かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ムターとオーキスによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集2

東京の図書館から、4回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、アンネ=ゾフィー・ムターランバート・オーキスによるベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ全集、第2回の今回は2枚目に収録されている第4番と第5番ほかの演奏を取り上げます。

本来はひとまとまりの予定であった、第4番と第5番「スプリング」。その「予定」通りにひとまとまりにして演奏しているのがこの全集となっています。

それだけに、この2曲に対しては、曲の様子が異なるにも関わらず、アーティキュレーションに注意していてさらにポルタメントも使うなど、思いっきり「歌って」います。ベートーヴェンの作品はこれだけ歌えるのか!と目からうろこの演奏です。

どうしても、ベートーヴェンとなると精神性とか言って、壮麗荘厳な演奏を求めるきらいがあります。勿論それが間違っているわけではないんですが、とくに第5番は暖かい雰囲気のほうが全面に出ている演奏になっていることは注目に値します。そしてそれもベートーヴェンの内面性であり、精神性だと言えるでしょう。

つまり、ヨーロッパではとっくにベートーヴェンの「神格化」は終わっているんです。一人の芸術家として扱うようになっているんですね。ですがいまだに日本では神格化があり、私などはSNSなどで議論するときにはずいぶん苦労します。そもそもベートーヴェンは現代的な医療で診れば依存症者です。アダルト・チルドレンでさらにアルコール依存症です。立派な依存症者です。

その中でベートーヴェンを救ったのが芸術だったわけです。聴覚障害を持ち、さらに依存症者。マイノリティーもマイノリティーなわけなんです、ベートーヴェンは。そんな中で普遍的な芸術を生み出し続けたことで、ベートーヴェンは死後神格化されていきます。それはマイノリティーだった裏返しでもあったわけです。

しかし近代になって、マイノリティーへのやさしいまなざしがようやくみられるようになってから、特に20世紀後半からベートーヴェンの評価は変ったように思います。特にアメリカで依存症者が音楽を作り続けることで回復を維持しようという運動が始まってから、ベートーヴェンの芸術もようやく一人の人間が生み出したものという認識が広がったように思います。なぜなら、アメリカで起こった音楽で回復を維持するという運動はまさに、存命中にベートーヴェンがやっていたことだったからです。

むしろ、ベートーヴェンなどのクラシックの芸術家がやっていたからこそ、アメリカで音楽で回復を維持するという考え方が広まったともいえます。実際ラッパーにはベートーヴェンの様に活動しているアーティストがたくさんいます。

そんな歴史を同じ時代で見ているからこそ、ムターとオーキスの二人は、ベートーヴェンを一人の芸術家として見ており、決して神様と捉えていないということになるでしょう。最後のWoO33の演奏でニヤリとしている二人が目に浮かぶようです。どう、ベートーヴェンだってあなたと同じでしょ?みたいな。

こういう演奏こそ、プロの見事な仕事だと言えるものです。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
ヴァイオリン・ソナタ第4番イ短調作品23
ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調作品24「スプリング」
フルート時計のための5つの小品WoO33(ウィリー・ヘス編曲版)から
 第3番 アレグロ ト長調WoO33-3)
アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)
ランバート・オーキス(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。