コンサート雑感、今回は令和6(2204)年11月23日に聴きに行きました、藝大プロジェクト2024第2回である「日本が見た西洋音楽」のレビューです。なお、この件に関しましては、また別途「想う」コーナーでエントリを立てたいと思っています。
藝大プロジェクトは、毎年秋に東京藝術大学が開いている企画です。今年は音楽学部が主体となって日本と西洋音楽とのかかわり、歴史がテーマになっています。第1回目は先月取り上げた「西洋音楽が見た日本」として、ミヒャエル・ハイドンが作曲した日本の戦国武将、高山右近を主人公にした音楽劇「ティトゥス・ウコンドン」がメインでした。
今回聴きに行きましたのはこの第2回目で、今度は日本がどのようにして西洋音楽を受容し、社会に広がっていったのか、その萌芽やきっかけは何だったのかがテーマです。そのために取り上げられたのが、1930年代に東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)で教鞭をとっていたドイツ人作曲家、クラウス・プリングスハイムと、その門下生たちの作品です。
クラウス・プリングスハイムは前述したとおりドイツの作曲家です。マーラーの弟子でもあり、しかもユダヤ人でした。この境遇がおそらく日本とのつながりになったのではと個人的には感じています。杉原千畝による「ビザ」の発行によりナチス・ドイツの迫害を逃れて命が助かったユダヤ人は大勢いるからです。
日本は明治維新以後、急速に西洋の文化を取り入れましたが、その中には音楽も当然ありました。まずは文部省(現在の文科省)内に「音楽取調掛」が設置され、欧米から講師を招いて講義を行っており、その結果を受けて東京音楽学校を設立します。これが現在の東京藝術大学音楽学部につながっていきます。実はこの辺りは日本史を高校時代に履修した人であれば、副読本などに必ず記述があります。山川出版社の日本史事典にもしっかり記述があるくらいです。私自身、大学は中央大学文学部史学科国史学専攻(現在の中央大学文学部史学科日本史学専攻)卒業ですが、入学して購入した山川出版社(主に日本史関係の書籍を発行)の「日本史小事典」においても、東京創元社発行の「日本史辞典」(京都大学文学部国史研究室編)にも記述がある、日本文化史における事業なのです。
そしてその事業は、まず優秀な音楽教師を社会へと旅立たせたという点で重要です。この人たちは学校で子供たちに音楽を教え、文化を広めていったのです。そして昭和に入った1932年に、東京音楽学校は作曲家を設置します。その教授となったのがクラウス・プリングスハイムだったのです。それ以前は作曲は行われていましたが専門の学部などはなく、例えば滝廉太郎などはドイツへ留学をしているという状況です。
日本はただ単に西洋音楽を受け入れるのではなく、明治のころからいわゆる「国風化」を目指していました。さらに言えば、日本も世界的潮流に巻き込まれ、国民楽派や新古典主義音楽、民謡採集と言った活動も重要との認識も広まりつつありました(例えばその典型が実は「鉄道唱歌」なのです)。そのため、日本の文化と西洋の文化の融合ということも唱えられていましたが、まずは西洋の「機能和声」を導入するということになったのでした。その教授として招かれたのが、クラウス・プリングスハイムだったと言うわけです。
実は、このプリングスハイムという人の門下には、現在の音楽シーンに連なる人が大勢います。この企画では、その一門の人たちや、それ以前に海外で勉強してちょうどプリングスハイムが来日した時期に活躍していた作曲家たちの作品が演奏されたのです。
①信時潔「いろはうた」
いろはうたは、信時潔が作曲した無伴奏合唱曲です。信時潔は戦前に活躍した作曲家で、ちょうどプリングスハイムが来日した時点で東京音楽学校の講師でした。「よなぬき」の日本和声も駆使しつつ、賛美歌の様式も採用した楽曲です。この辺りは信時潔の留学経験がものを言っています。歌詞は「いろはうた」そのものなので、歌詞を見なくても大体わかるようになっているのも特徴。演奏は第1回の時同様、東京藝術大学音楽学部の有志の方々。指揮は先日「ICOLA Remote CHOIR」で指揮された谷本喜基さん。いろは歌はそもそもは言葉遊びであると同時に風景や心象を歌ったものでもあることから、その詩の内容をしっかりと歌い上げることに重点が置かれていました。まあ、信時潔と言えば政権協力者でもあったので当然と言えば当然でもありますが、それはそもそもが日本的なものに西洋の息吹を融合させようという気概を持っていたからこそとも言え、その点を踏まえた演奏でした。
②「いろはうた」クラウス・プリングスハイム編曲
2曲目は、その信時潔が作曲した「いろはうた」をプリングスハイムがチェロとピアノのための楽曲に編曲したものです。よなぬき的な感じから一転、ドイツ音楽的になるのはさすがプリングスハイムです。そのうえで原作の雰囲気も壊していません。演奏者もその雰囲気を存分に味わっていた演奏で、違和感を感じないのが印象的でした。西洋が日本の音楽と出会い融合した瞬間でもあります。
③髙田三郎「山形民謡によるバラード」(岡崎隆編曲、弦楽合奏版)
髙田三郎は、合唱をやられている人にとっては「水のいのち」などの合唱曲で有名な作曲家ですが、実は管弦楽作品も残しています。そして髙田三郎は東京音楽学校の作曲部を卒業した人でもあり、その指導に携わった一人がクラウス・プリングスハイムと信時潔でした。民謡のテーマは山形の近江新田地方の民謡から取られており、高田の故郷である岡崎ではないのが特徴です。この点からしても、ちょうど昭和一桁辺りは民謡採集のブームが日本に押し寄せていた証拠でもあります。東京音楽学校研究科の修了制作として作曲され、和風の旋律に機能和声がついています。初演は1941年にヘルムート・フェルマー指揮東京音楽学校管弦楽部により行われました(フェルマーも東京音楽学校の講師)。もともと管弦楽作品なのですが、今回は後に髙田自身によって弦楽四重奏版と管弦楽版を参考に岡崎氏によって譜面にされたものが取り上げられています。当日は進行役として東京藝大の仲辻真帆講師と、音楽評論家で東京藝大で講師を務められてもいる片山杜秀氏両名が務められましたが、その時に触れられていたのですが戦前戦後のあたりは楽譜の管理が甘く散逸も多いようで、恐らくこの髙田三郎の作品もそういったことがあって再構成したものと考えられます。演奏はやはり東京藝大の有志の方々でなされましたが、髙田三郎が初演時に感動したとのエピソードが分かるような、どこか懐かしく美しい演奏でした。
④クラウス・プリングスハイム「山田長政」
今回のメインが、プリングスハイムが作曲したラジオ音楽劇「山田長政」です。日本史を学んだひとであれば、シャム(現在のタイ)に渡った日本人としてよく知られています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%95%B7%E6%94%BF
日本での活躍はあまりわかっていませんが、シャムに渡ってから活躍した日本人であることは確かです。江戸幕府の鎖国政策によって帰国が許されずシャムの地で生涯を終えています。このラジオ劇「山田長政」が放送されたのは1939年10月に、現在のNHK東京放送局からでした。「大東亜共栄圏」を標榜した時代背景もあってか、日本人視点で英雄に描かれており、歴史を知っている私からしますとちょっとこそばゆい感じもする歌詞がついています。プリングスハイムは当時の政府の要請に沿いつつ日本的色合いを濃くしながらも、機能和声を存分に使って山田長政の英雄譚を音楽で壮大に表現しています。管弦楽は東京藝大の有志の方々ですが、一つの音楽劇として見事に表現していましたし、ソリストもオペラ的で英雄譚を朗々と歌い上げているのも素晴らしかったです。その意味では、この「山田長政」が「大東亜共栄圏を作り上げる」という当時の政府方針にかなった作品であることを明確にしていたと思います。
今回はここで終わりだったわけですが、このプリングスハイムが日本に与えた影響は大きかったのです。おそらく時間の関係上これ以上は難しかったのでしょうが、むしろ戦後の活動のほうがプリングスハイムは大きかったとも言えます。ただ、プリングスハイムが日本の学生に与えたことは、現在まで続いているのです。そのことがはっきりとわかるコンサートだったと思いますが、それは長くなりますのでまた別にエントリを立てたいと思っております。
聴いて来たコンサート
藝大プロジェクト2024第2回「日本が見た西洋音楽」
信時潔作曲
無伴奏合唱曲「いろはうた」
チェロとピアノのための「いろはうた」(クラウス・プリングスハイム編曲)
髙田三郎作曲
山形民謡によるバラード(岡崎隆編曲、弦楽合奏版)
クラウス・プリングスハイム作曲
ラジオ劇「山田長政」
黒田祏貴(バリトン、山田長政)
松岡多恵(ソプラノ、リカ)
根本真澄(ソプラノ、トカワハム)
向山佳絵子(チェロ)
江口玲(ピアノ)
片山杜秀(お話)
仲辻真帆(お話)
谷本喜基指揮
東京藝術大学音楽学部学生・卒業生有志合唱団
安良岡章夫指揮
東京藝術大学音楽学部学生・卒業生有志オーケストラ(コンサートマスター:城戸かれん)
令和6(2024)年11月23日、東京、台東、東京藝術大学奏楽堂
地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。