コンサート雑感、今回は令和6(2024)年6月8日に聴きに行きました、テネラメンテ・フィルハーモニー管弦楽団の第9回定期演奏会のレビューです。
テネラメンテ・フィルハーモニー管弦楽団さんは、東京のアマチュアオーケストラです。2016年創立と若いオーケストラで、以前私も第5回を聴きに行っております。
第5回の時は、メインがサン=サーンス作曲でオール・フランス・プログラム。そして今回も実はオール・フランス・プログラム。テネラメンテ・フィルハーモニー管弦楽団さんの「テネラメンテ」というのはイタリア語で愛情をもって、やさしくという意味ですが、意外とプログラムはフランスものが多いのがこのオーケストラの特徴でもあります。かと言ってドイツものを排除するのかと言えばそうでもなく、まさに音楽の美しさや内面性を追及するオーケストラだと感じています。その意味では、フランスものはよく合うオーケストラだという印象です。
今回のプログラムは以下の通りです。
まずは、ドビュッシーの「海」。交響詩と言われますがドビュッシー自身は交響的素描(エスキス)としており、広義の交響詩ととらえるほうが適切なようです。実際、テネラメンテさんの冊子には、最終的に完成させるのは聴衆であるとの記載がありました。
これはなるほどなあと聴いていて納得した部分でもあります。実際、以下のウィキペディアの説明では「開かれた形式」という言い方をしています。絶対音楽でありながら形式には囚われているわけではありません。まさに、ドビュッシーが目指したのは象徴主義ということを明確に示しているように感じます。
標題は確かに何かを象徴していますが、しかしそれが何かは、聴衆にゆだねられている、ということです。ドビュッシー曰く、この作品は素描、つまりスケッチにすぎないのです。そこにどんな色を付けてゆくかは、聴衆の想像の世界なのです。聴き手の脳内妄想で完成させる必要があるのです。例えば、それを象徴するのが、第3楽章の「風と海の対話」だと思います。そしてこの作品は循環形式ですから、第1楽章と第3楽章は明確な関係性を持つのですが、そうなると普通は波なのではと思いいや第2楽章もでしょ?と思うところですが、しかしその波は決して穏やかではなく、むしろ嵐の前触れかのようなおどろおどろしさを持ちます。まるで雨雲が遠くから雷鳴をとどろかせてやってくるような。
もしかすると、この作品は聴衆だけではなく、演奏者も作品の完成に必要なのではと思います。それは当たり前なのでは?と言われるかもしれません。しかし、演奏者に明確なイメージがあって初めて、私達もまた、そのイメージは正しいのか?こんなイメージでは?と考えながら聴くのです。どうしても演奏者と聴衆の共同作業になるように作曲されているのだとすれば、ドビュッシーは天才としか言いようがありません!
第1楽章と第2楽章は何かを描いているように聴こえるのですが、しかし第3楽章だけは標題と必ずしも一致しません。つまり、第3楽章はその場にいる皆さんで完成させて下さいねと言われていることを示すのです。これはやられた!と思いました。そしてそのやられた感は演奏する団員の皆さんもそうだったと私は感じました。同じ想いを共有してもいいし、もしかすると異なるかもしれない。しかしそのスリリングさを楽しむのがこの作品の肝なのだとすれば、これはドイツ後期ロマン派とはまた違った音楽であることは町がないのに、しかし楽しめてしまうんです。ドイツものなどダメだ!フランスなのだ!と特にドビュッシーは声高に叫んでいるわけではないのに、違いが明快。これが芸術を味わう醍醐味です。
一方で、後半の幻想交響曲は明らかに具体的なイメージが強い作品です。そして最近ようやく、ウィキペディアでもあへんなどの記載が出るようになりました。おそらくベルリオーズは使用もしくは使用していた人が身近にいたのでは?とずっと思ってきましたが、どうやらベルリオーズは使用して自殺未遂をしているとのことで、やはり!と膝を打ちました。第2楽章の開始の和声、第4楽章の内容、そして第5楽章の幻影あるいは幻聴が聞こえているかのような作風がそれを物語るのです。
その音楽を、使用経験がない人たちが表現することは、かなり大変な作業だったのではと思います。そこで重要なのは、ベルリオーズの作曲動機にどれだけ共感するかという点だろうと思います。ローマ留学の途中、婚約破棄をされてどん底に落ちたベルリオーズ。薬物を使った自殺を図ったその経験を音楽にしてしまうというのはまさに当時としては斬新だったと言えるでしょうし、その表現ができることこそ、ロマン派という音楽運動だったと言えるでしょう。そしてそもそもきっかけは失恋。それならば、普遍性のある事象です。自分の経験を第3者として俯瞰し、芸術にまとめ上げる能力もまた天才と言えるでしょう。演奏者も失恋経験をして自分がどん底に落ちて自殺を図るというのはどんなシチュエーションだろう?その状況で狂うとはいかなることなのか?と考えて作品にアプローチをする作業がないと、表現は難しいのではと思います。私の知人のコメントを借りれば「安全に狂う」。
今回、特に印象に残ったのは、やはり第4楽章「断頭台への行進」です。どうしてもアインザッツは強くなる部分ですし、テネラメンテ・フィルハーモニー管弦楽団さんも同様でした。しかしそのうえで美しく柔らかい!これが同居すると言うのはなかなか経験できません。しかも、演奏するのはアマチュアです・・・そこで経験できるのは、何という幸せなことか!
「安全に狂う」という点では、この「断頭台への行進」の場合、弦楽器もとにかく強く弾いて英雄的に語るというアプローチがあり通常はその方向の演奏が多いです。しかし今回のテネラメンテさんの場合、それだけではなくそこに柔らかさも同居させたのです。しかも、ホールは私も第九を歌った経験のある、大田区民ホールアプリコ。強く演奏したければいくらでも強く演奏できるホールです。しかし残響時間は長いいわゆる響きのいいホールでもあります。その特性を存分に生かしつつも、決して力任せではない表現をするのは唸りました。
勿論、打楽器はぶっ叩いており、絶望感は半端ないです。しかし、金管や弦楽器は必ずしも強いだけではなく、特に金管は朗々と美しく吹いているのが印象的でした。まるで今年2月のオーケストラ・ダスビダーニャのように・・・
金管トレーナーの方がどのような指導をされたのかはわかりませんが、それにしてもなんと美しい音色であることか!それでいて絶望的な状況も存分に表現されており、プロ並みの演奏を経験できたなんて、そうそうあることではありません。作品の主人公の深い魂レベルでの共感がないと、この力強さと壮麗さと美しさと絶望が同居する演奏は実現できないでしょう。この美しさがどこから出るのかのしっかりとした考察に、脱帽するしかありませんでした。
アンコールも美しいだけではなく生命を感じる生き生きとしたものでした。自分たちが生きている喜び、絶望してもまだ人生は終わらないという希望を感じた演奏でした。次回は今度はドイツものでベートーヴェン二つ。しかも「運命」と「田園」。有名すぎるこのふたつを魂のレベルでどのように料理するのか、楽しみです。
聴いてきたコンサート
テネラメンテ・フィルハーモニー管弦楽団第9回定期演奏会
クロード・ドビュッシー作曲
交響詩「海」
エクトル・ベルリオーズ作曲
幻想交響曲 作品14
アンコール
クロード・ドビュッシー作曲
小組曲より4.バレエ
須藤裕也指揮
テネラメンテ・フィルハーモニー管弦楽団
令和6(2024)年6月8日、東京大田、大田区民ホール アプリコ
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