今月のお買いもの、今回は令和6(2024)年6月に購入したものをご紹介します。バッハ・コレギウム・ジャパンのバッハ世俗カンタータ第10集です。e-onkyoネットストアにて購入、ハイレゾflac96kHz/24bitです。
遂にバッハ・コレギウム・ジャパンのバッハ世俗カンタータ・ツィクルスも最後まで来た、ということになります(とはいえ、実は私個人としては第6集を未購入。ただいまHMVにてCD予約中ですが、在庫なしとの回答を受け判断に迷っています)。教会カンタータに比べますと圧倒的に数が少ない世俗カンタータですが、それでも珠玉の作品が勢ぞろいしているのは、さすがバッハだなあと思います。
この第10集には、BWV30a「たのしきヴィーダーアウよ」とBWV204「私は自分に満ち足りている」の2曲が収録されています。最後にこの2曲なのかあと思います。番号としては、世俗カンタータの一番最初のBWV30a、後半に位置するBWV204という二つが選択されているからです。
この二つのうち、成立が早いのはBWV204だと言われています。1726~27年にかけて成立したと言われていますが、詳しい初演時期や場所は明らかになっていません。おそらくバッハ夫妻のレパートリーだったと言われています。内容としては、口語体だとちょっと何を言っているのかわかりづらい点があるのですが、東京書籍「バッハ事典」の文語体訳だと「我はおのがうちに満ちたれり」。安らぎは自分の中にある、だから現世の富に浮かれてはいけないと歌う曲です。
一方、BWV30aは、ライプツィヒ南西約20キロにあるヴィーダーアウに新着した荘園領主、ヨーハン・クリスティアン・へニッケを讃えるために作られた「機会音楽」です。そのため初演日時ははっきり記録が残っており、1737年9月28日にヴィーダーアウで初演されています。
実際には音楽劇になっており、バッハの世俗カンタータの機会音楽にカテゴライズされる作品に共通の様式を持ちます。
ここで注目なのは、まずこのBWV30aが最初に収録され、その後にBWV204が収録と、成立順だとひっくり返っていることです。この対比は、明らかに編集側が意図していると考えていいと思います。もっと言えば、バッハ・コレギウム・ジャパンのアルバムは主に編集者は指揮者鈴木雅明氏ですから、鈴木氏の意図が強く反映されていると考えてよさそうです。荘園領主として着任し、しかもバッハと関係がある貴族を讃えるという、現世的な作品の次に、このシリーズの最後として持ってきたのが、その現世利益を半ば否定する音楽である、と言う点です。
このアルバムが出版されたのは2018年。ちょうどアベノミクスで日本中が浮かれていた時期で、その2年後には新型コロナウイルス感染拡大で世の中がクローズされるようなことが起きるなんて思いもしていなかった時期です。そんな時期に、バッハ・コレギウム・ジャパンは最後の世俗カンタータのアルバムで、現世利益に左右されず自分のうちの平安を追及せよという音楽を持ってきたのです。ある意味、アベノミクスに対する批判とも取れるような音楽を、最後に持ってきたわけです。
確かに、経済的に豊かになることは、社会を維持する上では必要ですので、それ自体を否定することは難しいだろうと思います。ただ、私達は「何のために稼ぐのか」という点には、常に注目している必要があるのでは?と思うのです。私たちは何のために金儲けし、豊かになるのか?人を貶めて、卑下するためなのか?そうではないはずだというのが、BWV204の主題であることを考えますと、私達が金を稼ぐのはあくまでも自分と家族の幸せであって、他者を不幸せにするためにではない、ということに思い至ります。
ソリストはバッハ・コレギウム・ジャパンではおなじみのメンバーが勢ぞろいですが、そのソリストたちも自ら合唱団員として歌いながらも、ソリストとして歌う時に、つい心の内が演奏に反映しているように感じてしまいます。特にソプラノ・ソロのBWV204では、そのソプラノが切々としかし強烈に心の内の平安を見いだそうというメッセージが歌いあげられるさまは、心に突き刺さってきます。
さらに、その視点でBWV30aを聴いていますと、荘園領主に、自分の栄達だけを追い求めるのではなく、地域の幸せも同時に考えてくださいというような気持ちも作品には込められているのでは?という解釈で貫き通されているようにも聴こえます。言い換えれば「ほめ殺し」です。これだけ称賛したのですから、あとはわかっていますよね?という・・・初演当時、領主となったへニッケはどのようにこの音楽を聴いたのでしょうか?バッハが生きたライプツィヒという土地は、キリスト教でもプロテスタントが中心の地域です。そのプロテスタントの質実剛健の思想の中で、果たしてどのような感慨をへニッケは抱いたのか・・・そういう背景も考えますと、実は対比させているようで実は二つの曲とも、バッハの批判精神で貫かれているんだと言う、鈴木氏の解釈とそれに共感する演奏者たちという構図が見えてこないでしょうか?
バッハ研究オーソリティの鈴木氏が、単なる偶然でこの2曲を最後に持ってくるというのは考えづらく、やはり何らかのメッセージ性を持たせていると解釈するのが自然で、そうなると一見すると真逆のように見える2曲が、実は現世利益というものに囚われるべきではないというメッセージなのだという、鈴木氏のメッセージであるように聴こえるのです。東京オリンピックを2年後に控える日本に於いて、よくぞこれだけのメッセージを発出したなあと思います。勿論オリンピック自体を私は否定しませんが、2018年というタイミングを今振り返りますと、いろいろ日本は自国でのオリンピックを控えて浮かれていた部分はあったなあと思い返すのです。そんな時に常に批判精神を持ちつつ、自らの芸術に邁進した鈴木氏とその仲間たちであるバッハ・コレギウム・ジャパンは、それ自体が私たちの「内なる宝」だと思うのは、私だけなのでしょうか?パリ・オリンピックを控えたこのタイミングで、考えさせられる演奏でした。
買ってきたハイレゾ
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ「たのしきヴィーダーアウよ」BWV30a
カンタータ「私は自分に満ち足りている」BWV204
キャロリン・サンプソン(ソプラノ)
ロビン・ブレイズ(カウンターテナー)
櫻田亮(テノール)
ドミニク・ヴェルナー(バス)
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
(キング・インターナショナル KKC5934 flac96kHz/24bit)
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