東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、メンデルスゾーンの交響曲全集を取り上げます。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏です。
ベタと言えばベタな、カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。メンデルスゾーンの交響曲をカラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で聴いたという人も少なくないのではないでしょうか。しかし私はカラヤンが初めてではなかったので、借りてみました。
そもそもですが、私はカラヤンという指揮者は嫌いではないですがさほど好きでもありません。どちらかと言えば避ける指揮者ではあります。カラヤンの解釈は私にとっては合うものと合わないものとの差が激しいので、安定的に「カラヤンだから」という理由で選択することが少ないのです。
それでもカラヤンを借りた理由は明白。図書館だから、です。どういうこと?と思われるかもしれませんがそれ以上も以下でもないです。図書館で借りてきてリッピングすればデータだけなので、これ嫌!となればリッピングしたデータをワンクリックで削除すればいいだけだから、です。
とはいえ、実はカラヤンの指揮で削除したのはチャイコフスキーの交響曲第5番のみです。その意味では、カラヤンは決して私の美意識と合わない指揮者ではありません。ただ、削除したものが存在する以上、完全に合う指揮者ではないことは確かです。
今回もまた、基本的には合う、合わないが発生しているなあという印象です。合わないものを削除するというところまでは行きませんが・・・
一方で、この全集は興味深い編集をしています。元音源はカラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団なのでドイツ・グラモフォンですが、まず今回取り上げる第1集に収録されているのが、交響曲第1番と第5番「宗教改革」です。あれ?番号順ではないの?というア・ナ・タ。はい、番号順ではありません。ではランダムなのですねと言えば、違います。実は成立順に並んでいるのです。
メンデルスゾーンの交響曲は以前もこのブログで言及していますが、成立順は番号順ではありません。番号は出版された順番であり、成立した順番は異なります。さらに言えば、近年の研究結果からすれば、第1番という呼称も正しいのか疑問です。メンデルスゾーン自身は第1番を「第13番」と呼んでいました。なぜなら、第1番以前に弦楽のための交響曲を12曲書いており、その続きとしかメンデルスゾーンは考えていなかったのです。ではなぜ第1番とされたのかと言えば、本格的な管弦楽のための交響曲だったため、それ以前の12曲が習作扱いされたためです。
この第1番の次に作曲されたのが、第5番「宗教改革」です。
今回、便宜上第1番を最初の交響曲としますが、必ずしも正しくないという研究が現在においては優勢である(つまり、確定ではない)ことにご留意ください。
さて、ではなぜ、第5番「宗教改革」が2番目なのかと言えば、勿論5番目に出版された交響曲だからですが、なぜ5番目に2番目の作品が出版されたのかと言えば、なかなかメンデルスゾーン自身が作品の出来栄えに満足できず、出版をためらったためとも言われています。そのため、出版はメンデルスゾーンの死後となったため、第5番とされたのです。
カラヤンとドイツ・グラモフォンの編集者は、そこでメンデルスゾーンの本心は2番目に出版したかったのではないか?と考えたため、第1番の次が第5番だったと言えるのではないでしょうか。構造から言えば、第1番も第5番も絶対音楽で貫かれています。しかし、聴きますとカラヤンのアプローチが異なるのです。
第1番は古典派的な疾走する音楽で、カラヤンらしい演奏なのです(古典派におけるこのカラヤンのアプローチは私自身は必ずしも嫌いではありません)。一方で第5番は同様に絶対音楽のはずなのに、ロマンティックな方向に振れています。テンポはどっしりとしており、第4楽章は壮麗な音楽になっています。多少やりすぎなくらい・・・そこは私の美意識とは多少異なります。その点ではこの演奏は私自身はあまり評価しません。
ですが、ではなぜカラヤンがその解釈を取ったのか?なのです。ここで想起されるのは、第5番「宗教改革」は本来その名が示す通り、マルティン・ルターによる宗教改革の「アウクスブルクの信仰告白」300年を記念して委嘱された作品です。メンデルスゾーン自身熱心なルター派信者でしたが、実はそもそもはメンデルスゾーンはユダヤ教徒です。そして、第5番は単に祝祭に間に合わなかったというだけでなく、むしろ音楽界からは冷淡な扱いをされたと考えてもいいほど演奏機会に恵まれなかった作品です。そうなると、当時のドイツにおけるユダヤ人迫害と関係があるのでは?と勘ぐってもおかしくないでしょう。
いろんなエピソードが伝えられている第5番「宗教改革」ですが、カラヤンとしては、本当はメンデルスゾーンはこの曲を気に入っていたのでは?あるいは演奏してほしかったのでは?と考えていたと推測できるのです。それが鼻につくほどの壮麗な演奏です。特に最後の部分の極端なリタルダンド。カラヤンはこの曲の本質は迫害による複雑な内面だと解釈したのではないでしょうか?そうであれば、その演奏は私も納得する部分もあるのです、好きではないにしても。そういう解釈も確かにあり得るなあ、と。
カラヤンが生きた時代は、ナチスがドイツの政権にあった時代と重なっています。活躍した時代ではなかったにせよ、カラヤンもナチス・ドイツの時代を知っている一人でもあります。また、ユダヤ人以外でも、カラヤンが音楽監督だった時代に日本人をベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で採用した時のいじめなどの迫害も知っている一人です。カラヤン自身も純粋なドイツ人かと言われれば必ずしもそうとは言えない身分です。
そういうカラヤンが生きた時代の経験が、この解釈に詰まっているのだとすると、どこかやりすぎなくらいの壮麗さは、理解できるように思うのです。それがどうも鼻につくなあと思う私は、恐らく幸せなのだと思います。一方で理解もできるのは、私自身もいじめられっ子だった経験から来るものです。確かに、そう考えればこの曲は複雑な内面が詰まった作品でもあるなあと感じざるを得ません。
こういう解釈をオーケストラに提示できるカラヤンは、やはり巨匠と言われるにふさわしいと思います。確かに私とは美意識が異なる部分があるにせよ、納得させるだけの演奏を提示できるカラヤンとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、やはり世界のトップオケです。その点は認めざるを得ないのです。
こういう演奏から、果たしてカラヤンを非難する人たちは考察できるだろうかと思ってしまいます・・・
聴いている音源
フェリックス・メンデルスゾーン=バルトルディ作曲
交響曲第1番ハ短調作品11
交響曲第5番ニ長調作品107「宗教改革」
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
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