かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:バッハ 無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティ―タ1

神奈川県立図書館所蔵CDのコーナー、前回までのショスタコーヴィチとはうって変わって、今回から2回にわたってバッハのヴァイオリンの名曲、無伴奏ソナタとパルティ―タを取り上げます。

この作品をなぜ借りたのかと言えば、店頭にはあまり品ぞろえがないからです。

恐らく、売れるのは同じ無伴奏でも「チェロ」のほうだからなんでしょう。そのため、この作品は図書館で借りることにしたのです。しかも、直前にはショスタコーヴィチ弦楽四重奏を借りているわけですから。

え、ショスタコとバッハって、関係ないでしょ、バッハを共産主義者にするな!という声が聞えて来そうですが、何度も言いますが、ショスタコーヴィチはバッハの影響を、「とてつもなく」受けています。そもそも、自分の名前を音名で入れていくとかはバロックに由来する作曲技法です。それを判らずにイデオロギーだけで見るのはとても危険だと思っています。それはショスタコーヴィチを批判しつづけた共産党政権と何ら変わりはないと断じておきます。

さて、名曲の割にはいまいち影の薄いこの作品を借りようと思ったのには、さらに伏線があります。かつて大田区の合唱団に入っていた頃、団員のお宅に伺う機会がありました。個人商店のその御宅で聴いたのがまさに、このバッハの無伴奏ヴァイオリンのソナタとパルティ―タだったのです。

この人素晴らしいなと素直に感動したことを覚えています。交響曲など壮大な作品が好きな人が多い我が国のクラシックファンの中において、愚直にこういった室内楽も聴いていることが、人間として輝いて見えたのです。それ以来、私はずっと買おうと思っていたのですが、なかなか他の作品で資金的に苦しかったので、後回しになっていたのでした。

そこで、ちょうどショスタコを借りた機会だから、借りようと思ったのです。演奏者は、ギドン・クレーメル

まあ、もっといい演奏家もいるかもしれませんが、音質そして演奏技術のバランスを考えて、この音源にしたのでした。そして、その判断は間違っていないと思っています。

それでは、この作品がどんなものなのか、ウィキのページで申し訳ありませんが見ておきましょう。

無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E4%BC%B4%E5%A5%8F%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%81%A8%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BF

東京書籍の「バッハ事典」では、「無伴奏ヴァイオリンのための3つのソナタとパルティ―タ」と、「3つの」が入っています。それはウィキでも説明文にそう書かれているのですが。まさにそこが注目すべき一つの点です。世俗曲でありながら、3の倍数を意識しているのですね。毎度お馴染みですが。

バッハとしては、この作品を神に捧げるという想いがあったと想像できます。完成は1720年だとされていますが、ウィキと異なり「バッハ事典」では、少なくとも浄書が1720年であり、完成はそれよりは前、もしかするとヴァイマル時代までさかのぼる可能性を指摘しています。なぜなら、草稿がないこの作品をもとにしたと思われる作品が、ヴァイマル時代に作曲したコラールに存在するからです。恐らく、殆どはヴァイマール時代に作曲されていたが、その完成はケーテン時代の、1720年までになったのであろうと考えることができるでしょう。

それは、おそらく演奏という側面だけではなく、アンナ・マグダレーナが筆写していることを鑑みますと、教育の材料として使う事も念頭に置き始めたことがあるのだと思います。演奏は難しいので、当時の対位法の大家であり優れたヴァイオリン演奏者であったビゼンデルに捧げた作品との説がありますし、ウィキもそれを採用していますが、いずれにしても、詳しいことはわかっていません。

分かっているのは、この作品が演奏するのには難しい作品であること、それゆえに、私達聴衆としては、まるで天上の音楽のように聞こえるということです。重音の多用、そしてウィキでは触れられていませんが「疑似ポリフォニー」の採用などは、まるでヴァイオリンなのにオルガンかのように聴こえてくるという効果を持っています。それは、「第2巻」である無伴奏チェロも同様なのに驚きます。

恐らく、この作品を聴いたひとはみな驚くでしょう。あれ、これって、無伴奏チェロと同じ響きをもっているよね、と。そうなんです、それこそ、この作品の特徴であり、おそらくだからこそ、日本では無伴奏チェロの影に隠れてしまっている原因なのでしょう。けれども、バッハはこのヴァイオリンのほうを第1巻として持ってきているということは、とても大切なことだと思っています。チェロは当時通奏低音楽器でもあります。ですから、旋律楽器であるヴァイオリンを先に持ってきたのです。その上で、チェロも同じようにしてみたのですけど何か?と問うているのがこの二つの作品であると考えることができるからなのです。

つまり、この無伴奏ヴァイオリンを聴きますと、その次の作品である無伴奏チェロの理解がまるっきり変ってくるのです。この二つの作品は、神と人と音楽とが、相互に絡み合った関係で成り立っている作品である、と。

ソナタは4つの楽章を持っていますが、パルティ―タはそれほど数字にこだわっているわけではありません。それは神と人が音楽を通じてつながっていることを、明確に示したものであると考えていいでしょう。数字にこだわっている部分は神、そしてこだわっていない部分は未完成な人。それがおなじ楽譜の上で描かれている・・・・・その対比の上で、作品は美しくまとまっています。

クレーメルは、その優れた演奏技法で確実に作品を紡ぎだしています。かといって、ことさらに自らの技法を見せつけるのでもなく、あくまでも軽めに演奏しています。それでも、この作品の壮麗さは全く失われていませんし、その上で明るい青空のような、爽快さすら存在するのです。それが私たちに想像させるもの。青空の下の教会で、一心に祈る人の姿です。

この作品は世俗曲です。しかしなぜか、祈りが聴こえてくるのが不思議です。クレーメルと言えばその技法が時として批判されることがありますが、この作品ではまったくそんなことはありません。むしろ自分が持つ技法の内、おそらく3割ほどしか出していないでしょう。言い換えれば、彼が持っている実力の3割ほどしか出していません。にもかかわらず、完成された作品の美しさが存分に描かれています。演奏としては難しいこの作品で、です。

この作品を演奏するには、優れた技法と、それをいかに「おまかせ」するかという謙虚さが求められるのかを、クレーメルが実証したと言えるでしょう。惜しむらくは、第2番のソナタで録音が区切られていることです。まあ、パソコンで聴くには問題ないのですけどね。ファイルをコピペして、並び替えればいいだけですから。ただ、この音源はCDなので、CDプレーヤーしか持っていない人には、多少不親切かな〜って思います。




聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティ―タ
ソナタ第1番ト短調BWV1001
パルティ―タ第1番ロ短調BWV1002
ソナタ第2番イ短調BWV1003
ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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