神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、クープランのクラヴサン作品全集をシリーズで取り上げていますが、今回はその第4集です。
第4集からは「クラヴサン曲集第2巻」が主となっており、クープランの世界が思いっきり展開されていると言っても過言ではないでしょう。
特に、クープランのクラヴサン作品の特徴である「標題音楽」は、恐らく古典派以降の作品を聴き慣れている人からすれば、驚きをもって受け取ることでしょう。ンナあほな、標題音楽と言えばロマン派以降だろう、と。
しかし、それではヴィヴァルディの「四季」でなぜ詩が付いているのかが説明できません。なぜベートーヴェンが交響曲第6番「田園」ではまるでマーラーのような指示を出しているのかも説明つかないんです。
このクープランの存在を抜きにして、それはないんです。ヴィヴァルディもベートーヴェンも、その意識の中にクープランがなければ「四季」も「田園」も生まれえなかったと、言っていいでしょう。ベートーヴェンは違うだろ、彼は共和主義者であるからと言うのもおかしなことです。かれは確かに共和主義者でしたが、同時に障害者です。もっと霊的(魂を大切にする)な側面を持った人です。単に自分が、ではないんです。それを超えたところにベートーヴェンの芸術はあります。
それはクープランにしても同じであるわけです。特段クープランも障害者ではないにせよ、ちょっとしたことを芸術へと昇華させるその技法は、「自分を超えた大きな力」の存在なくして考えられないでしょう。単に神だとか、そんな見た目「パターナリズム」なことではありません。
特に感じますのは、クラヴサン曲集第2巻第11組曲です。ボンタン夫人で検索すると、まあいろんなエピソードが出て来るわ出て来るわ。その上、最後の5曲は「偉大にして古き吟遊詩人組合の年代記」となっており、5幕の劇音楽となっており、高貴な雰囲気を保ちつつ、実際には笑い飛ばす音楽です。バロックという時代を単に為政者が抑圧した時代とだけ捉えてしまうと、そこで奮闘し何とか抵抗しようとしていたこのクープランのような作曲家には目が行き届かなくなるのではと思います。
演奏するブーレイが一番生き生きと演奏しているのがまさにこのクラヴサン曲集第2巻第11組曲なのです。前奏曲が相変わらず途中で織り込まれ、それがしっかりとアクセントになりつつも、一番のアクセントはまさに第2巻第11組曲で、圧巻です。そして後にオペラや劇音楽と言った形で、今度は例えばベートーヴェンはもっとまじめで荘厳な音楽へとしていくのですね。
この第11組曲は、後世のベートーヴェンのピアノ・ソナタ第26番「告別」へとつながっていくように、私には思えます。そう言い切ってもいいかと思います。楽章がそれぞれ物語になっているのはまさに「偉大にして古き吟遊詩人組合の年代記」と同じ手法です。それをまさにベートーヴェンらしい切り口で作曲してみせたわけです。クープランのように笑い飛ばすという側面はないですが、物語性という意味では同じであるわけです。ですから、ベートーヴェンの意識の中にクープランはいたはずだと私は言うわけなのです。
ブーレイはまさに、この第4集に収録されている作品がさまざまな顔を持つがゆえに、荘厳にも、そして愉快にも演奏し、天衣無縫です。それが聴き手には愉快で楽しく感じられます。その上で、音楽を聴く、或はその中にあるメッセージを受け取ることを喜びと感じさせます。次第に体が揺れ始め、こちらもノリノリになっていくのは魂のレヴェルで私自身が喜びを感じているからこそですし、ブーレイも同様に弾いているのではと、想像してしまいます。
聴いている音源
フランシス・クープラン・ル・グランド作曲
クラヴサン曲集第2巻第7組曲
前奏曲第8番
クラヴサン曲集第2巻第12組曲
クラヴサン曲集第2巻第11組曲
前奏曲第5番
クラヴサン曲集第2巻第9組曲
ローランス・ブーレイ(クラヴサン)
フランソワーズ・ランジュレ(クラヴサン、第9組曲)
地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。
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