かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:プロコフィエフ 交響曲全集4

一週間ぶりのエントリとなります。

いやあ、風邪をひきましたでつ・・・・・

いそがしくて、自分では体をケアしていたように思っていたのですが、全くできていなかったようです。

皆さまも、この年末、お体にはお気を付け下さいませ。

さて、一日ずれたのですが、エントリを上げます。神奈川県立図書館ライブラリから、プロコフィエフ交響曲全集の、今回は第4集を取り上げます。

番号順に収録されていますこの全集の第4集には、第6番と第7番が収録されています。

まず、第6番は第二次大戦が終わった直後の1946年に作曲が着手され、47年に完成を見た作品です。戦争が人間の内面にのこす傷あとを、真正面から描いた作品だと言えるでしょう。不協和音の使い方が絶妙で、品のある作品です。そのせいなのか、ジダーノフ批判の対象になってしまうのですね・・・・・

交響曲第6番 (プロコフィエフ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC6%E7%95%AA_(%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%95)

私としては、次の第7番のほうがよほど形式的だと思うのですが、かといって第7番が悪いと言うわけではありません。第7番は1952年に完成した、プロコフィエフ最後の交響曲で、作曲者自身が「青春交響曲」と呼んでいたことから「青春」という標題が付いています。

交響曲第7番 (プロコフィエフ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC7%E7%95%AA_(%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%95)

まあ、この二つの作品を聴けば、いかにソ連という国家が人治であったかを痛感させられるのですよね。どちらも素晴らしい作品です。しいて言えば、第7番のほうが20世紀という時代らしからぬ作品だとも言えるかと思いますが、それはアメリカへ亡命していた時期もあるプロコフィエフらしい、庶民的な色彩もある作品です。

第6番はたしかにとっつきにくい作品だと言えるでしょう。ミャスコフスキーが三回聴かないと理解できなかったと言うのは決して不思議ではないだろうと思いますが、かといって人を寄せ付けないのではなく、むしろ音楽が此方へ寄ってこようとしないと言ったほうがいいと思います。ですから、私たちの方からアプローチをしていかないと、その背景にある「傷」というものに気づかないで、「つまらん」と切って捨ててしまいかねないと思います。

そして、おそらく形式的とジダーノフ批判にさらされたのは、その楽章数ではないかと思います。第6番は3楽章形式を取ります。20世紀という時代において、私は常々三楽章形式とは自由を表わしていると言いますが、それを見事にジダーノフは見て取ったと言えるでしょう。しかし、それゆえに批判に使われてしまったのですね。戦争が終わり、様々な束縛がなくなる、つまり自由になる・・・・・それを楽章数にプロコフィエフは込めたのだと思いますが、あらぬ方向で使われてしまったとなれば、やはりかわいそうだと思います。

その点では、第7番第4楽章の異稿がなぜ存在するのかは、このジダーノフ批判にその元をたどることは可能でしょう。私としては、オリジナルの、静かに終わるほうが好きなのです。青春という溌剌とした標題にぴったりなフィナーレだと思うからです。しかし、20小節ほど追加された異稿は、つかわれている旋律をほぼそのまま使っているので、それ自体がおかしいわけではないんですが、標題に合うのかな〜とは思います。これはずいぶんとプロコフィエフも苦労したのだなあと思います。形式的と言われないために、こういったヴァージョンも用意しましたという感じだなあと思います。

その第4楽章異稿を収録したことは、編集者及びゲルギエフのひとつのメッセージだと受け取っていいでしょう。プロコフィエフという作曲家の交響曲という、一つの論文を、余すことなく収録することによって、聴く人に評価をゆだねたい・・・・・・そんな想いが伝わってきます。

そのせいなのか、この第4集は重々しい第6番も、そして溌剌とした第7番も、とても生き生きとしているのです。内面からの喜びが湧き上がってくるのです。表現をするという喜びが、です。

第6番は特に第1楽章は重々しいにも関わらず、生き生きとしているのに驚きます。それは、ゲルギエフとオケが、その傷ついた人間の内面を表現できるという「喜び」に満ちているからだろうと思います。特に、第6番は三楽章形式という点にもメッセージがありますし、旋律や和音にもメッセージがある作品で、だからこそ、こちら聴き手がアンテナをピーンと張っていないと、メッセージを受け取れないという作品です。それを伝えたいと言う喜びが、演奏から受け取れるのです。

こういう演奏に出会えるのは嬉しいですね。プロコフィエフと言えば「ロメオとジュリエット」しか知らないと言う人も、是非とも聴いてみてください。新たなプロコフィエフの一面を知ることができるでしょう。

さて、このコーナーの次のエントリは来年となりました。来年の第1回目はシューベルトの八重奏曲の予定です。良い内容から始められそうです。





聴いている音源
セルゲイ・プロコフィエフ作曲
交響曲第6番変ホ長調作品111
交響曲第7番嬰ハ短調作品131
交響曲第7番第4楽章(終結部改訂版)
ヴァレリーゲルギエフ指揮
ロンドン交響楽団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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