東京の図書館から、3回シリーズで取り上げております、小金井市立図書館のライブラリである、チャイコフスキーの交響曲集、今回はその最終回。第6番を取り上げます。
ドイツ・グラモフォンの録音であるこの演奏。それゆえか音もピュアです。1960年にウィーンのムジークフェラインザールで収録されたものですが、その古さを感じさせないんです。さすがドイツ・グラモフォン。
一方で、ムラヴィンスキーの解釈はテンポは旧ソ連らしい快活なものですが、繊細さも併せ持っています。そこは小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラとは異なるんですが(たとえば、音節の最後の処理など)、私としてはどっちがいいというのではなくどっちもいいと感じるものです。その両方の解釈が成り立つのが、真に普遍性がある芸術と言えるのではないでしょうか。
ムラヴィンスキーのタクトに心酔するファンは多く存在しますが、それは時として速いテンポの中に精神性を感じるからだと思います。ですがそれがすべてではないということは念頭に置いておく必要があるのでは?と思います。確かにこの演奏は私にとって、まるで魂をえぐられるようなもので、時として苦しく泣きたくもあります。それだけ魂を揺さぶる演奏だと言えます。とはいえ、では小澤の解釈がそうではないのかと言えばそんなことはありません。思わず落涙してしまうような場面も数多くあります。
差は「悲しみをどうとらえるか」という点であり、どちらも悲しみを表現している点では違いがありません。チャイコフスキーのマイノリティとしての内面性に、どのようなアプローチで迫り、表現するのかで差が出ているにすぎません。あとはその解釈に共感できるかでしかありません。そこで好みが分かれるということでしょう。
私自身、マイノリティだと思っていますので、どんな解釈であっても受け入れられるような気がしています。とはいえ、以前は「こうあらねばならぬ!」というものも持っていたのですが、最近はいろんな経験をして、「こういう解釈もあるのか!」と目を見開かせられる場面が多く存在します。そしてその経験が、自分にとって喜びであり、貴重な経験なのだと実感しています。
それゆえ、私自身はムラヴィンスキーに心酔するものではなく、でも排除することもなく、受け入れられるものは受け入れ、受け入れられないものは受け入れない、というだけになっています。この演奏のすべてが受け入れているわけではないですが、全体としては受け入れられるものになっています。こういう演奏こそプロの仕事であり、名演を生み出していくのであると実感しています。旧ソ連という体制の中で生きてきた人たちの内面性が、マイノリティであったチャイコフスキーが残した自身の内面性とリンクして、素晴らしい演奏へと昇華している演奏だと言えるでしょう。
聴いている音源
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲
交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
エフゲニ・ムラヴィンスキー指揮
レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
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