かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今日の一枚:ブルックナー 交響曲第3番ニ短調

今日は、ブルックナーの第3番です。さんよう氏の同時鑑賞会では2回聴いています。今回は、第1稿を使ったインバル/フランクフルト放送響の演奏です。

この曲はブルックナーが尊敬してやまなかった、リヒャルト・ワーグナーに献呈されています。そのエピソードなど、この曲の詳しい説明については、ウィキペディアの以下のページをご覧ください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC3%E7%95%AA_%28%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC%29
いやあ、それにしてもこの演奏は第1楽章から神々しさが前面に出ていますね。第1楽章は24分とかなり長く、第九の第4楽章とほぼ一緒なわけですから、クラシックと遠い音楽が好きな人からすれば確かに聞き続けること自体が難しい曲でしょう。しかも、献呈がワーグナーとくれば・・・・・

昨日のカラヤンの第2番と比べると、なぜこんなにも金管の聴こえ方が違うのでしょう。ベルリン・フィルと言えば実力はもう世界一ともいえるオケです。しかし、このフランクフルト放送響の音色のなんと美しいこと!

実際、私も「ブルックナー・マラソン」で聴いたときにもこの曲は気に入った曲のひとつで、第1楽章の24分があっという間に過ぎていったのを思い出します。

やはり、ブルックナー交響曲において、金管は「鳴らしすぎてはいけないのではないか」という気がします。勿論、第2番のほかの演奏を聴いてみませんとなんとも言えませんが(ブル・マラソンでは第2番は都合がつかず聴けなかったので)、この第3番を聴いてみる限りにおいては、カラヤンのとにかくびんびんにフォルティシモでアインザッツを強調して鳴らすよりは、フォルティシモなんだけど、やわらかく鳴らすほうが適しているのではないか、という気がします。

そのほうが、私は音楽的な世界の広がりを感じるのです。天上の世界と、地上の世界が織り成す綾模様。まるで天から日の光が差し込むような金管。いろんな表情がそこには見え隠れします。

そういう意味では、カラヤンの演奏はかなり金太郎飴っぽい感じがしました。しかし、それでもたいしたものだと思うのは、「他の演奏を聴いてみよう!」という気にさせる点です。これはすばらしいですね。さすがカラヤン!です。

インバルは私は特にマーラーの音楽のオーソリティとして知っていましたが、今回1番と3番とがインバルなのですが、ブルックナーもすばらしいです。オケがどうのこうのではなく、恐らくベルリン・フィルも例えばスクロヴァチェフスキが指揮すれば、その能力を存分に発揮するのかもしれません。あるいは、ティルソン・トーマスあたりでしょうか。

そんな印象を与えてくれます。なんと繊細なんでしょうか。とにかく、交響曲といってもその切り口はとてもソフトで、全体的に美しいとか幻想的とかではなく、「神々しい」のです。

このあたりは、オルガニストとして出発したブルックナーの人生が反映されているのかもしれません。また、精神的にもナイーブな人で、実際、前にミサ曲を取上げたときにも触れましたが、神経症になったこともあります。しかし、それを引き出すのはとても難しいと思うのです。恐らくカラヤンはその点で迫りきれなかったものと推測します。カラヤン自身はブルックナーを尊敬していたでしょうし、実際に晩年も多くの録音を残しています。しかし、やはりブルックナーの繊細な心からは少し離れていたのでは、と思います。

でも、私などはシベリウスの録音も聞いていますので、このインバルのように迫ることもできたと思うのですが・・・・・・

マーラーの第5番で私は始めてインバルの指揮の演奏を聴いたのですが、そのときにやはりかなり繊細な感じを受けました。マーラーの音楽もたぶんにそういう点がありますから。ただ、フォルティシモはやや弱く感じました。しかし、それがブルックナーだとこんなにもぴったりなのです!

これがクラシックを聴く楽しみですね。ブルックナーの作品は私が聴いた限りでは、繊細さが際立っているので、その点を演奏では考慮に入れて欲しいなあと思います。

インバルはその点、申し分ないと思います。


聴いているCD
アントン・ブルックナー作曲
交響曲第3番ニ短調(初稿)
エリアフ・インバル指揮
フランクフルト放送交響楽団
(TELDEC 8.42922)