かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ロストロポーヴィチとロンドン・フィルによるチャイコフスキー交響曲全集6

東京の図書館から、7回シリーズで取り上げています、府中市立図書館のライブラリである、ロストロポーヴィチ指揮ロンドン・フィルの演奏によるチャイコフスキー交響曲全集、今回は第6集を取り上げます。

第6集は交響曲第5番。どちらか言えば激しさよりも内面性が目立つこの曲。ロストロポーヴィチロンドン・フィルに悠然とした音楽を鳴らさせます。その分、激しさも見られるこの曲でそれは影を潜め、むしろ粛々と運命に対峙していく人間の姿を聴衆に見せているように思います。

はじめは少し物足りなくも感じるのですが、聴いているうちにのめりこんでいく、不思議な演奏。しかしある意味チャイコフスキー交響曲の「スタイル」を確立したともいえる第5番では、適切な解釈の一つなのではないかと感じてもいます。

チャイコフスキー交響曲で目指したものとはいったい何だったのでしょう?ロシア的なこと?どうも私は違うように思います。勿論どこかでロシア的なものはにじみ出るでしょうが、それよりはむしろ、普遍的な人間の姿というものを、ロシア的な音楽の中で追求したかったのではないかと私は考えるのです。

ゆえに、チャイコフスキーの音楽はロシア的な旋律というものが少ないため、旧ソ連では糾弾されました。それはロシアの時代から続くもので、何も社会主義だからというわけでもなかったのですが、それでも「社会主義リアリズム」には反するとされてしまったのです。まあ、権力とは勝手なものです。

近代以来、ロシアとはソ連の時代も含め緊張が続いている我が国で、特にチャイコフスキーの作品が愛され、演奏され続けてきたのは、ひとえにチャイコフスキーの作品が持つ「普遍性」に我が国のクラシック・ファンの多くが魅力を感じているからに他ならないだろうと私は考えます。ロストロポーヴィチは楽譜から内面性を見事に掬い取って、壮麗かつ雄大で普遍的な人間の内面性を作品から提示したと言えるでしょう。

こういう演奏を聴くことこそ、プロオケの演奏を聴く醍醐味だと言えます。

 


聴いている音源
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲
交響曲第5番ホ短調作品64
ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

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