かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ガーディナーとオルケストレル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティクによるベートヴェン交響曲全集4

東京の図書館から、4回シリーズで取り上げております、小金井市立図書館のライブラリである、ジョン・エリオット・ガーディナー指揮オルケストレルレヴォリュショネル・エ・ロマンティクによるベートヴェンの交響曲全集、今回は第4集を取り上げます。

この第4集には、交響曲第7番と第8番が収録されています。勿論、第5集が「第九」なのですが、それはすでにCDで持っているため、このシリーズでは取り上げません。

この第4集は、ここまで取り上げてきたものの中では最も充実した演奏であると感じます。古楽的なアプローチをしつつも快速とはあまり感じられず、しかし生命力に満ちた演奏になっているのです。

こう聴いてくると、この全集、表題がついていない交響曲のほうがはるかに素晴らしい演奏になっているのが不思議です。これはあくまでも私の個人的な推測に過ぎませんが、作品のストーリーにとらわれすぎているのではないでしょうか。そして、後期ロマン派の「内面性」重視を払しょくしようとしてもどこかに内面性も入れ込もうとする、何かゆがんだものを感じてしまうのです。

しかし、表題無しの、第1番、第2番、第4番、そして第7番と第8番は、文句のつけようがない演奏です。古典派的なアプローチで実に自然な演奏になっていますし、それゆえに生命力が存在するのです。そもそもベートーヴェン交響曲は、たとえ標題がついていようとも、自然と生命力が存在する作品に書いているはずだとは思うのですが・・・

ベートーヴェン交響曲で明らかに標題がついているのは実は2つしかありません。第3番「英雄」と第6番「田園」です。どちらも、海外でも「エロイカ・シンフォニー」「シンフォニア・パストラール」と言われる作品なので。しかし、「運命」は基本的に名称はつきません。単に「第5交響曲」と呼ばれるだけです。その事実を受け止めたうえで、スコアリーディングの上、ベートーヴェンが楽譜に込めたストーリーや想いを掬い取るか、それを自分の言葉で発するか、だと思います。その視点で言えば。どうもガーディナーは「古典派」という時代を踏まえつつも、ストーリーにとらわれすぎているように思えるのです。

第7番はどっしりとしたテンポが殆どで、古楽オケとは思えないほど。一方の第8番では、最終第4楽章はかなりの快速。でも、それが全く違和感なくむしろ必然であるかのように音楽が流れます。そして両方に共通するのは、しっかりとしたアクセント。快速な第8番であっても、快速さを引き立てるための細かいアーティキュレーションがしっかりとアクセントになっています。そうだよねえと私自身聴いていて共感します。

この録音は全て1990年代と約30年ほど前の録音ですが、その時代すでにヨーロッパでは古楽演奏など普通になっているんです。でもどこか、学究的な姿勢過ぎてきたのではという気もします。なぜ古典派の時代の演奏スタイルをするのかという、本質を見失っていたのではという気がします。そこを気づかせたのは、むしろバッハ・コレギウム・ジャパンだったのではないかとすら、私自身は考えています。

2000年代に入り、日本でも海外でも、優れた自然体な古楽演奏が増え、モダンオケにも好影響をもたらしました。その直前期の録音だと言えるでしょう。古楽演奏に欠けているのは何か、ガーディナー自身も振っていてどこか感じていたのでは?という気がします。そもそも、なぜバロックまでと古典派以降で担当するオーケストラを分けたのか、ガーディナーが見失っていたことがあったのではないかとすら、私には聴こえるのですが、聴かれたことがある方、どのようにお感じなられるでしょうか。

演奏として決して否定するものは一つもありませんが、かといって全面的に共感するものは少ない全集だと感じています。さて、ここまで聴いて、第九はどのように聴こえるのか?私自身に何か変化はあるのか?

次は実際に聴いてみたいと思います・・・

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第7番イ長調作品92
交響曲第8番ヘ長調作品93
ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
オルケストレルレヴォリュショネル・エ・ロマンティク

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