さて、今日もまた「今日の一枚」で行きたいと思います。え、モーツァルトをやるんじゃなかったの?と言われそうですが・・・・・
はい、モーツァルトのミサ曲は必ず取上げます。しかし、その前に実は3ヶ月ほど前に買いました20枚ほどのCDがたまっておりまして・・・・・
聴きますことをかねて、ここで取上げたいと思います。
で、そのとき買いましたのは、ブルックナーの交響曲が0番から9番、ドヴォルザークの交響曲が1番から8番、そして廉価版のカラヤンのCD。マイミクさんから5千円で購入しました。
つまりは、中古。でも、ディスクを大事にされる方なので、まったく心配せず購入しました。
今回からしばらくは、そのCD群を取上げたいと思います。
今日はブルックナーです。交響曲第0番と序曲ト短調という、習作ふたつです。交響曲第0番はすでに県立図書館で借りていましたので、ブルックナー初心者である私としましては、これは入りやすい曲です。
この時期のブルックナーはまだ様式が確立していないので、ブルックナー好きな方からはそれほど評価は高くない曲です。しかし、それがゆえに逆に私はすっと入ってゆけます。
一曲目は序曲ト短調。この曲は1862年作曲ですが、すでに後期の交響曲の雰囲気を漂わせています。厳格なソナタ形式と、暗から明という展開。堂々たる音楽です。ブルックナー終止はまだ確立されていませんが、それでもとても感動的な音楽です。
2曲目以降が交響曲第0番。作曲は1869年といわれ、第1番の次に来るべき作品でしたが、作曲者によって破棄された曲です。詳しいことはウィキペディアの以下の項目をご覧ください。
交響曲第0番
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC0%E7%95%AA_(%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC)
確かに、主題ははっきりしない部分はありますが、それでも、構成としては第1楽章はソナタ形式ですし、第3楽章のスケルツォもきびきびとしています。他のそれぞれの楽章は伝統的な交響曲の速度指示に従ったものです。どこからどう見ても、ごく普通の後期ロマン派の交響曲です。
ただ、例えばブラームスと比べた場合、どうなのかと言えば、確かにこの曲はそれほどはっきりとしたアウトラインを構成しているわけではありません。しかし、それならばブラームスの前のラフなどはどうでしょうか。それほどアウトラインがはっきりしているわけではありません。
幻想的な世界をかなりストレートに「幻想的に」表現しているような気がします。つまり、やや絶対音楽から離れてしまっているような感じも受けます。それでも、構成は絶対音楽そのものですし、もしかするとそういう中途半端な面をブルックナーが嫌ったのかもしれません。
私は最近ブルックナーが好きになってきた理由としては、なんと言ってもその幻想的な音楽が絶対音楽の枠の中で構成されていることだと思っています。それゆえに安心して聴いていられる部分があります。昔はそれがなかなか理解できず、ベートーヴェン以上に難解な音楽として避けていました。
しかし、人生経験をつんできますと、ブルックナーの世界がとても好きになっている自分がいます。それは社会の中でいろんな経験をしてきたことが大きいのだろうと思っています。
この曲はブルックナーの人生において、ひとつの挫折を意味する曲ですが、それが自分自身と重ね合わせますと、うんうん、そういうこともあるよね、って妙に納得してしまう部分がある、なかなか味のある曲です。
指揮はシャイー、オケはベルリン放送交響楽団と無難どころ。シャイーでは私はブラームスとオルフを持っていますが、シャイーはやはり交響曲振りですねー。勿論、最近はオペラの指揮者としても実力をつけてきていますが、ブラームスとこのブルックナーの演奏はそれほど強烈な個性がなく、むしろ肩の力を抜いて演奏されているようにおもいます。
ところが、オルフの「カルミナ・ブラーナ」は・・・・・・まあ、悪くはないですけどね。N響定期のすごい演奏を先に聴いてしまいますと、色あせます。
ドイツ後期ロマン派を振らせれば、まず間違いないですね。もうひとつ持っているスクロヴァチェフスキと比べましても遜色なく、その勢いというか、音楽の流れといいますか、まったく自然で、この曲の魅力を充分に引き出しているように思います。
もしかすると、コアなブルックナーファンからしますと、最後の部分は物足りないかもしれませんが・・・・・
聴いているCD
アントン・ブルックナー作曲
交響曲第0番・序曲ト短調
リッカルド・シャイー指揮
ベルリン放送交響楽団
(DECCA 421593-2)