かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ロストロポーヴィチとロンドン・フィルによるチャイコフスキー交響曲全集3

東京の図書館から、7回シリーズで取り上げている府中市立図書館のライブラリである、ロストロポーヴィチロンドン・フィルによるチャイコフスキー交響曲全集、今回はその第3回目。第3集を取り上げます。

第3集には第3番「ポーランド」が収録されています。この作品はポーランドのリズムが最終楽章でつかわれているためにそう呼ばれている作品で決してポーランドの愛国的作品とまではいえない作品ですが、ロストロポーヴィチは結構速めのテンポを第1楽章で選択しており、結構祝祭感あふれる演奏になっています。

第1番と第2番はかなり国民楽派的な作品であったことに比べれば、「ロシアらしさ」というのは少ないため、ロシア5人組の影響から脱しようとしていると評価される作品であることも関係しているのかもしれません。それはチャイコフスキーの「自立」をも意味していると解釈することもできるからです。そんなチャイコフスキーの「想い」というものをロストロポーヴィチは楽譜から掬い取っているのかもしれません。

これは長く後期ロマン派の「派手」な部分を見てきた我が国聴衆には理解し難いかもしれません。最初私もそうでした。「ポーランド」なのだから、愛国的作品であろ、とつい思ってしまいがちです。しかしロシアの指揮者たちはこの第3番という作品をそのような表面的な理解と解釈をしていないことに気付くと、その祝祭的な音楽は実はまったく意味が異なるのだ、と気づかされるのです。それが、チャイコフスキーの「国民楽派」からの自立、です。

チャイコフスキーは様々批判されてきた作曲家でした。古くはあまりにもロシア的ではないとされ、ソ連時代にはブルジョア的と糾弾もされています。もしかすると「ポーランド」という作品はそのような論争を引き起こしかねない、実はチャイコフスキーの作品の中で非常に重要な作品である、ともいえるのかと思います。

5楽章というのも古典的なものからの脱却ということも意味するかもしれません。ただ、私としてはロシア的なものも感じる作品なのですが・・・・・・特に第4楽章スケルツォ

たいてい、国家的イデオロギー論争に芸術が巻き込まれるケースというのは、ある一点だけ取り上げてあげつらわれる、ということが多く、全体を聴いて評価するなんてことはありません。我が国でも、近年某6名を任命しないというケースがありました。あれも総合的に判断などしてはいないでしょう。ある一点だけ見ただけで問題にしたと考えて差し支えありません。その意味では我が国も旧ソ連となんら変わりはないんですが・・・・・

ロストロポーヴィチロンドン・フィルという名門を振ることで、私たち日本人にその表面的な見方の愚かさを突き付けているのかもしれません。

 


聴いている音源
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲
交響曲第3番ニ長調作品29「ポーランド
ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

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