かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:モンポウ 静かな音楽

東京の図書館から、今回は府中市立図書館のライブラリである、モンポウの「静かな音楽」を収録したアルバムをご紹介します。

このアルバムを借りたきっかけは、実は元東京都知事猪瀬直樹氏のツィート(現Ⅹのポスト)です。そこで熊本マリさんのアルバムのことをつぶやいていたので、興味を持って熊本マリさんのアルバムを借りてみよう、と棚を見た時、このモンポウの「静かな音楽」のアルバムを見つけたというわけです。

猪瀬氏と言えば、副知事時代には東日本大震災を経験し、知事になってからは都営地下鉄東京メトロの合併などを模索した人ですが、そのやめ方が・・・まあ、そのあたりはあまりほじくらないこととして。とはいえ、実はその都営地下鉄の一件で、私としては距離を置いた人でもありました。まあ、言いたいことはわかるのですが・・・それはここでは触れないこととします。

さて、その猪瀬氏と言えば、結構孤独というか、自分の意志を貫く人でもあります。そんな人が評価した演奏家のアルバムはどんなものなのだろうかと、興味を持ったのは事実です。少なくとも、このアルバムを聴いていますと、何となく好んだ理由が分かるような気がしています。

モンポウは、主に20世紀に活躍したスペインの作曲家です。フランス人の血筋を引いており、作品もフランス語で解説していたりもするそうです。

ja.wikipedia.org

しかも、スペインと言ってもカタルーニャ出身。ということは、スペインの中でもマイノリティーだということになります。基本的に、フランス印象派の影響を強く受けています。「静かな音楽」も基本的にはフランス印象派の影響のもとにある作品だと私は判断しています。

ja.wikipedia.org

「静かな音楽」よりは「ひそやかな音楽」と訳されることが多いのですが、果たして、その訳で本当にいいのだろうかと思うところもあります。実は、この作品は晩年身近な人々をモンポウが亡くしたことがきっかけになっています。

enc.piano.or.jp

直訳すると「沈黙の音楽」なのですが、なぜ「沈黙」なのかという点ですね。一応原語のスペイン語であるCalladaを検索してみると、静寂とか沈黙、あるいは海の凪の状態というような意味があるそうです。

kotobank.jp

その意味で言うと、ウィキペディアの「題名」の項目に重要な文章が載っていると私は思います。

「題名はスペインの神秘思想家十字架の聖ヨハネ(San Juan de la Cruz)の詩『霊の賛歌』(Cántico espiritual)の中にある一節「音のない音楽、叫ぶ孤独」(la música callada, la soledad sonora)からとられている。十字架の聖ヨハネはこれを、「自然の感覚と能力に関する限り、その音楽には響きがない。しかし、孤独は精神の持つ能力を通して大きく響く」と説明する。一方、当曲集第1巻序文にフランス語で書かれているモンポウ自身の言葉によれば、「música callada」の真の意味をスペイン語以外で表現したり説明しようとするのは難しいという。」

十字架の聖ヨハネは、スペインにおいて宗教改革を実行し、カトリックの中で異端とされ抑圧された人生を送った人です。

ja.wikipedia.org

カタルーニャ人でありさらにフランス人の血が混じるモンポウとしては、十字架の聖ヨハネの人生や治績が自分と重なるものがあったように私には見えます。そこが、猪瀬氏にとって、共感するところであり、そしてその部分を掬い取ろうとしている熊本マリさんの演奏が、心にしみたんでしょう。私も一応自分でどこか違うところがあると思っているので、何となくわかる気がするのです。

演奏する熊本マリさんは、実はモンポウに関する書籍の日本語訳をした人(ウィキペディアモンポウ」脚注3)です。そのうえで、自分で演奏もしている。聴いていると、演奏はどことなくタッチが柔らかく、丁寧さが目立ちます。沈思黙考という言葉が日本語にはありますが、まさに言葉通りな演奏なのです。作品自体も全体的には印象派の影響下にあるせいか、調性と無調が入り混じっており、かつ段々作曲年代が下るにつれ、不協和音や無調的な音楽が強くなります。それが1959年に第1巻を作曲して、最後第4巻成立の1967年という8年で変わっていくさまを、熊本さんが楽譜から掬い取っているように聴こえるのです。

特に、第4集は作曲が1967年なのに、初演は1972年。5年もの間が空いています。しかも、第4巻だけ献呈者が存在し、それが名ピアニストのアリシア・デ・ラローチャで初演も彼女です。その名ピアニストが初演した作品も含まれることで、多少の緊張もあるはずですが、演奏は実に自然体で聞こえてきます。名ピアニストがどうのではなく、作品そのものがいかに成立し、どのような精神を内包しているのかに、演奏が集中されているように聴こえるのです。おそらく、熊本マリさんも、「ひそやかな音楽」という訳に対して、違和感を持っているのでは?と思います。霊的世界との対話という印象が強い作品だと私は受け取っており、その霊的世界とは、実は自分の内面のように思うのです。すくなくとも、ここに他者は存在せず、自分の内面と、恐らく自分を超えた大きな力との対話が、作品に現われていると感じます。音楽そのものもそうですが、その音楽の基礎には、十字架の聖ヨハネが人間の生き方、精神の在り方として理想としたものがあると私は思います。

それは、スペインだけでなく、もしかするとこの日本でも当てはまるような気が、私はしています。そして同じように熊本さんも感じ、猪瀬氏も感じ取ったのでは?と思います。ただ、私自身もそうなのですが、異端を貫き通し自分を守るというのは、なかなか大変でしんどいです。しかしだからこそ、この「静かな音楽」にどこか共感する自分がいるのですよね。猪瀬氏も、自分のオリジナリティを保つのに大変でしんどかったのでしょうが、しかしそれは自らが選択した人生でもあります。その人生をどこまで引き受けることが出来るのか・・・政治スタンスがいかなるものであろうとも、人間というのは自らのアイデンティティを守るというのはなかなかしんどいことなのではないでしょうか。しかし、そのしんどさを音楽で分かち合うことが出来れば、たとえ自分が一人であっても、さみしくはないのではと思います。どこかで必ず、同じように考えている人に出会うものです。その出会いを大切に生きれば、どんな困難があったとしても、乗り越えられるように私は思います。

私は決して一人ではない・・・音楽を聴くたびに、私は思い返すのです。「静かな音楽」は最後、明るい調性かつ調性音楽的に終わります。そしてカップリングのアリアーガにたどり着きます。アリアーガも素晴らしい音楽を書く人でしたが・・・

ykanchan.hatenablog.com

このアリアーガの明るい音楽につなげていることが、熊本さんのモンポウ解釈であり、そこには「必ず希望がある」ことを明示しているように聴こえるのです。

 


聴いている音源
フェデリコ・モンボウ作曲
静かな音楽
ホアン・クリソスト・アリアーガ作曲
ロマンス
熊本マリ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。