かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:テルデックレーベルの古楽演奏によるバッハのカンタータ全集64

東京の図書館から、78回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、テルデックレーベルから出版された、古楽演奏によるバッハのカンタータ全集、今回は第64集を取り上げます。CDでは第37集の1となっていますが、このブログでは図書館の通番に従っています。収録曲は第152番と第153番の2つです。

この全集は指揮者2名体制で、ニコラウス・アーノンクールグスタフ・レオンハルトの2人です。この第64集ではニコラウス・アーノンクールの指揮、ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスとテルツ少年合唱団となっています。

カンタータ第152番「出で立て、信仰の道に」BWV152
カンタータ第152番は、1714年12月30日に初演された、降誕節後日曜日用のカンタータです。

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この曲は神が据えた「石」がテーマになっていて、それに躓いてはならないのというテクストだと言われますが、それは多少説明を端折りすぎではないかなあと思います。キリスト教徒の方だとすぐ理解できるのだとは思いますが、この曲をただ味わいたいという人にとっては、なんで?ということもあるかと思います。特に歌詞をよく読めば、大事な石だから躓いてはならない、宝石なのだからと言いつつもそこに据えた・・・なら取り除けばいいじゃないかと、コスパ・タイパ重視の現代では、この曲は演奏してはならない曲だとされる可能性があるからです。実際、鉄道解説系YouTuber鐡坊主さんのところではそのような意見であふれかえっていますし、またFacebookなどのSNSでも、そのようなエントリもあふれかえっています。

私は歌詞を精査して、躓くというよりは、邪魔だからとけっぽってはならない、と言う内容であると理解しています。躓くというのはある意味日本語的かなあと思う部分もあります。これは後で開始するバッハのカンタータ全曲日本語訳プロジェクトで吟味しようとは思っていますが、大事なものなのだから邪魔だとけっぽって取り除こうとするのではなく、そこにあるがままにして大切に地面をよく見て躓かないように歩こうということだから「躓くな」だということなんですね。それが「信仰の道」である、と。この辺りは、なかなか説明は難しいだろうと思いますし、できればバッハのカンタータを演奏する団体でキリスト教徒の方がいらっしゃれば、パンフレットなどで詳細な解説が必要だろうと思います。大切なものだからけっぽらずに大切にしようという比喩で「躓くな」なのだと言えば、他の宗教を信じている人でも理解してくれるのではないかと思います。少なくとも私はそれで理解できています。

そして、それに気が付きますと、この演奏の特徴がすっと入ってきます。まずテンポはバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏よりいくぶん遅め。古楽演奏は快速なものと信じて疑わない人からすれば腰抜かすでしょうが、このテンポはまさに「石があること、それに躓かないことはいかなることか」を、テンポでまずは端的に表現していると言えます。

そのうえで、ソプラノはテルツ少年合唱団のボーイソプラノであるクリストフ・ヴェークマン君。初めて歌唱を聴きますが、幼さが感じられますがそれが清らかに聴こえるのです。となると、純潔や清純という意味があると考えるべきでしょう。それが集約されているのが、最後のバスとソプラノとの二重唱。ソプラノは魂、バスはイエスの役割ですが、その対話の中で神への信仰が結ばれていく様子が描かれているという構成を見れば、その「石」とはどういうものなのか、躓くなとはどのような意味なのかが分かってくるわけで、この曲も多分に説諭の側面を持っています。振り返れば、この曲には合唱が全くなく声楽はソロだけです。かろうじて管弦楽が多少大き目。その管弦楽シンフォニアの後に、簡素なアリアやレチタティーヴォが連なっているのは、まさに降誕節の後で信仰について考える機会なのだというテクストに見事に沿っています。そのテクストを如何に演奏で表現するかを考え抜いた結果が、このアーノンクールの演奏に結実しています。

カンタータ第153番「見たまえ、御神、いかにわが敵ども」BWV153
カンタータ第153番は、1724年1月2日に初演された、新年後日曜日用のカンタータです。

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新年後の割には重々しい雰囲気を漂わせる曲で、いきなりコラール合唱で開始されます。つまり前奏なしです。しかもまるで通常なら最後に来るかのような和声。東京書籍「バッハ事典」では、1723年の多産期で疲れた演奏者を考慮してなどの説明がありますが、私としては純粋に当日のテクストに沿ってのことだと思います。新しい年を迎えて、しかし楽しいだけでいいのかということにフォーカスさせた内容だとすればそれに沿うのは当たり前でしょう。編成が簡素だとすれば、それはそれだけの人数が集めることができなかったと関g萎えるほうが自然であり、疲れたというのはその理由の一つに過ぎないと個人的には考えます。何より、声楽は合唱もありますしソロも4声部備えています。そうなると、むしろテクストを表現するためにわざと編成を絞り、管弦楽の担当の方が集まらないのでちょうどいいから無理させず休ませたという視点のほうが適切かなと思います。

この第153番では、ソリストとしてテルツ少年合唱団のボーイアルトであるシュテーファン・ランプフの声を堪能できます。それは第8曲なのですが、多少息継ぎに少年らしさを感じますが、堂々とした歌唱で、ソプラノのヴェークマン君よりはうまいなあと感じます。この辺りは経験の差でしょうか。

合唱も少年合唱団単独であることから、清らかな印象を受けます。第1曲のコラールでは重々しい歌唱を披露し、最後のコラールでは今度や明るい喜びに満ちた歌唱を聴かせてくれます。アーノンクールは少年合唱団を秋からに天使の歌声のように使っていると考えられますが、その起用は見事な清らかさの印象として結実しています。この第64集でも、ヨーロッパの古楽演奏が私たち日本人の印象とは異なることを証明しています。

 


聴いている音源
ヨハン・セバスティアン・バッハ作曲
カンタータ第152番「出で立て、信仰の道に」BWV152
カンタータ第153番「見たまえ、御神、いかにわが敵ども」BWV153
クリストフ・ヴェークマン(ソプラノ、テルツ少年合唱団)
シュテーファン・ランプフ(アルト、テルツ少年合唱団)
クルト・エクウィルツ(テノール
トーマス・ハンプソン(バス)
テルツ少年合唱団(合唱指揮:ゲールハルト・シュミット=ガーデン)
ニコラウス・アーノンクール指揮。通奏低音ヴィオラ・ダ・ガンバ
ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。