かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:バッハ 世俗カンタータ全曲演奏シリーズ4

今月のお買いもの、いよいよ9月に購入したものをご紹介することが出来ます。今回はBCJのバッハ世俗カンタータ全曲演奏シリーズの第4集を取り上げます。

一つの考え方として、バッハのカンタータ世俗カンタータも含めひとくくりにして編集するというのもアリだと思いますが、BCJは分けるという選択をしました。それはそれで意義深いものがあるので私は決して否定しません。だからこそ追いかけ続けているのですし。

その、世俗カンタータの第4集は、大きい作品が二つ並びました。BWV205とBWV207です。第3集を取り上げた時にも申し上げましたが、鈴木氏は世俗カンタータでは成立年代順ではなく、共通のテーマで取り上げています。ここでは、ともにライプツィヒ大学の教授に対して作曲されたものであるという点です。

BWV205「破れ、砕け、壊て(こぼて)(鎮まれるアイオルス)」は、1725年8月3日にライプツィヒ大学哲学講師、アウグスト・フリードリヒ・ミュラー命名日のために完成、演奏された作品です。カンタータというよりは音楽劇と言ったほうがよく、学芸の女神パラス、果樹の女神ボモナ、西風の神ゼピュロス、風の神アイオルス(ここまではソリスト)、そして「風ども」(合唱団)がミュージカルのように演じます。アイオルスが暴れまわろうとして優しい西風(西風というのは美を意味するので芸術の比喩でも使われますが)をおびえさせますが、他の神々から今日は仁徳のあるミュラー命名日だからと言われて、鎮まるというのがテクストです。

東京書籍「バッハ事典」によれば、編成から戸外で演奏されたという記述があります。つまり、おそらくはミュラー氏の邸宅前で演奏されて、訪問客をその演奏で持って招き入れる、言わばパフォーマンスのための音楽であったといえるでしょう。ほとんどはその後1734年に完成されたBWV205aに再度使われますが、第13曲は以前ご紹介した280年ぶりによみがえったBWV216にも使われています。

BWV205は、冒頭合唱が特に印象的で、まるで人が騒ぎたつような印象を与えます。それはまさに、此れから暴れまわりそうなアイオルスを登場させる序章になっています。そして最後の合唱は風から一転、合唱は来客へと変身し、ミュラーを讃える歌を歌うのです。1725年という時期ですと、バッハが鏡像カンタータを作曲していた時期に当り、この作品も実は第8曲を中心点として転回できる鏡像カンタータの形を取っています。

BWV207「鳴り交わす、絃の相和せる競いよ」は、1726年12月の半ばに、ライプツィヒ大学法学博士のゴットリープ・コルテの教授就任を祝って演奏されました。BWV205はほとんどが新作だったのに対し、この作品は大部分が新作ながら、冒頭と中間部の器楽リトルネッロをBWV1046から転用しています。つまり、ブランデンブルク協奏曲です。

神奈川県立図書館所蔵CD:バッハ ブランデンブルク協奏曲1
http://yaplog.jp/yk6974/archive/1217

しかも、BWV1046と言えば、ブランデンブルク協奏曲第1番であり、4楽章制という、比較的古い様式を使った作品から転用しています。このBWV1046は、様式こそ古いですが、祝祭感は溢れる作品です。なお、転用されているのは冒頭合唱がBWV1046の中間楽章、そしてリトルネッロは最終楽章です。

聴き比べれば、バッハのアレンジャーとしての能力の高さを見せつけられます。ブランデンブルクが、合唱でもって表現され、しかもそれが不自然ではないのです。バッハが作曲をする時、様々なことを考えながら作曲をしたことが窺えますし、また、手も加えています。溜め息しか出ません・・・・・

収録されている2つのカンタータはどちらもある人を祝祭する作品ですが、どういう経緯で作曲に至ったのかまでは事典では触れられていません。恐らく、その対象者もしくはその周辺の人たちから要請を受けたものと想像できますが、明るいだけではありません。その人となりを表現するために、暗めの曲を入れることもいといません。恐らく、この二つの作品で対象になっている人物が、学問関係であるということもあるのだと思います。だからこそ、世俗カンタータとは思えない気品と気高さも存在します。

BWV205のいわゆるアイオルスが登場する場面は、教会カンタータでは暗めの通奏低音和音になるところを、堂々たる明るい和音になっているのも印象的です。これもバッハのアレンジャーとしての能力を、存分に表現しているといえるでしょう。

演奏面では、カウンターテナーロビン・ブレイズが復活し、教会カンタータとはまた違った、のびのびとした歌唱を聴かせてくれています。また、全体的に祝祭感を自然に演奏している点も好印象です。ピリオドであり、また自分たちのテンポ感を守ることで、過剰な祝祭感を排し、知的で素朴なものにしており、それが聴き手にとっては気品と気高さという印象になっているのだろうと思います。この点はぶれないなあと思います。

BCJの演奏は、たとえば舞曲であっても、そこに気品が存在し、決して軽薄ではないという点にこそ特徴があると思います。特段重々しくしなくても充分荘重ですし、特段軽めにしなくても充分軽く、そして力強いのです。メリハリがついており、聴いていて気持ちいいのに、どこか頭ではきちんと知性が働くようになっているのは、私にとっては好みどストライクです。酔うのだけれど、しかしのまれないその演奏は、BCJならではだと思います。オーソリティとしての鈴木氏の存在だけではなく、そもそもBCJソリスト集団ということも、その特色を決定づけているのだろうと思います。

世俗カンタータのコンサートは、あまり人が入っていないとききますが、もっと入ってもいいように思うんですけどね・・・・・金銭的に余裕があれば、私などは真っ先にかけつけるところなんですが・・・・・・

精神性がないからっていうのが理由だとすれば、それはかわいそうだと思います。この二つの作品は精神性というよりも霊的なのです。私たちの日々の生活は、精神性だけで成り立つでしょうか?そんなことはないはずです。人と人との霊的な関係で成り立っているとは思いませんでしょうか。この二つの作品はまさに、BCJが「霊的」という側面を十分に強調している演奏です。コンサート会場でひと時、自らの「霊性」というものを、音楽を聴きながら自らの内面と対話してみてはいかがでしょうか。




聴いているCD
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
世俗カンタータ「破れ、砕け、壊て(こぼて)(鎮まれるアイオルス)」BWV205
世俗カンタータ「鳴り交わす、絃の相和せる競いよ」BWV207
ジョアン・ルン(ソプラノ)
ロビン・ブレイズカウンターテナー
ヴォルフラム・ラットケ(テノール
ローデリック・ウィリアムズ(バリトン
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
(BIS BIS-2001 SACD)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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