かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:バッハ オルガン作品全集10

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、バッハのオルガン作品全集を取り上げていますが、今回はその第10集です。ケーテン〜ライプツィヒの期間に作曲された作品が収録された、その第1集となります。

収録されている主な作品はプレリュードとフーガなのですが、まず第1曲目のホ短調BWV548は、鈴木雅明氏がアルバムで最終曲とした作品です。その差を見てみると面白いです。

鈴木雅明氏はこのホ短調BWV548に関しては多少音で圧倒するような演奏になっているのですが、イゾワールはいつもどおりしなやかで繊細です。もちろん、fやffでは音で圧倒する感じもありますが、その中にもどこか暖かい目線があるのを感じます。

こういったぶれない部分はイゾワールの演奏の魅力だと思います。一方の鈴木雅明氏はむしろ作品によって自在にするというコンセプトで、それもまたまったく気になりません。その二人に共通するのは、そもそもバロックの作品は舞踊性があるという点をしっかりと踏まえているということだと思います。

バッハのこれらのオルガン作品にあっても、バロックの舞踊性というものはしっかりと作品内に内包されているのですが、その特色をしっかりと踏まえながらも、自らのスタイルを作り上げ、それがそれぞれ魅力的というのはすばらしいと思います。じんわりと後から感動が体中に満ちてくるのを感じます。

特にイゾワールの演奏にはここまで本当に感動されられっぱなしです。音がキラキラすらしているんですよね。だからこそ圧迫感がない。抜けるような青空の如くの壮大さと爽快さがあります。それによる美しさこそ、イゾワールが考える「神への讃美と献身、そして対話」なんだろうと思います。

それは決して外面的なものではなく、徹底的に内面のなかで醸成された結果なんだと思います。決してクルレンツィスの音楽のように熱狂するものではないですが、私はこのような演奏のほうが遥かに好きです。熱狂は熱狂で私も好きですが、熱狂は時として自分を見失させるので・・・・・私にはそぐわないです。

ですのでこのイゾワールの演奏のほうが好きなんですね。バッハの知的でありかつ情熱的な作品群を演奏するには、ちょうどいいのだと思います。

ちょうどいま、クルレンツィスとムジカ・エテルナが来日中で、SNSなどで高評価のレヴューを見ますけれど、どうも私は共感できないんです。いや、彼らの音楽性はすばらしいし、その演奏もすごいしすばらしいとは思います。けれども、彼らの演奏は時としてどこか強迫的な部分すらあるんですよね・・・・・

けれども、イゾワールには、そういった強迫的な部分が微塵もないんです。プレリュードとフーガはともすれば相対する作品が同居するというものですが、バッハの中では一まとまりであるわけで、その「異なるけれども一つ」という部分をどう咀嚼するかが、イゾワールは絶妙だと思います。それは多分、私自身がテーマとしているからこそ、共感するんだろうと思います。

神はどこかで、自分で気がつくよう配慮しているような気がします。え、それはキリスト教の神じゃないだろって?そのとおりです。けれども、「自分を超えた大きな力」とは、どんな宗教であってもそのようなものだって思います。




聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
プレリュードとフーガ ホ短調BWV548
プレリュード、アンダンテとフーガ ト長調BWV541
プレリュードとフーガ ロ短調BWV544
プレリュード、ラルゴとフーガ ハ長調BWV545
トリオ ニ短調BWV583
プレリュードとフーガ ハ長調BWV547
アンドレ・イゾワール(オルガン)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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