東京の図書館から、62回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、ヘルムート・リリンク指揮シュトゥットガルト・バッハ合奏団他による、バッハのカンタータ全集、今回は第28集を取り上げます。収録曲は第113番、第33番、第78番の3つです。そろそろ一つ一つが長くなってきたように思います。
①カンタータ第113番「主イエス・キリスト、汝こよなき宝」BWV113
カンタータ第113番は、1724年8月20日に初演された、三位一体節後第11日曜日用のカンタータです。これもコラール・カンタータになります。
この演奏で注目すべきは、第2曲目のコラールで、ウィキペディアでも東京書籍「バッハ事典」でも、アルトアリアとなっているのですが、この演奏ではアルトソロではなく合唱団のアルトが担当し、コラールとなっています。この2曲目もコラールが元になっており、勿論ソロでもコラールが歌われることはあるのですが、あえてリリンクはコラールをそのまま合唱でを選択したと言うことになります。おそらく当日のテクストである、パリサイ人と取税人のエピソードを鑑みてということだと思います。
なぜ私がそのように判断するかと言えば、このエピソードは、独善により独占するのではなく、広く分け与えるような謙虚な心が大切だと説く場面だからです。物語とすれば自分が正しいとして他者を貶めることをいさめるものですが、その精神は他者から搾取して独占するということにつながります。謙虚な精神は、自分だけでなく他者にも分け与えることにつながります。
そういうテクストだとすると、ここでアルトソロでいいのだろうかと、リリンクは考えたのではないかと思うのです。それゆえ、合唱団のアルトでここを歌わせたと考えられます。
それ以外は変わっていません。ここに、リリンクが元となったコラール、そして初演時当日のテキストを、演奏する上でかなり勘案して演奏していると考えていいでしょう。そのうえでの、モダン楽器だからこその声楽のオペラ的な発声など、考え抜かれています。思わずうなるところです。勿論、その考え抜かれた演奏が、作品が持つ贖罪、あるいは謙虚さというところを私たちに考えさせるだけの魂を揺さぶる演奏につながっていると言えます。
②カンタータ第33番「ただ汝にのみ、主イエス・キリストよ」BWV33
カンタータ第33番は、1724年9月3日に初演された、三位一体節後第13日曜日用のカンタータです。ここで第12日曜日が抜けていますが、この前年に第69番(BWV69a)が作曲され演奏されていますので、それを再演したか、あるいはほかの人の作品を演奏したかという事だろうと思います。BWV69aは1727年に再演されたような記録がありますが確かではなく、そのため翌年の1724年という可能性は残されています。そのため、1724年は新作がなく第13日曜日にこの新作である第33番が演奏されたと考えていいでしょう。
勿論、この曲もコラール・カンタータです。この曲もそのコラールの内容を踏まえて、祈りというよりは諫めの説話の側面がある曲だと言えます。常に自分に対して謙虚な精神を持っているかと問うものです。そのため、歌唱もそのあたりを強調する厳しさを踏まえたものになっています。その歌唱を際立たせるため、ここでも楽器と声楽とのバランスが絶妙に取られています。しかも心の内を表現するために、リズムもしっかり重視して際立たせています。そしてその表現が決して表面的ではなく人の内面を表現するのに貢献しているのが素晴らしいのです。勿論それはそもそも作品が持っているものですが、なぜ作品が持っているのかを際立たせることに成功し、そのうえで薄っぺらくなってもいないのです。ここがリリンクの解釈の素晴らしいところであり、ここでもテクストをしっかり読み込みスコアリーディングをしているということを徹底しています。極めて優れた演奏だと言えましょう。
③カンタータ第78番「イエスよ、汝はわが魂」BWV78
カンタータ第78番は、1724年9月10日に初演された、三位一体節後第14日曜日用のカンタータです。これもコラール・カンタータになります。
ウィキペディアの説明では、当日のテクストと内容はあまり関係していないとの文言がありますが、全く関係ないものをバッハが持ってくるとは思えないのです。そもそも歌詞はバッハというよりは台本製作者が居て、その台本にそってバッハが曲を付けています。トーマス・カントルであるバッハが全く関係ないものを台本作者と持ってくるとは思えません。そこで当日取り上げられた聖書の内容を見てみると、ガラテヤ人への手紙、パウロの「肉の行い」と「聖霊の実」に関する教え(ガラテヤ5:16–24)とルカによる福音書、十人のらい病人を清める場面(ルカ17:11–19)です。このうち、ガラテヤ5:16–24はイエスの磔刑は「キリストに属する者たちは、肉を、情欲と欲と共に十字架につけてしまったのです」とあることから、イエスの磔刑から、自らの行いを顧みるという方針があったのではと私は推理します。特に、富と名声に対する警句が、この時期のカンタータには多いことを勘案すると、やはり自らの「罪」を見つめ、生活に生かすという方針が見え隠れするのです。そう考えれば、やはり関連として台本が作られたと言えるでしょう。
そして、演奏でも第2曲のリズミカルで明るい様子は、罪をかぶったイエスが救い主であり、求めるものであるという喜びに満ちています。リリンクがそのように思い切り表現させたのは、内容と当日のテクストに関連性ありと判断したからだと言えるでしょう。歌詞はバッハ・クライス神戸さんのほうが分かりやすいのでそちらを挙げておきますが、説明の中に以下のようにあることから、第78番が当日の内容に即したものだと言う解釈をされていると考えます。
「ところで、かつての作曲家は「音形」「リズム」「ハーモニー」の決まったパターンで、音楽を効果的に伝える技法を持っていました。これを「音楽修辞学」といい、個々の表現パターンを「フィグール(figure)」=「表現のあや」といいます。この音楽修辞学、今では存在すら忘れ去られていますが、ルネッサンス前後からベートーヴェン前後に至るまでのヨーロッパ音楽には欠かせない表現技法でした。またかつての聴衆も、個々のフィグールを理解しつつ、音楽を聴いていたと言われています。バッハもそのような音楽修辞学全盛時代の音楽家であり、カンタータの楽譜を見ると、あちこちにフィグールが散りばめられていることが分かります。」
bach-kreis-kobe.music.coocan.jp
このバッハ・クライス神戸さんと同じように、リリンクも考えた可能性は十分あるのです。それはまた、バッハ・コレギウム・ジャパンの鈴木雅明氏も同様なのですが、全集を収録していた時代の日本は、まだ十分表現できるだけの人材がおらず、海外からもそれだけの力があるソリストが来られなかったということもあって、時として満足のいく演奏ではなかったと言えるでしょう。この辺りを勘案しない評論はあまり日本のクラシック音楽の発展に資力していないのではないかと懸念するところです。その意味でも、まだまだリリンクのこの全集の存在感は大きいと言えるでしょう。モダン楽器の演奏に慣れた人たちに、真のバッハの精神とは何ぞやと語り掛けることから、です。
聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第113番「主イエス・キリスト、汝こよなき宝」BWV113
カンタータ第33番「ただ汝にのみ、主イエス・キリストよ」BWV33
カンタータ第78番「イエスよ、汝はわが魂」BWV78
ヘレン・ドナート(ソプラノ、第113番)
アーリン・オジェー(ソプラノ、第78番)
ヒルデガルト・ラウリッヒ(アルト、第113番)
ヘレン・ワッツ(アルト、第33番)
キャロライン・ワトキンスン(アルト、第78番)
アダルペルト・クラウス(テノール、第113番)
フリーダー・ラング(テノール、第33番)
アルド・バルディン(テノール、第78番)
ニクラウス・テューラー(バス、第113番)
フィリップ・フッテンロッハー(バス、第33番)
ヴォルフガング・シェーネ(バス、第78番)
ゲッヒンゲン聖歌隊
フランクフルト聖歌隊
インディアナ大学室内合唱団
シュトゥットガルト記念教会合唱団
ヘルムート・リリンク指揮
シュトゥットガルト・バッハ合奏団
ヴュルッテンベルク室内管弦楽団
地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。