今月のお買いもの、2014年5月に購入したものをご紹介します。今回は、毎度おなじみのBCJバッハカンタータ全曲演奏シリーズの第54集です。
収録されているのは、収録順で第100番、第14番、第197番(2種類)の合計4曲です。
まず、第100番「神なしたもう御業こそいと善けれ」BWV100です。1734年にライプツィヒで成立したこの作品は、用途まではわかっていないそうです。
コラールカンタータであるこの作品は、歌詞の内容としては、簡単に言えば、神様にお任せ!です。わずらわしいことは神様にお任せしてしまいましょう、というものです。
この内容は、東京書籍のバッハ事典を参考に書いていますが、実は歌詞において参考にしたのは第100番ではなく、第99番です。実は全く同じ題名のカンタータなのです。ところが、成立念は第100番が1734年ですが、第99番はその10年前に成立しています。
では、関連があるのかと言えば、大ありです。実は、第1曲目は第99番からの転用です。なおかつ、第6曲は第75番(1723年成立)の第7曲と同じコラールとなっているのです。
この作品は、すべて「神なしたもう御業こそいと善けれ」で歌詞が始まりますから、当然歌詞も第75番第7曲と同じということになります。随分やっつけ仕事ですねえ。
と言っても、バロックではこれが普通ですから、何もおかしなことはないんですが、それにしても、すべてがおなじ歌詞で始まるというのも、面白い点です。音形も同じという凝りよう。
用途が不明のこの作品、いったい何のために作曲したのか、気になるところです。
次に、第14番「神もしこの時われらと共にいますざば」BWV14です。1735年ライプツィヒで成立したこの作品は、第1曲目の第100番同様コラールカンタータであり、なおかつ第2年巻をうめる作品です。珍しくすべての楽章が新作、つまり他からの転用がなされていない作品でもあります。
そして、他からの転用がなされていない、最後の教会カンタータであると推測されています(東京書籍「バッハ事典」P.45)。
では、大作なのでしょうと思われるかもしれませんが、実に演奏時間の短い作品です。このCDでは14分ほどで終わってしまいます。しかし、技法的には円熟されていまして、後の「フーガの技法」や「音楽の捧げもの」を彷彿とさせるものが冒頭いきなり出て来ます。
テーマとしては、人類を護る神というものですが、キリスト教ですから当然ですが、そこに神の苦悩が表現されるわけですが、まずその苦悩が呈示されてから、展開されていきます。
第100番と第14番では、楽譜上の美しさというよりは、精神世界重視というような作品になっています。勿論、明るさなども第14番にはありますが、それは神を賛美するものであり、部分的です。その部分的なものも含め、全体的に精神世界に軸足を置いた内容を追求するために、あらゆる技法を駆使するというものです。
ですので、聴いたかぎりではとてもすっきりした音楽です。つまり、よくよく全体を振り返ってみるとそうだなあ、というものではなく、聴いて「あ、美しい」という作品となっています。
次に、第197番「神はわれらの硬き望なり」BWV197であり、続いて、BWV197aが収録されています。第197番の第6曲と第8曲が、断片であるBWV1967aからの転用(第1曲目と第3曲目から)となっているため、並んで収録されているのです。
まあ、こういう収録はBCJ、特に鈴木雅明氏であれば珍しいことではないので、驚くに値しませんが、これぞバロックの作品ですというものでありましょう。それをさらりと呈示するあたり、いつものこととは言いながら、さすがですねえ。
あれ、つまりは、BWV197aは旧い作品なんですね、というア・ナ・タ。そうです。BWV197aは、1728年の成立とされている作品で、音楽のみ伝承されています。そのうち2つを転用して、1736年もしくは37年に成立したのが第1967番です。
相互に関連性があります。BWV197aはそもそもがクリスマス用であるのに対し、第197番は婚礼用の教会カンタータ(婚礼用は世俗カンタータもあるので特に記載しています)です。だからこそ、転用したのだと言えるでしょう。
実は、第197番にはバッハ事典には記載のない、びっくりする特徴があります。それは、ラテン語が歌詞にあることです。この作品は2部構成になっており、その第1部の最後である第5曲目に、「キリエ・エレイソン」とあることです。
勿論、ルター派であればミサ曲の中の曲を単独で演奏することはよくある(当然、歌詞はラテン語)ことなので、特段びっくりすることはないんですが、カンタータの中にミサ曲通常文の歌詞が入り込んでいるのが驚きなのです。
バッハはミサ・ブレヴィスも作曲していますが、それも基本的にはルター派の演奏形態を逸脱するものではなく、こういった歌詞そのものをドイツ語のカンタータの中に入れ込むことはしません。カンタータはそれこそ、プロテスタントで成立した独特の作品なのですから。
そこに、カトリックの文言がいきなり入ってくるというのは、珍しいことです(つまり、カトリックの文言は別に、しかもばらばらにして演奏するのが常だったわけですから)。さて、これはバッハの宗教世界観なのか、それともクライアントの要請なのか、というところですね。
安易な断定は避けたいと思いますが、実はバッハは晩年になり、ラテン語の歌詞の作品を多く手掛けています。特にミサ曲については、1737年以降に集中しています。有名なロ短調も1748年の成立です。そして、所謂「ロ短調ミサ」のダイジェスト版と言われているのが、第191番BWV191(第55集を取り上げる時にご紹介する予定です)であり、その成立年代が1743年〜46年頃とされているのです。
こういった作品の曠野とも言えるのが、この第197番とも言えるでしょう。ロ短調ミサがバッハの宗派を超えた宗教観に基いているとすれば、この作品もその宗教観が根底にあるとしてもおかしくはありません。ただ、それはもしかするとバッハ一人ではなかったかもしれない、ということなので私も断定を避けているわけです。
つまり、バッハとその世界観が合うクライアントが教会で式を挙げたくて、バッハにラテン語入りのカンタータを依頼した、という可能性も排除できないからです。事典でも全く触れられていないものを、推測から判断すればここまでが限界でしょう。
演奏はBCJですから文句のつけようがありません。合唱のアンサンブル、そして金管の美しさは、特色と言えるでしょう。特に、バロックならではの軽めの演奏は、金管が登場した時の明るい様子を表現するのにぴったりと言えましょう。
勿論、そこで重々しい演奏もいいものですが、こういった軽めの演奏は、宗教世界を私達に先入観なしに届けてくれるように思うのです。つまり、「情熱と冷静の間」が取りやすいといえます。
それでも、前々回の第52集では、東日本大震災の影響で、力が入ってしまうのです。多分それが、近代ロマン主義に立脚した私たちの価値観なので仕方ない部分ではあります。ただ、それをいったん棚上げしたうえで、すべてを「お任せする」という覚悟ができたこの軽めの演奏は、自然と聴き手をバッハの地平へと誘うから不思議です。
つまり、ロマン主義の重々しい演奏は、視点を変えれば、自ら結果をコントロールしようとしているとも言えるのです(勿論、層ではないものも若干ありますが、所謂巨匠と言った人たちの解釈はそうだと言えるでしょう)。ところが、BCJの演奏はそうは聴こえないのです。ここが、私がずっとBCJを追いかけてきた、一つの理由でもあります。すべてをお任せしてもなおかつ、何かが確実に伝わってくる演奏・・・・・
そして、それが魂を震わせる・・・・・
そんな団体が、日本にあったのだ、ということを、誇りに思います。
さて、次はいよいよ教会カンタータの全曲演奏シリーズの最後を飾る第55集となります。すでに出ているわけではありますが、このブログではどう紹介するのかは、来月までお待ちくださいませ。
私としても、ここまで来たなあという、感慨に浸っています。
聴いているCD
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第100番「神なしたもう御業こそいと善けれ」BWV100
カンタータ第14番「神もしこの時われらと共にいますざば」BWV14
カンタータ第197番「神はわれらの硬き望なり」BWV197
カンタータ第197番「いと高きところに神の栄光あれ」BWV197a
ハナ・ブラツィコヴァ(ソプラノ)
ダミエン・グイロン(カウンターテナー)
ゲルト・テュルク(テノール)
ペーター・コーイ(バス)
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
(BIS-2021 SACD)
地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。
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