていると感じました。

帰ってきてからプログラムを読み返しますと、そもそもはオーケストラ・ルゼルさんは古楽的なアプローチをするオーケストラだそうですが、今回はさらに進んで、Histrical Informed Paformanceアプローチを実践したそうで、これは歴史的な視点で、当時の作曲家の意図をくみ取るため歴史的な考察でもって演奏するという意味で、バロックであればノンビブラート奏法で音を張りっぱなしにしないというものになりますが、後期ロマン派であればビブラートをかけてたっぷりということになります。具体的にはアーティキュレーションを大事にしゃべる、歌うと言ったことをテーマにしていたそうで、その結果は実に演奏に出ていたと思います。本当にオーケストラが「歌って」いました。聴いていて本当に饒舌なオケだなあと思いましたが、それはしっかりとした意図のもとだったということになります。

この姿勢は、先日聴きに行ったバッハ・コレギウム・ジャパンの「ドイツ・レクイエム」とはある意味真逆なのですが、しかし両方とも素晴らしい演奏で感動するものでした。こういったところがクラシック音楽を聴く楽しみなんですよね~。考えてみれば、「ドイツ・レクイエム」は作品45、交響曲第2番は作品73。その作品の間には9年という月日が流れており、交響曲第1番もその間に生み出されています。この9年という間に、ブラームスの中で様々なことが変化したとも考えられ、興味深いです。その異なる部分を、スコアと向き合っているからこそ、オーケストラの団員は感じ取ることが出来たとも言えるのかもしれません。おそらくですが、その共通認識が団内であったからこそ、今回指揮者が橘氏だったのかもと思います。そもそもがバッハ・コレギウム・ジャパンのような演奏スタイルであるはずのオーケストラが何も考えずに姿勢を変えることはないはずなので。

姿勢を変えると私は言いましたが、恐らくオーケストラの団員の方たちは、自分たちは全く変わっていないと考えているのかもしれません。歴史的アプローチをしているだけと言うかもしれません。ただ、私自身は古楽的なブラームス交響曲第2番の演奏も聴いて、なるほどこういうアプローチもありか!と目からうろこだったのも事実なので、歴史的アプローチで後期ロマン派的な演奏に立ち戻るのもいい視点かもしれないと思います。

ykanchan.hatenablog.com

私の上記エントリの、トーマス・ツェートマイヤー指揮ヴィンタートゥール・ムジークコレギウムの演奏も実に爽快かつ陰影のある素晴らしい演奏なのですが、ともすれば「古臭い」とも言える今回のオーケストラ・ルゼルさんの演奏を比べて、どっちがいいとか悪いとか正直言えないのです。どっちもいいんです。むしろ、その保守的な演奏でもアマチュアとして感動させる説得力ある演奏をしてしまうそのレベルの高さに脱帽するしかありません。私が比較しているのは、海外のプロオケですよ?比較できるだけの実力を持ったオーケストラが、社会の中で生活しながらあくまでも趣味の域なのに存在する・・・このすばらしさとすごさは、正直日本すごい!系のYouTuberは動画にすべきです。これこそ真に日本の底力ですしすごい点だと私は思うのですが・・・

やはり、このオケを聴き行きたい!という私の「嗅覚」は間違っていなかったと思います。実際、第1ヴァイオリンも結構体全体を使って演奏していて感情が入っているなあと感じましたし。さらにアンコールのポルカ「雷鳴と電光」(!)もまるでウィーン・フィルニューイヤーコンサートです。残響的にムジークフェラインザールに近いかつしかシンフォニーヒルモーツァルトホールだからこそなおさら私はウィーンにいるのか?と錯覚してしまうくらい。プロオケだけがオーケストラではないです。アマチュアの演奏会もぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?人生がより豊かになると思います。

次回は年末12月にベートーヴェンの第九。とても楽しみです!このオーケストラだと、名演の予感しかしません!

 


聴いて来たコンサート
オーケストラ・ルゼル第29回演奏会
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
歌劇「フィデリオ」序曲
パウルヒンデミット作曲
交響曲「画家マティス
ヨハネス・ブラームス作曲
交響曲第2番ニ長調作品73
ヨハン・シュトラウスⅡ世作曲
ポルカ「雷鳴と電光」(アンコール)
橘直樹指揮
オーケストラ・ルゼル

令和6(2024)年2月23日、東京、葛飾、かつしかシンフォニーヒルズ モーツァルトホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:フランス・ヴァイオリン・ソナタ

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、フランスの3人の作曲家のヴァイオリン・ソナタを収録したアルバムをご紹介します。

フランスの作曲家と言って、誰を思い描くでしょうか?なかなか交響曲がないので思いつくのも大変かもしれません。このアルバムには、フランク、ドビュッシーラヴェルの三人のヴァイオリン・ソナタがそれぞれ1曲ずつ収録されています。

順番はフランク、ドビュッシーラヴェル。この順番でピン!と来たあなたは相当なクラシックファンです!実はこの順番、成立順になっており、それは19世紀~20世紀にかけてのフランス音楽史にもなっているのです。

この3人のうち、ヴァイオリン・ソナタを複数書いているのはラヴェルだけ。他の2人は一つだけです。さらに言えば、ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタドビュッシー最後の作品です。

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フランクのヴァイオリン・ソナタは4楽章、ドビュッシーラヴェルのは3楽章制です。これはそれぞれの音楽のスタイルに違いがあることを意味します。フランクはどちらかと言えば保守的な音楽を書く人で、ドイツ音楽の影響が強い人。ドビュッシーラヴェルは、新しい時代、特にフランスという国を意識した様式を採用した人です。特に、ドビュッシーの存在は大きく、フランス・バロックに範をとった新しい和声を創造し「象徴主義」の作品を創作。その延長線上にさらに発展させたのが、ラヴェルの「印象主義」です。しかしその萌芽はすでにフランクにおいてでもあることが、このアルバムを聴きますとわかります。和声的にドイツ音楽とは異なる方向を向いており、ドイツ的なのは楽章数とソナタ形式です。それがドビュッシーになるとかなり自由になり、ラヴェルではもうソナタ形式はどこへ行ったのかという感じです。勿論、和声はドイツ的とはいいがたいものです。

ドイツ古典派的な形式美が好きな人だと、フランクは聴けてもドビュッシー以降はなかなか聴きづらいのではないでしょうか。しかし、和声に目を向けると、実に豊潤な地平が広がっていることに気が付かされ、ドイツ音楽とは違った美しさがそこにあることが分かります。

このフランス音楽の自由な形式をもってドイツ音楽を批判する人も多いのですが、私自身はそれぞれ個性なので何も批判はしません。ドイツ音楽も20世紀に入りますと様々変化して、形式などどこへ行ったのかという音楽も多いです。少なくとも様式美を追及するような手法は取られなくなります。古典派の形式美の音楽も好まれますが一方で作曲家たちは人間の内面を描くべく、様々な手法を試し、音楽は多様性の時代に突入します。

私自身は、フランス音楽の自由さという点に囚われてしまうと、多様性の否定に走ると考えています。ドビュッシーが3楽章を採用したのは、フランスバロックの時代は3楽章が多楽章の音楽とされたところと、「自由」の二つの意味を持つわけで、むしろ3楽章という様式が一つの形式美を作っているとも考えられるからです。それはドイツ的な形式美とはまた違ったアプローチです。それぞれの美しさを愛でるほうが、人生はより豊かだとは思わないでしょうか?

そもそも、私たち日本人は海外文化を自分たち流に取り入れる民族です。それは本質を見ないこともあるという欠点を抱えている一方、囚われなく受け入れることもできるという長所も持っています。ならば、本質を理解したうえで、境界線を引いて受け入れても構わないことを意味します。それこそ、日本人の特筆すべき長所だと私は信じています。

実は、この録音を演奏しているのは、シュロモ・ミンツとイェヒム・ブロンフマンの二人。実は二人ともロシア系ユダヤ人なのです。

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そのうえで、この音源はドイツ・グラモフォン。フランスとは関係ないようなレーベルなのですよね。どこを見てもフランスらしさは見かけることが出来ません。両人ともその出自からユダヤ系のヴァイオリニストに師事したり見いだされたりしています。その二人が、フランス音楽を奏で、一つのアルバムに結実させている・・・ここにこそ、このアルバムの特徴があると言っていいでしょう。この3つの作品はそれぞれ、対等な関係で演奏される曲です。ベートーヴェン以降は全てそうだとも言えますが、19~20世紀にかけてのソナタとは、それぞれが対等の立場でアンサンブルすることがすでに当たり前の時代です。ソナタを書くと言うことは、それだけ友愛を表わすキーワードであるわけです。

ということは、このアルバムの隠れたキーワードは「協調」だとか「友愛」ということになるでしょう。そのためには、時には境界線を引くことも必要ですし、強く相手を拒否するのではなく、相手を認めたうえで出来ないことはできないと言うような姿勢が大切になるわけです。ロシア系ユダヤ人という出自からして、歴史の重みを背負っているとも言えますし、そのバックグラウンドがあるため、これらフランスのヴァイオリン・ソナタを選択したとも言えます。

私たち日本人も、西洋音楽は必ずしも伝統的な音楽ではありません。しかし私たち自身も伝統的な音楽を持っており、同じ伝統的な音楽に対して敬意を表し、愛でることは可能であることを、明治以降世界に示してきました。その歴史は誇るべきものなのだという意識を、そろそろ持っていいのではと思います。友愛の精神で、西欧音楽を愛で、ドイツ音楽が日本のクラシックシーンでは優勢であったとしても、フランス音楽が迫害されているわけではないですし、好きなクラシックファンも数多く存在します。そして、私のようにドイツ音楽もフランス音楽も好きというクラシックファンも存在するのです。その幸せを大事に発展させることが、今後さらに必要ではないのかと、この演奏を聴きますと強烈に思い知らされるのです。

 


聴いている音源
セザール・フランク作曲
ヴァイオリン・ソナタ イ長調FWV8
クロード・ドビュッシー作曲
ヴァイオリン・ソナタ ト短調
モーリス・ラヴェル作曲
ヴァイオリン・ソナタ ト長調
シュロモ・ミンツ(ヴァイオリン)
イェヒム・ブロンフマン(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。