かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:バッハ オルガン作品全集6

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、バッハのオルガン作品全集を取り上げていますが、今回はその第6集です。第6集は作曲された時期や場所でまとめられており、この第6集はヴァイマルでの作品が並んでいます。

その筆頭として挙げられているのが、バッハのオルガン曲としては圧倒的に有名で人気なトッカータとフーガ ニ短調BWV565です。え?どんな曲かわからないですって?なら、この替え歌はどうですか?

ちらり〜鼻から牛乳

それは嘉門達夫でしょ、って?ええ、これは嘉門達夫の「鼻から牛乳」ですね。でも、この最初のフレーズはバッハのBWV656の「トッカータ」です。そして、この嘉門達夫の替え歌こそ、日本人のバッハ受容に対する強烈な風刺だと私は思っています。おそらく、このイゾワールの演奏すら片隅に追いやられているというような状況が、嘉門達夫をしてその替え歌から作品を紡ぎ出す結果につながったと思います。

嘉門達夫って人は本当に音楽が好きな人です。そんな人が理由もなく使うことはないでしょう。もちろん、こうしたら面白いんじゃないかって思ったからこそでしょうが、この作品が世に出た当時、本当に受けたんです(私も笑い転げた一人です、深夜にラジオを聴きながら)。そして其の時代にバッハのオルガン作品で好まれたのは、音が圧倒する力任せの演奏でした。このトッカータとフーガニ短調はその代表選手です。

けれど、バッハって人はそんなに真面目くさった人だったんでしょうか?彼の人生を紐解いてみれば、必ずしもそうとは言えません。しかも、長男はどうもおかしな方向に・・・・・共依存強かったのではないかなあって思います。ただ、ストイックな人だったことは確かなのではないでしょうか。

そのストイックな部分と本当に人間的な部分とを、演奏者がどのように受け取り、表現するか。そこに、バッハの作品の妙味ってあるように思います。この演奏が録音されたのは1975年。嘉門達夫が替え歌を作って創作したのはそれから10年ほど経ってからです。そのときにもまだ、日本で好まれたのは圧倒的に音が支配する演奏のみだったのです。

イゾワールはその演奏に疑念を持っていることが、このBWV565の演奏を聴けば一目瞭然。決して力任せではなく、むしろどこかに軽さを感じつつも、それは決して軽薄ではなく、むしろどこか力が適当に抜けており、神への讃美を楽しんでいる風です。まるで鼻歌を歌っているよう。そこには、人間イゾワールがいますし。同じ人間として同じ人間であるバッハが作曲した作品に向き合っている用に思います。

バッハがヴァイマルにいた時代は、カンタータへと傾倒していく時代であるのと当時に、世俗曲も数多く作曲された時期です。ある意味、バッハの脂が乗った時期だと言えます。様々な要請や自分の内から湧き上がる感情を楽譜に叩きつけて、一つの芸術へと昇華していった時期のように私は捉えています。その同じ視点をイゾワールが持っていることが本当に嬉しい!

それはトッカータとフーガニ短調だけではなく、下記に示した他の作品の演奏でも同じです。軽く感じるのに音楽の広がりを持っており、壮大なのにどこかに人間がいる・・・・・これぞ、演奏家と音楽との対話なんだと思います。




聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
トッカータとフーガ ニ短調BWV565
トッカータアダージョとフーガ ハ長調BWV564
トッカータとフーガ ニ短調「ドリア調」BWV538
トッカータとフーガ ヘ長調BWV540
ファンタジーとフーガ ト短調BWV542
アンドレ・イゾワール(オルガン)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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