かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:マリー=クレール・アランのバッハ・オルガン作品全集3

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、シリーズでご紹介しているマリー=クレール・アランのバッハオルガン作品全集、今回はその第3集を取り上げます。

「実り多作期」と題されたその2つめである第3集。とはいえ、一番最後のBWV536はヴァイマル時代のもの。とはいえ、少なくともバッハ1700年代初頭という時代はオルガン作品が花咲く時代だといってもいいわけです。

そんな時期の作品を一堂に集めたようなこの第3集でも、アランのスタンスは相変わらずです。基本的なスタイルの中に説得力を持たせるという彼女のゆるぎない信念がひしひしと伝わってきます。

プレリュードとフーガは壮麗かつ壮大な演奏で、基本fもしくはffのまま演奏されます。それが小品、たとえばコラールになると一転ppもしくはp。つまりfとpがほぼ同居しないという演奏なのに、説得力と感動が次々に押し寄せるんです。

これはイゾワールでもそうだったんですが、特にアランでは顕著です。つまらなくなくどんどん引き込まれてしまう。よく聞いてみるととても細かい強弱が付いているんですね。そんな細かい、わかりずらい表現なのに、聴いているこちらは明快に受け取るという、まるでマジックです。

けれどもこれが真のプロの姿です。圧倒的な音というのは聴いている作品の一部でしかなく、そしてその圧倒的ということが一つの表現技法でもあり、同時にバッハのメッセージでもあり、あとは私たち受け手がどう受け取るのかに任されているというだけに過ぎないのだと、アランは言いたげですが、そのアランの主張、私は支持します。

テンポなど、いくらでも工夫の余地はあり、その工夫の如何こそプロの腕の見せ所であり、その腕に私たちは酔いしれるのですが、その腕がひけらかされることはあまりありません。とても自然な中で、けれども奏者は実は自己主張している・・・・・アランの演奏を聴いていますと、音の壮麗さの中に隠されているアランの「意図」がどこか浮かび上がってくるような気がしてなりません。

音の強弱と言えば、最近売り出し中のクルレンツィス/ムジカ・エテルナが出色ですが、それほど強弱をつけなくても、絶妙な表現はできるのだというアランのメッセージ。それはバッハのオルガン作品が持つエネルギーでもあるかもしれませんが、アランは一人の人間として、そして職人として、私たちに作品が持つ世界を見せてくれているようにも思います。

こういう演奏を聴いていますと、どこか「クルレンツィスは革命家だ!」とかいう言葉のほうが空虚に聞こえてきます。




聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
プレリュードとフーガ ハ長調BWV545
フーガ ト長調BWV577
プレリュードとフーガ ニ短調BWV539
コラール「われはいずこにか逃れゆくべき」BWV694
パルティ―タ「おお神よ、汝義なる神よ」BWV767
コラール「われらキリストの徒(ともがら)」BWV710
アラ・ブレ―ヴェ ニ長調BWV589
カンツォーナ ニ短調BWV588
フーガ ハ長調BWV575
マニフィカート「わが魂は主をあがめ」BWV733
小さな和声の迷宮BWV591
プレリュードとフーガ イ長調BWV536
マリー=クレール・アラン(オルガン)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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