神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、シリーズでクープランのクラヴサン作品全集を取り上げていますが、今回はその第5集です。
この第5集では、一番最後にクラヴサン曲集第3巻がちょっとだけ顔を出していますが、殆どが第2巻です。それに今回は前奏曲は一つだけ。
ですから、全体的にはクラヴサン曲集の全集という雰囲気に近くなっています。それでも何ら違和感ないのが不思議です。そこにクープランの才能の豊かさが見え隠れします。
私達はドイツ音楽の「精神性」と言うものの呪縛に囚われてしまっていて、フランス・バロックがいかに素晴らしいのかが見えなくなってしまっていたのだと思います。ここにあるのは、確かに愉しみかもしれませんが、音楽的には気品を持つ、素晴らしい内面性を持った作品ばかりです。
しかもほとんどに標題が付いており、まるで全体がソネットの様です。それはベートーヴェンだけではなく、後世にはグリーグへとつながっても行くのです。そう、今「東京の図書館から」でご紹介している、抒情小曲集へと。
もし、このフランス・バロックを否定するのであれば、後世の素晴らしいピアノ作品たちを否定することになるのです。少なくとも、私はそんな歴史を冒涜するようなことはしたくないですね。
ですから、クープランのこれら作品に素直に耳を傾けるわけなのです。音楽は精神も大切ですが、それ以上に重要なのは「魂」だと、私は思っています。その演奏に、作品に、魂はあるか。あるものは評価すべきですし、ないものは人によっては切り捨てることでしょう。私はあまり切り捨てはしませんが・・・・・
時として、ハープのような音すら要求されるクープランの作品(例えば、この第5集でいえばクラヴサン曲集第2巻第6組曲の第8曲「羽虫」)は、演奏者にしっかりとした技術が要求されるうえで、遊び心がないと難しいものです。それを実現するには魂でどれだけ弾いているかが重要になります。どこまで自分がその遊び心に共感して弾けるのか。そこが問われるわけです。
こういった作品にはまたむずかしさが存在するわけで、それは過度の精神性というものを内包する作品と同等かそれ以上に演奏するのが難しいものです。私はそのむずかしさを、合唱においてモーツァルトをい歌うことにおいて経験しました。そのため、クープランが演奏する立場からすればどれだけ難しいのか、大体想像がつくのです。
その点、ブーレイは本当に涼しい顔して弾いてます。いや、顔色なんてわからないんですけど、涼しい顔が容易に想像できるんですよ。でも、実際にはそんな簡単な作品が並んでいるわけではありません。なのに天衣無縫、自由自在、神出鬼没。だからこそ聴いている方は楽しくてしょうがありません。それはしっかりとした技術に支えられつつ、このクープランの作品が持つ「遊び心」にどれだけ共感しているか、であるわけで、ブーレイは確かにしっかりと共感していることが分かるんです。
でもそこにどこか力が入っているものを感じません。むしろ、肩の力はしっかりと抜けており、その抜けていることによるしなやかさこそ目立つのです。
本来、組曲は舞曲ですから、それは当然とは言えますが、ソネットとも取れる標題音楽のオンパレードの中で、力を抜くことによる存在感の向上は、さすがと言えるでしょう。
聴いている音源
フランシス・クープラン・ル・グランド作曲
クラヴサン曲集第2巻第9組曲(続き)
クラヴサン曲集第2巻第10組曲
前奏曲第7番
クラヴサン曲集第2巻第6組曲
クラヴサン曲集第3巻第17組曲
ローランス・ブーレイ(クラヴサン)
地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。
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