かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

想い:仙台育英高校野球部 須江監督のコメントから考える事

想い、今回はコロナ禍における音楽活動を考えます。

第104回全国高校野球選手権大会は、仙台育英高校の優勝で幕を閉じました。深紅の大優勝旗が「白河の関」を初めて越えるという、歴史的結果となりました。

一方で、優勝した仙台育英高校野球部監督である、須江監督のコメントは、私にとってとても感動的なものでした。

「(高校の)入学どころか、おそらく中学校の卒業式もちゃんとできなくて、高校生活はなんというか、僕たち大人が過ごしてきた高校生活と全く違うんですが、青春ってやっぱり密なので、(行事など)そういうことは全部ダメだダメだと言われて、活動していてもどこかでストップがかかって。どこかで止まってしまうような苦しいなかで、本当に諦めないでやってくれた。でもそれをさせてくれたのは僕たちだけじゃなくて、やっぱり全国の高校生のみんなが、本当によくやってくれた。例えば今日の下関国際さんもそうですが、大阪桐蔭さんとか、そういう目標になるチームがあったから、どんな時でも諦めないで、暗い中でも走っていけた。本当にすべての高校生の努力の賜物で、ただただ僕たちが最後にここに立ったというだけなので、ぜひ全国の高校生に拍手してもらえたらなと思います」

news.yahoo.co.jp

動画はこちら。

www.youtube.com

ここで須江監督が言われている「全国の高校生」とは誰を指すのだろうか、と考えてしまったのです。高校球児?それはあるでしょう。しかし球児だけだったのだろうかと思うのです。それは以下の部分に表れていると私は考えます。

「(行事など)そういうことは全部ダメだダメだと言われて、活動していてもどこかでストップがかかって。どこかで止まってしまうような苦しいなかで、本当に諦めないでやってくれた。」

これは、たとえば応援に来ている吹奏楽部などを念頭にも置いているのではないだろうかという気がするのです。特に合宿などは密になりますから、やめになったという例は吹奏楽部においては全国的に普通に聞かれることでした。甲子園は1年だけだったけれど、吹奏楽部のコンクールなどはいまだに開催されておらず、今年ようやく開催となっているようです。

スポーツだけではなく、文化的な部活動も多大な影響を被った、新型コロナウイルスによる感染拡大。特に吹奏楽部にとってはコンクールだけではなく、甲子園での応援すらかなわなかったのです。それが今年になってようやく解禁された・・・・・その思いを須江監督はもっておられたのではないかと、私は想像するのです。

須江監督は現役時代、控えで公式戦に出ておられません。そういった「弱きものの気持ち」がわかる監督だからこその結果が、決勝戦の岩崎君の試合を決める満塁ホームランに出たように、どこか苦しんでいる人に対する優しいまなざしを感じるのです。

試合をテレビで見ていて、仙台育英高校の学校での応援にサッカー部も来ていたことも、この監督の人柄を感じさせるシーンでした。部活動の垣根なく、応援したいと思わせる、苦労人だからこその人柄を感じます。それが「全国の高校生に拍手を」という言葉につながっているのだろうなと思います。

この辺りはぜひとも、インタビューの機会があれば尋ねてみたいところです。そしてさらに印象に残ったのがこのコメント。

「例えば今日の下関国際さんもそうですが、大阪桐蔭さんとか、そういう目標になるチームがあったから、どんな時でも諦めないで、暗い中でも走っていけた。本当にすべての高校生の努力の賜物で、ただただ僕たちが最後にここに立ったというだけ」

例えば、吹奏楽部に所属する高校生にとって、目標とするものがなんであるかも、重要ではないかと思います。コンクールであれば有力校と言われる学校でしょうし、其れ以外であれば、地元で活躍するアマチュアオーケストラや、プロの団体、ソリストたちではないかと私は思うのです。

どんな形であれ、演奏活動をし続ける・・・・・そのことが、次世代にとってとても大事な灯台であるのだと、改めて思うところです。仙台育英高校の優勝は改めて、高校野球の歴史を塗り替えただけでなく、文化を受け継いでいくのには何が大事なのかを考えさせていただいた、とてもいい機会であったと思います。とにかく、優勝されたことをお祝いしたいと思います。仙台育英高校、優勝おめでとうございます!


地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ラインスドルフとボストン響によるベートーヴェンの第九

東京の図書館から、今回は府中市立図書館のライブラリである、エーリヒ・ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団他の演奏によるベートーヴェン交響曲第9番の演奏を収録したアルバムをご紹介します。

ラインスドルフのような指揮者のCDを買ったことがないために、図書館で見つけたときには借りておこうと決めていたので借りましたが、結論を先に言えば、やはり素晴らしい演奏だと思います。

ですが、いろいろ気になった点もあるのです。とりあえずウィキの説明を上げておきましょう。

ja.wikipedia.org

これはボストン響との演奏ですから、おそらく録音されたのは1962年~1969年の間、ということになろうかと思いますし、元々の音源はおそらくRCAではなかったかと思います。借りてきたときにどこのレーベルだったかなんて、つい最近ではない限り覚えていないものです・・・・・

であれば、「演奏家や管理者と揉めることもしょっちゅうであった」という期間であった、ということになろうかと思います。ここでいう「管理者」とは具体的にはボストン響のどこを指すのかが、ちょっとわからないのです。

辛口批評で有名であったわけですから、まあ、演奏家ともめることもあるでしょうよとは思うんです。それが原因で管理者ともめるのだろうなあ、と。しかしこの演奏をよく聴きますと、揉めていたのは本当は演奏家とかではなく、RCAのレコーディングエンジニアだったのでは?という気がするのです。

今回も、ソニーのMusic Center for PCにおいてDSEE HXを動作させて、ハイレゾ192kHz/24bit相当で聴いています。そうしますと、1960年代の録音にしては非常に自然な録音であることに気が付かされるのです。

いや、マイクは複数置いているようにも聴こえますのでその意味で自然とはいいがたいかもしれません。しかしながら、高音部を必要以上にいじくるなどの工作はしていないように聴こえるのです。これはほかの60年代あたりの録音とは違う特徴ではないかという気がするのです。

動作させてすぐ臨場感のある空気が漂い始めるのです。これはむしろ、さほどいじくらずとにかくできるだけその場を記録しようというエンジニアの魂すら感じられるものです。しかし当時のレコーディングではできるだけ自然な印象を与えるには高音部や低音をイコライザでいじくり倒すのが通例です(だからこそ、疑似ハイレゾはそこのデータを再現することにリソースを投入します)。それにこの録音は反しているのです。

となると、まず真っ先に衝突するのは、指揮者とレコーディング・エンジニアのはずです。ですので、実はレコーディング・エンジニアとこそ揉めていたのではないかと、疑問を呈したというわけなのです。

しかし、そんな記述はウィキにはありません。となれば、揉めるも何も、おそらくRCAのエンジニアと衝突をすでに以前しており、ラインスドルフがボストン響の音楽監督に就任するとき、条件としてRCAのエンジニアを自分好みに入れ替えてほしいとの要望を出したのではないかと想像するのです。それならば、「管理者」と当然揉めるわな、と思います。そしてその結果として、この60年代の録音としては非常に自然に聴こえる、素晴らしい演奏に結実したのではと思うのです。

つまり、ラインスドルフはカラヤン以上にステレオ録音の可能性を信じた人だったとも言えるのではないでしょうか。だからこそカラヤンとは逆に、必要以上にいじくらない録音を目指したのではないでしょうか。第九で自然に聴こえるということはおそらく、他の作品の録音では全くと言っていいほどレコーディングエンジニアがいじっていない可能性が高いのです。もちろんそれは、レコーディングエンジニアが曲に対して深い理解がある、ということに他ならないのですが・・・・・

いじっていなくても、演奏でもってきちんと作品の生命力を引き出すことができる・・・・・そう信じた人であったろうと想像します。そしてその信念は第九においてただしい選択である、と私は思うのです。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
ジェーン・マーシュ(ソプラノ)
ジョセフィン・ヴィージー(メッゾ・ソプラノ)
プラシド・ドミンゴテノール
シェリル・ミルンズ(バリトン
プロ・ムジカ合唱団(合唱指揮:アルフレッド・ナッシュ・パターソン)
ニュー・イングランド音楽院合唱団(合唱指揮:ローナ・クーク・ヴァロン)
エーリヒ・ラインスドルフ指揮
ボストン交響楽団

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東京の図書館から~府中市立図書館~:「炎のコバケン」が振る第九CD盤をハイレゾ相当で聴いてみる

東京の図書館から、今回は府中市立図書館のライブラリである、小林研一郎指揮日本フィルハーモニー交響楽団の演奏によるベートーヴェン第九の演奏を収録したアルバムをご紹介します。

と行きたいところだったんですが、実はこの音源、すでに「今月のお買いもの」コーナーとして、2020年2月1日にエントリを立てています。

ykanchan.hatenablog.com

実は、その2か月も前に、府中市立図書館で借りていたことをすっかり忘れておりまして・・・・・いやあ、やっちまったなあと気づいたときには思わず声を上げてしまいました。うっかり八兵衛、ここにありですw

ですから、大体のところは上記エントリと変わらないんです。最後に演奏者等をいつもの通り記載しておきますので、同じであることを確認していただければと思います。

では、なぜわざわざまた取り上げるのか。以前、私が言ったことを覚えておいででしょうか。もしCDがあるんだったら、同じ演奏ならハイレゾ音源を買うのは待ってください、もしかすると疑似ハイレゾでも満足できるかもしれません、と。

折角府中市立図書館にあるんです。近辺2市である小金井市西東京市にお住まいの方は相互利用で府中市立図書館を利用できます。仮に店頭に無くても、府中市立図書館に行けばあるわけで、借りてきてリッピングするという方法があります。

そしてそれは、PCを持っていてPCで音楽を聴くということが可能であることを意味していますから、接続しているスピーカーがハイレゾ対応であれば、音楽アプリとしてソニーのMusic Center for PCを使えば、DSEE HXを動作させることによりハイレゾ192kHz/24bit相当で聴くことができる、ということを意味するのです。

ならば、このコバケンのタクトである演奏をハイレゾで買うのは待ってください。もしかすると、そん色ない演奏を楽しめるかもしれません。

結論を申し上げます。待っていただいて結構です。是非とも音楽アプリとしてソニーのMusic Center for PCをDLしていただき(それは無料でできます)、府中市立図書館で借りてきてリッピングしてみてください。上記エントリ同様、コバケンさんのうなり声と、それとともに熱くなっていくオーケストラ、そして合唱の様子が手に取るように分かるはずです。

そして、臨場感もCDをハイレゾ相当にしたのは、ハイレゾそのものと大して差がありません。ならばわざわざハイレゾにする必要はない、と言えるかと思います。ですが・・・・・

当然、店頭をどう探してもないよ、府中市の近辺に住んでいるわけでもないし、わが市の図書館は貸し出しもしていないし貸し出しているようだけどライブラリにもない、というケースもあるでしょう。そんなときはe-onkyoを覗いてみてくださいませ。同じような素晴らしい演奏が、ハイレゾとして楽しめます。

どちらを取るのかは、読者の方の自由ですが、店頭でCDを見かけた、あるいは店頭にはないんだけど府中市西東京市、あるいは小金井市に住んでいるんだけどというのなら、特段ハイレゾで購入する必要はありません、と言いたいのです。技術は進んでいるので、疑似ハイレゾでも十分楽しめます、ということです。

これはレコード会社に喧嘩を売りたいということではなく、給料も上がらず値上げラッシュで必要経費だけは増えていく、という多くの人にとって、別にハイレゾじゃなくても楽しめますよ、と言いたいわけなんです。ハイレゾ相当で楽しむこともできますし、ハイレゾではなくCDでも、コバケンさんのうなり声が聞こえるだけでも笑ってしまい、気が付けば演奏に感動している自分がいるはずですと言いたいのです。

それはCDならどちらでも楽しめるじゃないですか、しかもそれが図書館にあるのなら、買う必要すらありませんよ、と。それが図書館の使命です。もしこのエントリが喧嘩を売っていると感じるのなら、待ってください。それはむしろ、給料が上がらないのに値上げを耐え忍んでいる庶民をいじめている、各セクタをまず批判してくださいと言いたいのです。お金を持っている人ですらなかなかハイレゾに移行しないのはそのためにある一定額投資する必要があるためです、この値上げラッシュのタイミングで、です。そんな人たちに、ハイレゾを「買いなさい!」ということは私はできません。提案することまでです。そしてそのためにできるだけ安く済ませようと実践し、紹介のエントリも立ててきています。私にできるのはそこまでです。

ですから、レコード会社に喧嘩売りたいんじゃないんです。喧嘩売るならそもそもハイレゾなど買っていません。CDだけにしています。しかしそうはしていません。棚が入らない・・・・・そんなことをきっかけに、ではCDを買う代わりにハイレゾを購入してみよう、それなら場所取らないしね、ということで始めています。そんな理由でいいと思うんです。けれどもそんなケースでも、必ずしもハイレゾ音源を購入するという選択をしなくても、いい音質を楽しめる簡便なすべはある、それで人生楽しみましょう、と提案しているにすぎません。図書館になくて店頭にあるのなら当然レコード会社の「CD」を買うでしょう。それでも売り上げにはなるはずです。ですから全然レコード会社に喧嘩を売っているわけではないんです。でもこのご時世ですから、図書館がCD貸し出しを実施していて、ライブラリに該当の音源があるのなら、それを感謝して使わせていただきましょう、ほかの音源はDLだったりCDを買ったりするかもしれませんから、ということなので、全く喧嘩するつもりはありません。勿論要望はしますが・・・・・

そもそも、図書館に購入してもらった時点で、広く聴いてもらえることを期待してその売り上げを受け入れているはずですし、一般の人が購入するよりも下手すれば高い値段で図書館に買ってもらっているはずです(府中市立図書館ではそのような説明を受けています)。ですから喧嘩を売るとか買うとか、そんなことは全くないわけです。これは読者の方も勘違いしてほしくないので、言及しておきました。

折角図書館にあるものは、「感謝して使わせていただき」、その果実をありがたく頂戴したいとおもいます。そのチャンスを、私はこの音源に関してはしていたにも関わらず、忘れてハイレゾを買うという、ある種もったいないことをしてしまいました。けれども、そのおかげで比較もできます。今では、借りることができたことも、リッピングできたことも、そして借りてリッピングしてあることを忘れて、ハイレゾを購入してしまったことも、すべて感謝しています。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
菅英三子(ソプラノ)
秋葉京子(アルト)
錦織健テノール
青戸知(バリトン
東京藝術大学声楽科有志
小林研一郎指揮
日本フィルハーモニー交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

音楽雑記帳:ロシアン・クラシックは悪者か

音楽雑記帳、今回はロシアのクラシック音楽について言及したいと思います。

2月に始まった、ロシアによるウクライナ侵攻。私はあえて「ウクライナ事変」(プーチンが「特別軍事作戦」と言及しているため)と個人的には呼んでいるのですが、なかなか終わりが見えてきません。

実質的には戦争であるわけで、だからこそたいてい文化が犠牲になるものです。シナ事変、つまり日中戦争でも同じことが起こりました。そしてこのウクライナ事変でも同じことが起こっています。

確かに、プーチンが起こしたこの「戦争」であるウクライナ事変を、私は容認することはできませんし、そのための制裁も擁護します。だからと言って、ロシアの芸術、特にクラシック音楽を犠牲にするのはどうかと思います。

もちろん、感情的に仕方ない部分もありますが、しかしウクライナクラシック音楽の芸術家の意見に耳を傾けると、意外にも戦争が終わったらチャイコフスキーとか演奏してみたいという意見が多いのです。チャイコフスキーも「1812年」を書いていることは知っているはずなのに、です。

むしろ、ロシア国民には、ロシアの芸術をこれだけ愛しているのに、なぜプーチンはそれを破壊するようなことをし続けるのだ、という明快なメッセージになるのに、残念なことをしていると思っています。

そして忘れてはならないのが、この「事変」でウクライナ人だけでなく、多くのロシア人もまた、国外へ脱出し、移住しています。その一部はこの日本にも来ているのです。そのロシア人たちは私たちがウクライナ人へ同情して助けているのと同じように、同情し手助けしています。しかしそれでもなお、在日ロシア人たちと、ロシアの芸術に対する差別は収まりません。

ヨーロッパでも、排他されているのはプーチンに近い人たちです。だからこそ私はそれは仕方ないことだと思っています。しかしプーチンからは遠い人は結構残っていたりしますが、残念ながら海外でもロシア人というだけで差別している人たちが大勢います。そして自分たちもかつてヨーロッパやアメリカで差別されたにも関わらず、尻馬に乗って在日ロシア人とロシアの芸術を差別する人たちが、この国でも左右の別なくいるのは大変哀しく、そして嘆かわしいことだと思います。それはプーチンのいう「ウクライナからネオナチを掃討し、ウクライナ人を開放する」という言い分を強固にする手伝いをするだけです。

私はプーチンがどんなに「ネオナチからの解放」と唱えても、戦場でロシア軍、あるいはFSBが何をしているかを想像した時、それはかつて我が国が「ヨーロッパからアジアを開放し、大東亜新秩序を建設する」と言って実際にはできなかった、あるいは場所によってはその気すらなかったこととオーヴァーラップしかしません。その結果、日本は他国の文化を踏みにじっただけでなく、自国の文化も破壊してしまったのです。それとおなじ道をロシアが歩んでいるとしか見えません。

そしてそれは、ロシアン・クラシックを愛する私としては、残念を通り越し怒りしか湧き上がってきません。かつて優れたクラシック芸術が戦前にはあったにも関わらず、それを演奏禁止にまで追い込んだのはほかでもない私たち日本人です。そうじゃないと私たち自身が生きることができず、社会や文化の再構築ができなかったからです。

その歴史を知っているからこそ、ロシアン・クラシックも同じ道をたどるような気がして、私には不安しかないのです。私の力など微々たるものですが、我が国のクラシック音楽が再興したように、ロシアン・クラシックをなんとしても守りたいと思うのです。

そのために皆様にお願いするのは、まず少なくともプーチンの政策に不満とそれゆえに将来が見えないがために我が国へと逃れてきた、ロシア人たちを、ウクライナから避難してきた人たち同様に保護して、共に彼らの文化・芸術を守る運動をすることです。差別をしないことをお願いします。そしてこの国ではロシアン・クラシックも演奏可能なのだ、ということを内外に示しましょう!ロシアという国は他国を平気で踏みにじり、自国の文化さえ破壊しようとしていることを、内外に示すのです。その第一歩は、在日ロシア人たちへの差別をなくすことです。

クラシック・ファンの方々であれば、ロシアン・クラシックにも優れた芸術があり、魂に喜びを与えてくれて、楽しませてくれるものだと知っているはずです。それならば、プーチンと距離さえとっていれば、ロシアの芸術を愛するロシア人を差別せず、愛することは可能のはずではないでしょうか。

悪いのはプーチンFSBたちであって、多くの在日ロシア人たちではないはずです。是非ともその「境界線」を引いていただきたく、御願い申し上げます。そしてその「境界線引き」がわが民族ができるようになれば、日本はもっと国益を守ることができるであろうと、私は信じてお願いするものです。

まさに「伏してお願い申し奉る」、です。

 


地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ヴァイル 7つの大罪他

東京の図書館から、今回は府中市立図書館のライブラリである、ヴァイルのバレエ音楽7つの大罪」ほかを収録したアルバムをご紹介します。

ヴァイルは何度か紹介している作曲家ではありますが、まだ我が国では「ヴァイルって誰?」というひとも多いので、解説をば。20世紀のヨーロッパを中心に活躍した作曲家で、20世紀における批判精神を持った作曲家の内の一人に数えられます。

ja.wikipedia.org

最も有名なのが「三文オペラ」や「マホガニー死の興亡」と言ったオペラで有名な人ですが、我が国ではアメリカ非難と取られているような傾向があります(決してそれが間違いではないんですが)ので、あまり有名ではありません。

彼の批判精神による作品の一つが、ここに収録されている「7つの大罪」です。バレエなのですが歌も合唱も入るという、多少奇妙な作品なのですが、あえてパントマイムではないというところに、ヴァイルと共同制作に携わったブレヒトの意図が見え隠れします。

この作品、1933年にパリで発表されました。ナチスの足音が聞こえてくる中で作曲されたこの作品、あえてアメリカという資本主義の権化のような場所が舞台として描かれています。そのうえで「7つの大罪」という題名なのは当然ですが、キリスト教の「7つの大罪」をモティーフにしています。この点がいろんなエントリでは抜け落ちて居るように思われます。

ja.wikipedia.org

もちろん、大まかなところでは資本主義への批判であるのですが、しかし、この作品を書いたパリが首都であるフランスも、同様に資本主義の国です。ということはフランスも当然その批判に入って可笑しくないはずですが、ではなぜアメリカという国を舞台としているのでしょうか?

こういう時は、歌詞を見てみるのが最も早いのです。

w.atwiki.jp

歌詞を見ると確かにアメリカが舞台ですし、資本主義を皮肉っている内容です。しかしこれはレトリックなのです。私としてはこの作品、あるいは同じようにアメリカを舞台としたであろう「マハゴニー市の興亡」は、アメリカ資本主義批判というよりは、アメリカを代表するポピュリズムが生み出した、ナチス、つまり、ドイツ社会主義労働者党をこそ、批判していると考えていいと思います。

なぜ、社会主義という名前があるのに、ナチスは台頭したと思いますか?実際には社会主義者共産主義者ユダヤ人と同時か次くらいのタイミングで強制収容所に送られ、ガス室で殺されたのです。それはどうしてだと思いますか?それはドイツの民族系資本家たちが、ナチスを支持したからであり、それによりナチスはドイツの富国強兵によるワイマール体制からの復興を成し遂げたからです。つまり、ドイツの民族系資本家たちにとって最も邪魔だったのが、知識人が多く資本家としても成功しているユダヤ人と、その資本の蓄積を弱者への配分を要求する社会主義者共産主義者だったのです。だからナチスはその資本家たちの「要求」に基づきユダヤ人や左翼たちを「抹殺」したのです。

しかし、それをすぐドイツと分かるように書いてしまうと、たとえ外国でさえ、ナチスに目を付けられ、捕縛され、強制収容所に送り込まれる危険性がありました。そのためあえて自分が批判的に思っていたアメリカ式自由と資本主義という舞台を借りたのだ、と私は解釈しています。実際ナチス・ドイツ社会主義の仮面をかぶった資本主義国家でした。その膠の役割りを担ったのが、ナチスのドイツ千年王国という「夢」だったのです。

ドイツ民族系資本家たち自身にも怠惰な部分もあるにもかかわらず、勤勉さを国民に求め、勤勉さに欠けていると判断されたユダヤ人や社会主義者共産主義者が数多く強制収容所に送られ、殺される現実・・・・・それはアメリカの白人キリスト教自由主義と資本主義と同じではないか、という批判なのです。特にヴァイルやブレヒトは左翼の考え方を持った人間たちでしたから、余計その欺瞞に対する不満、そして批判は大きかった事でしょう。

だからこそ、とても奇異な作品であるにもかかわらず、この作品の評価は意外と欧州では高いのです。それは平和だと思える現代でも存在するという普遍性を持つが故であることにほかなりません。その欺瞞をわかりやすくするため、あえてパントマイムではなく歌を入れたバレエだった、というわけです。本来自己が確立している資本家なら、ひとりの人間としておかしいことがわかるでしょ?と気がつかせるため、その資本家の象徴であるバレエという「装置」を使ったと考えれば、すべてが符合します。

そもそも、アンナという女性の外面と内面とに分けて、そのうえで同じ人間に歌わせるというのも、欺瞞に対する批判としての装置として納得がいきます。一見すれば奇異に見えるこの作品は、すべてにおいて必然性を持った作品であり、そして現代においてもそのテーマ、批判が通用してしまうという普遍性を持っている作品なのです。

演奏するキャストを見ても、アンナを表現するソプラノ、ジュリア・ミゲネスはそもそもクラシック畑ではなくブロードウェイのミュージカル女優です。しかしその歌唱力と演技力は、ヴァイルが作品に込めた欺瞞を十二分に表現していると言えますし、そのほかのソリストたちも、欺瞞を引き立てる素晴らしい仕事をしています。この手の批判的作品を降らせればぴか一である指揮者マイケル・ティルソン・トーマスのタクトも、オーケストラに生命讃歌を歌わせ冴えていますし、生命を感じるからこそ、作品が持つどこか生命などを顧みないような欺瞞をさらに引き立てます。

ウクライナへ侵攻したロシアや、NATO、そして日本などの現実を見てみれば、これほど現代を皮肉って歌い上げている作品もない、と思います。それを引き立てる、ティルソン・トーマスのタクトと名門ロンドン響の表現力と素晴らしいサウンド・・・・・どれをとっても上質の大河ドラマだと思います。ええ、今年の「鎌倉殿の13人」に全く引けを取りません。是非ともお聴きいただきますよう。

 


聴いている音源
クルト・ヴァイル作曲
7つの大罪
小さな三文音楽(管楽オーケストラのための組曲三文オペラ」)
ジュリア・ミゲネス(ソプラノ、アンナⅠ&Ⅱ)
ロバート・ティアー(テノール
スチュアート・ケイル(テノール
アラン・オビエ(バリトン
ローテリング・ケネディ(バス)
マイケル・ティルソン・トーマス指揮
ロンドン交響楽団(及び管楽メンバー)

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東京の図書館から~府中市立図書館~:カイベルトとN響の第九

東京の図書館から、今回は府中市立図書館のライブラリである、ヨゼフ・カイベルト指揮NHK交響楽団他の演奏による、ベートーヴェンの第九を収録したアルバムをご紹介します。

ある年齢以上の方なら、懐かしい名前ではないでしょうか。ドイツの名だたる歌劇場でタクトを振り、実直な音作りで日本でもファンが多い人です。

ja.wikipedia.org

カイベルトは3度日本に来ており、そのうちの1965年に年末の第九特別演奏会を振ったものを録音したのが、この演奏になります。私もカイベルトの名前は知っていたのですが、そのタクトから紡ぎだされる演奏を聞いたことはなかったので、この演奏を借りたのでした。特にこういう古い演奏は府中市立図書館のライブラリの特徴で、神奈川県立図書館に比肩するものです。多摩地域の市立図書館でというのが凄いところで、やはり首都東京は違うと認識させられるところです。

演奏は確かに奇をてらうものではなく実直そのものなのに、なぜか熱いものがこみ上げてくるんです、不思議ですが。エネルギー満載といった感じで、N響も引きずられて素晴らしいパフォーマンスを出しているように思います。

最もうなったのが、常に私が気にする第4楽章Vor Gott!の部分。漫然と聴いていますとvor一拍にGott!5拍の変体演奏に聴こえるんです。しかし実直な音作りをするカイベルトがそう意味もなく奇をてらうことである変体演奏をするはずがありません。実際にはテンポが速いだけでvor1拍にGott!6拍と普通の演奏なのです。

全体的にもそれほどどっしりというか、重々しいものは感じず、むしろ重厚さを維持しつつも前進力を解釈の中心に据えています。ですのでとても速さを感じますし、そのうえで重厚さも感じるという素晴らしい演奏になっています。それにN響がついて行っているのも素晴らしいです。この時代の日本のオケでは奇跡かもしれません。

ロケーションは東京文化会館。まだNHKホールがない時代です。ライヴ録音となっており、その熱気も伝わってくるようです。

さて、この録音もソニーのMusic Center for PCで聴いています。幸い曲順を調整する必要はなく助かりました。そしていつもの通りDSEE HXを動作させてハイレゾ192kHz/24bit相当で聴いていると、本当にホールで聴いているかのような空気感が伝わってくるのです。これはソニーの技術もさることながら、もともとのレコーディング技術の高さを意味します。おそらくライヴ録音で、NHKで放送したはずですから、余計なものがついていないはずなんです。それでその空気感・・・・・当時のレコーディングエンジニアの魂も感じます。この素晴らしい演奏をなんとかライヴ感あふれるものとして届けたい・・・・・

1960年代の日本は、そういう実直な人が多かったように思います。すべての面において実直さが詰みあがったゆえの、奇跡の演奏と録音・・・・・今の日本でも十分通用する、普遍性を持つ音源だと思います。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱つき」
伊藤京子(ソプラノ)
栗本尊子(アルト)
森敏孝(テノール
大橋国一(バリトン
東京放送合唱団
国立音楽大学
ヨゼフ・カイルベルト指揮
NHK交響楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

音楽雑記帳:実は簡単だった、ソニーのMusic Center for PCの曲順調整

音楽雑記帳、今回はソニーのパソコン用音楽再生アプリ、Music Center for PCについて取り上げます。

何度か、エントリ中で「曲順が」と私は言及してきたでしょうか。もう絶望的になってもいたのですが・・・・・

ひょんなことから、その解決法を見つけることができたのです。これをわかっている人が、一体どれくらいいるのかとかんがえたとき、このエントリを立てることを決めました。

大抵の音楽再生アプリは、自動的に何かに紐付けされて、正しい曲順に並ぶことが多いのですが、ソニーのMusic Center for PCはどれに紐付けされているのかがいまいちわかりにくいアプリです。ですが、仮に曲順がおかしくなった時、見るべき項目があるのです。

それは、「曲番号」の項目。実はこのアプリ、PCに慣れている方ならわかればそうだったのか!と目からうろこなんです。この「曲番号」をクリックすると、その番号を昇順(番号が小さいものから大きい順)で鳴らすか、降順(番号が大きいものから小さい順)で鳴らすかを選択できます。山のように見える矢印の、先の方が上を向いているときは昇順、下を向いているときは降順で鳴らしてくれます。

そしてもし番号が乱れたとき、この「番号順」を「昇順」、つまり山の形をした矢印の先を上のほうに設定してあげれば、1番から順に鳴らしてくれますので、正しい順番で演奏してくれます。

これ、パソコンだとファイルの整理で使う機能です。つまり、このアプリはwindowsPCの一つの機能として扱うと、非常に便利だということなんです。それに気づくまで、1年以上の月日を費やしてしまいました・・・・・

いくつかの批判的なエントリもある中で、この機能に言及しているものはあまたエントリある中で一つもないんです。おそらく使いこなせていないのでは?という気がします。というか、悪く言われてしまっているのでソニーがもっと早く「このようにすれば解決しますよ」という説明をすべきだったと思います。おかげで私もちょっとソニーに対して疑心暗鬼になりかけたじゃないですかー!もう。せっかくファンなのに。

曲順が乱れているときは、ほかの何かの紐付けが優先されていて乱れているんだと思うんですが、その時「曲順を優先させて!」とこちらで指定できるのは非常に魅力的で、助かります。これなら、foobar2000など要りません。Music Center for PCだけで十分です。音質もfoobar2000よりいいですしね。これならさすがソニー!と膝を打てます。

私も曲順が乱れるというのは経験としてないわけではなかったのですが、いままでの経験が通用しなかったのでほとほと困り果てていました。しかしアプリ側で簡単に調整できるのであれば、もう迷いはありません。ソニー一択です。ほかを使う必要はないと言っていいでしょう。特に聴いている音源がクラシックなら・・・・・foobar2000は何もかも自動でやってくれますが、一つ欠点は、flacだと96kHzまでしか再生できず、192kHzはダウンサンプリングして再生するという点です。

しかし、ソニーのMusic Center for PCなら、flacなら192kHzまで許容されますので、ダウンサンプリングということはそうそうありません。なのでPCで音楽を聴くなら、どんなジャンルであっても私ならソニーのMusic Center for PC一択です。これほど音質においてバランスのいいアプリもないですし。

ソニーさん、もっとこのアプリの機能、宣伝と説明したほうがいいように思います。せっかくの素晴らしい性能が台無しになっているように見えるのです。それはソニーファンとして、哀しいことです。是非ともこのエントリに頼らず、ソニーさんで説明をしていただけたら嬉しいです。

まあ、詳しくはこのブログにて説明されていますということで、このブログのこのエントリのURLをサイトにコピペされてもいいですけれどね。別にこっちもボランティアでやっているようなものなのでお金をとろうとか考えていませんので、その際は引用していただいて構いません。この素晴らしいアプリが世に広まるなら、どんなことでも致しましょう。

 


地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。