かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

マイ・コレクション:土の歌 佐藤眞作品集

今回のマイ・コレは、再び佐藤眞の作品集を取り上げます。

以前もエントリで取り上げています。しかも、何の因果か、東日本大震災の直前に・・・・・

マイ・コレクション:日本の合唱名曲選から「土の歌」
http://yaplog.jp/yk6974/archive/535

このエントリを上げた約一か月後、東日本大震災が発生し、福島第一原発の事故が発生したのです。

その意味では、何か運命めいたものを私は感じています。

土の歌で取り上げられているのは、原発ではなく核兵器ですが、原子力とそれに立脚する文明というものを、歌会始のお題「土」をテーマに取り上げている側面がある曲です。

こういった日本の自然、あるいは技術といったものを佐藤眞氏は早くから曲に取り上げていました。というより、当時の世相から、どうしてもそういったものを取り上げざるを得ないといったほうがいいのかもしれません。

今回取り上げるCDでは、土の歌のカップリングは上記エントリと違い、「若い合唱」が抜け、その代わり佐藤氏の「土の歌」以上の代表作と言っていい、「蔵王」と「旅」が入っています。

今回はその二つに焦点を絞っていきたいと思います。土の歌はあまりにもこの時期センシティヴすぎますし、すでに上記エントリで語りつくしている部分がありますので、割愛します。

まず、蔵王です。

蔵王 (合唱組曲)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E7%8E%8B_(%E5%90%88%E5%94%B1%E7%B5%84%E6%9B%B2)

今回はウィキの説明は全く持って正しいと思います。正式には「混声合唱のための組曲蔵王』」と言います。クラシック的に言えば、混声四部合唱とピアノ伴奏のための、と言ったほうが分かり易いかもしれません。

実際、蔵王はとても室内楽的です。ピアノ伴奏ですが、ピアノと合唱とのアンサンブルと言ってもいいくらいの雰囲気を持っています。それが色濃く出ているのが、第1楽章「蔵王讃歌」です。実は、前奏がないのです。いきなりピアノと合唱で始まります。この第1楽章ではピアノは全く持って伴奏ではありません。合唱団と対等にアンサンブルしなければいけません。でなければ、テンポが狂うからです。

この曲も私は大田区の合唱団で定期演奏会において歌った経験があります。その時、一番苦労した曲がなんと、この第1楽章だったのです。なぜならば、前奏がないため、リズムを取りにくいから、なのです。

続く第2楽章「投げよう林檎を」も前奏がありません。それ故、この曲は作曲者がいうほど「簡単な」曲ではありません。確かに頭は指揮者を見ていれば合うでしょう。しかし問題はその後テンポをどう作るのか、なのです。

特に、第1楽章はファンファーレの役割を果たしますので、全曲の出来を左右する重要な曲なのですが、ファンファーレ故、リズムが作りにくい点があるのです。

それがこの2楽章以外は、和声が難しくても、リズムだけは合わすのが簡単です。たとえば、第5楽章「おはなし」や、第8楽章「樹氷林」がその典型です。特に第8楽章は副三和音という和声なのでとてもその和声を決めるのが難しい楽章ですが、一方でリズムは前奏がある分取りやすい歌です。

その注意点がこのCDのようにばっちり決まりますと、第1楽章の歌詞のごとく、蔵王連峰が空にそびえ、私たちの目の前に凛として現われてきます。

そんな点を考えますと、この曲をこの時期に取り上げるというのも、運命めいたものを感じています。ただ、購入順にエントリを上げているだけなのに、なぜこう因縁めいたものになるのかと、自分でもびっくりしています。

また作詞が尾崎左永子女史というのも、この曲を簡単ですがとても気高いものにしています。

尾崎左永子
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E5%B7%A6%E6%B0%B8%E5%AD%90

もともと歌人で、その上でスキーヤーでもあるという、女史の個性が反映されています。そこに乗る、佐藤氏の美しい旋律・・・・・これを室内楽と言わずして、なんというのでしょう。

次に、旅です。

混声合唱のための組曲「旅」
http://www2c.biglobe.ne.jp/~okada/tabi.htm

この曲は蔵王の翌年、1962年に発表されたこれも「混声合唱のための組曲」です。上記サイトでもびっくりされていますが、この二つはフジ・サンケイグループの一員であるニッポン放送の委嘱なのです。こういった曲に当時ニッポン放送は焦点を当てて、世に送り出していました。さて、いまこれだけの文化的な創造を応援する意気はかのテレビ局、あるいは新聞社にあるでしょうか・・・・・

私はこの曲を、最終楽章「行こうふたたび」だけですが、川崎市宮前区の合唱団の第1回定期演奏会のアンコール曲としてうたっています。このサイトでも歌詞が載っていますが、とても優しい歌なのですが、ポジティブなんですね。そういった歌詞も魅力です。

この曲は本当に簡単な組曲です。難しい点はほとんどありません。ある程度訓練をしている合唱団であれば、それほど失敗することなく歌いきることが出来る曲です。蔵王と同じコンセプトとありますが、私としましてはむしろ「若い合唱」と同じコンセプトを感じます。

肝は、歌うのではなく、語ることだと思います。実際にはとてもメロディアスな曲なのできちんと歌わなくてはいけませんが、そのことで聴衆に「語りかける」ことがこの曲には簡単であるからこそ絶対に必要です。だからこそ、最後「行こうふたたび」ではこう始まるのです。

語ろう、語ろう

美しい旅の日を

また、その前の「かごにのって」でも、そのかけごえをきちんと歌詞通りに「言う」ことが要求されます。

エーイッホ、エーイッホ

土の歌も含め、このCDに収録された曲はクラシックでいえば、明らかに国民楽派から印象派、あるいは現代音楽の初期の作品というものの影響を受けています。シマノフスキバルトークなどと言った作曲家の影響を受けていないわけがないのです。そういった作曲家の作品がもてはやされ始めた時代だったからです。あるいはストラヴィンスキーなどもそうでしょう。そういった作曲家たちの雰囲気をピアノ伴奏の混声四部合唱の組曲として、日本語の曲として作られたのが、この3曲だといってもいいと思います。

実際、私は作曲者から、そういった「時代」というものの影響は多分に受けているという言質をいただいています。

この3曲を歌うとき、ヨゼフ・スークのように、「作品が作られた時代とその背景」というものまで掘り下げたほうが、素晴らしい演奏になるように思います。

東京混声合唱団は、それを言葉の発音を発声で表現しています。昭和30年代という時期を考慮し、あくまでも濁音を鼻にかけて発声しています。それが戦前の「発音」だったからです。それは昭和30年代まで残りました。それが平べったくなったのは昭和の終わり、50年代に入ってからです。ちょうどそのころ、合唱ブームが終わりを告げます。美しい日本語が消えてゆく時代が始まった時、合唱ブームも終わりを告げたというわけです。

そういう点を見ますと、合唱が今なぜもてはやされないのかの原因が、垣間見えるように思うのは私だけなのでしょうか。



聴いているCD
佐藤眞作曲
混声合唱とオーケストラのためのカンタータ「土の歌」
混声合唱のための組曲蔵王
混声合唱のための組曲「旅」
岩城宏之、田中信昭指揮
東京交響楽団(土の歌)
本庄玲子(ピアノ、「蔵王」)
田中瑤子(ピアノ、「旅」)
東京混声合唱
(Victer VICG-40188)



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地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。