かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から〜小金井市立図書館〜:メシアン オルガン作品集2

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリをご紹介しています。特集しているメシアンのオルガン作品ですが、その第2集です。

この第2集では、2曲「主の降誕」と「聖餐式」の2つが収録されていますが、この2つも第1集同様、色彩感あふれる作品だと思います。

その上で、和声がとても不思議な色合いを持っており、どこか原初の感じを受けます。キリスト者ではない私とすると、どこか日本神話の国造りを想起します。ドロドロになっている大地をかき混ぜて陸を作り、それが日本列島になったというあれです。

メシアン神学者だったはずなのに、どこか普遍的な作品を作曲していることに驚きます。そして聴きやすい!圧迫感もなく、どこか上から目線でもない。だからこそ、本来宗教的な題材を扱っていながらも、同じ人間として共感できるものがあるのだと思います。

演奏するプレストンも、そのあたり決して力任せではないのもいいですね。伸びやかなんです。それでいて、表情も豊か。メシアンといえば20世紀音楽ですが、だからといって構えているわけでもなく、じつに自然体です。何か私達とは違った存在がいるような、不思議な雰囲気が決して強迫的ではなく、人間として畏れを抱いていることがよく分かる演奏だと思います。

畏れ・・・・・よく宗教的な話で使われる言葉ですが、私自身は人間は誰でも持っている感情だと思っています。その誰でも持っているはずの感情を、たまたまキリスト教を信じる人が弾いているというだけと私は捉えます。ですからそこに私とどのような共通点があるのかを聞き取ろうとします。

プレストンは、同じ人間として、その誰でも持つはずの「畏れ」を、じつに自然に表現しています。そのうえでキリスト者としての喜びだったりが表現されており、それはたとえば、私自身が寺院へ行き、仏像と対面するときに似ているように思います。そう思えば、特に拒否することもないですし、否定することもないです。同じ人間として、共感するだけです。そしてその共感することが、私にとっては喜びでもあるわけです。

私は、大学時代という人生の一時期を、文化財を見に行くということに費やしました。けれどもいまのように歴女とかいう言葉もない時代。仏像や古建築を見に行くなんて、奇異な目で見られた時代でした。そのうえで、その仏像や古建築を見に行くサークルの中でも、クラシック音楽が好きというのは更に奇異に見られるという経験をしたんです。けれども私にとっては、美しいものに対して畏れを抱いたり感動したりする点で、仏像や古建築を見るということとクラシック音楽を聴くということは同じことでした。

プレストンの演奏にも、そういった自分とはまったく違う存在であるはずの、神や宗教者に対する畏れや感動と言ったものが感じられるんですね。その意味で、私はこのような演奏を聴いていると仲間の中にいるという感覚になります。それは私にとって一つの安心安全な場所です。演奏を聴いてホッとするといったことは私にとってとても重要なことであり、大切なことなのです。

その上で、メシアンという作曲家の、トゥランガリーラ交響曲とはまた違った、けれども共通するメシアン像を呈示してくれます。こういう演奏を聴くことこそ、私は幸せなのです。




聴いている音源
オリヴィエ・メシアン作曲
主の降誕(1935)
聖餐式(1928)
サイモン・プレストン(オルガン)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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