かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

コンサート雑感:Orchestra HAL 第24回定期演奏会を聴いて

コンサート雑感、今回は令和6(2024)年2月24日に聴きに行きました、Orchestra HALの第24回定期演奏会のレビューです。

幾度かこのブログでも取り上げております、Orchestra HALさん(通称ハルオケ。以下「ハルオケ」と呼称します)。この2月は一気にいろんなアマチュアオーケストラの演奏会が復活したことで、ハルオケさんのコンサートも行けずじまいになるところでした・・・危なかった。実は、そもそもこの日は日中にある合唱団の演奏会(メインはメンデルスゾーンの「エリア」)を予定していたのですが、3月に九州は香椎線(自動運転レベル2.5実証実験中で、3月16日のダイヤ改正から本格運用予定)に乗りに行こうと計画していることから、予算的に厳しくなったことで断念したことが幸いしました。人生すべて塞翁が馬と言いますが、本当に感じます。

さて、ハルオケさんは、東京のアマチュアオーケストラで、対話を大事にするオーケストラです。これ、なかなか実践するのは難しいのですが・・・

hal.mu

結果で示すところは、他のオーケストラも参考にできる部分はたくさんあると思います。いや、オーケストラ関係者だけでなく、普通に生きる私たちもまた、考えさせられるところです。

今回のプログラムは、以下の通り。

オール・ドヴォルザーク・プログラム
①序曲「謝肉祭」
交響詩「真昼の魔女」
交響曲第9番新世界より

オーケストラの配置は対向配置・・・と思いきや、何だか違う。客席から見てひだりにヴァイオリン属とチェロ、コントラバスが要るのです。どうやら、ヴィオラですね。この配置、最近結構見かけます。対向配置のように見えて保守的な配置だと思います。ヴィオラの位置をチェロと入れ替えただけと考えていいと思います。この配置だと、ヴァイオリンは第1と第2が互いに音を聴くことが出来るので、間違いが少ないという利点があると思います。

毎回テーマがあるハルオケさんですが、今回のテーマはズバリドヴォルザークだったわけです。指揮者が石毛さんで固定というのも、ハルオケさんの特徴。関係性を大切にして徹底的に議論し作り上げていくその姿勢は、本当に頭が下がります。

まずは、「謝肉祭」。キリスト教カトリックの「四旬節」は断食の儀式なのですが、その直前にしこたま食べておこうという民間の行事を指します。なのでじつはキリスト教と関係が無いのですが、その「関係ない」というところがミソだと思います。

www.cbcj.catholic.jp

そういう背景の中で作曲されたのが、ドヴォルザークの「謝肉祭」なのです。「自然と人生と愛」と名付けられた3つの演奏会用序曲のうちの一つです。

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キリスト教とは関係ないといいつつも、実はオーケストラはキリスト教の影響を受けた編成でもあります。それは、先日オーケストラ・ルゼルのエントリの中でも触れましたが、トロンボーンは3管編成であると言う点です。そもそもトロンボーンは教会で使われていた楽器である上に、3という数字は「三位一体」を表わしていて、そもそもキリスト教由来なのです。

なのに、「謝肉祭」はある意味、教会の四旬節の前に、思いっきり食べてやろう!というある意味反骨の意志を表わしたもの。そもそも、四旬節って節制の意味があり、イエスの労苦を偲び自らを振り返りましょうというものであるはずですが、その真逆のことをしておくということなんですね。

でも、考えてみれば、人間が食べるという行為は生きていくうえで必然です。食べなければ死んでしまいます。しかも、人間にとって食べることは喜びでもあります。動物と異なりその喜びを表現する生物です。それは生きる喜びでもあります。そう考えると、どこか教会とは距離を置くような気がしますよね?

音楽自体はお祭り騒ぎのような雰囲気もあります。これは他の作曲家が謝肉祭を描いたものでも共通する雰囲気です。考えてみますと、謝肉祭を扱った作品が増えるのはキリスト教が退潮した19世紀以降に多いことに気が付きます。謝肉祭とは、ある意味歴史を背負ったものであると考えてもいいのではないでしょうか。この作品をドヴォルザーク・プログラムのトップバッターに据えてきたか!と思うと、ハルオケさんの知性のすばらしさに感嘆せざるを得ません。そして、そのハルオケさんが生き生きと、しかし、一切アマチュアらしいやせた音なしに演奏するんです!いやあ、のっけから聴かせてくれますね。

2曲目が交響詩「真昼の魔女」。いたずらをする子どもに、魔女がでるからやめてと母親が懇願しますが、ついに魔女が登場、母親は気絶し子どもは絶命し、それを父親が発見するという悲しい物語です。

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これって、何かに似ていると聴いていて思いました。シューベルト「魔王」と・・・

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ただ、二つの違いは、「真昼の魔女」は最初は穏やかに始まるのに対し、「魔王」は最初から厳しい音楽だということです。しかし、最後はどちらも子どもは絶命。ある意味、私たち日本人が「死んだら閻魔様に舌を抜かれて地獄に落ちる」と言い聞かされるのと似ています。そう考えると、洋の東西を問わず、人間というものは似ているなと思います。

子どもの死という意味では、ドヴォルザークは生涯で生前に子どもを亡くしていますが、その経験もあるとはおもいますが、むしろこの作品がアメリカからボヘミアへ帰って来て成立していることを考えると、どこかアメリカにおけるインディアンの扱いを見た経験が根底にあるのでは?と私は思いました。メインの作品を考えるとその関連でハルオケさんが選択したように思いますし、その共感に演奏はあふれていたように思います。特に魔女が登場した場面以降の、白熱した演奏を聴きますと感じます。

休憩後のメインが、いよいよ「新世界より」。もうドヴォルザークと言えばこれ!という定番の作品ですが、オーケストラのトロンボーンは3管編成というのと、2つの曲を踏まえてこの曲を聴きますと、また違った印象を受けます。そもそも、「新世界より」は新世界と言われたアメリカの風景を切り取ったような作品で、随所にインディアン民謡や鉄道のエッセンスが盛り込まれています。まるで大陸横断鉄道がインディアンの居住区を走り抜けていくような・・・

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とくに、この曲においては、鉄道のエッセンスが極めて重要だと私は個人的に思います。そもそも、ドヴォルザークはクラシックの作曲家の中では筋金入りの鉄道ファンです。鉄道を描くというよりは、そのリズムを積極的に普通に作品にしれっと使う人です。ドヴォルザークはひていしていますがそのうえでアメリカ・インディアンの旋律も借りています。少なくとインスパイアされていることは明白です。それがこの曲がまさに「新世界より」と言われるゆえんでしょう。しかし、ではなぜドヴォルザークアメリカインディアンや黒人霊歌から題材をとったりインスパイアされたりしたのでしょう?

それは、ドヴォルザークチェコ国民楽派につらなる人だったからと、端的には言っていいでしょう。チェコ、当時はボヘミアですが、ボヘミアの音楽を題材、あるいはインスパイアされて作曲していたドヴォルザークにとって、アメリカの先住民族であるインディアン、そしてヨーロッパにはない黒人の音楽はまさに新世界であるアメリカを代表する音楽だったのです。使わないほうがおかしいですね。そこにはしっかりと「権力や権威からの距離」を感じるのです。それを、ドイツ音楽の延長線上にある交響曲という様式を使って表現する・・・そもそも、交響曲とは、ハイドンが生きた時代の先進地域であったイタリアやフランスと言った国に対するアンチテーゼであり、民族意識を勃興させる道具でもありました。それがドヴォルザークの時代になると、単に民族自決の道具に置き換わったというわけです。ここが、私はバルトークが理解できなかった点だと思っています。

その音楽史を踏まえた視点が、ハルオケさんにはしっかりとあるのでは?と思いました。共感にあふれる、朗々とした金管、そしてトロンボーン。機関車が近づいて姿が見える場面を想起させるような場所で鳴らされることへの共感も感じます。リズミカルかつ歌う弦楽器。徹底的に歌う木管。そこには、ドヴォルザークアメリカで見聞きしたものがすべて詰まっているように思いますし、それはドヴォルザークらしい「批判精神」なのではと、聴いていて思いましたし、それを考えさせるハルオケさんの演奏でした。

これは、売上や利益も追求しなければならないプロオケでは味わえない喜びだと思います。確かに、プロオケならもっと高いレベルを味わえるでしょうが、果たして、ここまで魂レベルで共感したり考えたりできる演奏をあじわうことが出来るだろうかとも思いました。人間のよろこびとは?魂の愉悦とは?常に考えさせるハルオケさんの定期演奏会には、今後もできるだけ足を運びたいと思います。

 


聴いて来たコンサート
Orchestra HAL 第24回定期演奏会
アントニン・ドヴォルザーク作曲
序曲「謝肉祭」作品92 B.169
交響詩「真昼の魔女」作品108 B.196
交響曲第9番ホ短調作品96 B.178
石毛保彦指揮
Orchestra HAL

令和6(2024)年2月24日、東京、大田、大田区民ホール アプリコ大ホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。