かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:プロコフィエフ ピアノ・ソナタ全集3

東京の図書館から、3回シリーズで取り上げております、府中市立図書館のライブラリである、プロコフィエフのピアノ・ソナタ全集、今回はその最終第3集を取り上げます。

第3集には、第8番と第9番が収録されています。なお、プロコフィエフはピアノ・ソナタを第10番まで手掛けていますが、未完に終わっているため、この全集には入れられておりません。

第8番は「戦争ソナタ」3部作の最後の作品。1939年に着手されましたが、完成は1944年。出版は1946年です。構想段階とはかなり構造が変わってしまった作品です。それは、戦争の推移に従って、社会の変化もあったのかもしれません。

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初演はギレリスによるもので、ギレリスはかなりの高評価をしています。確かに、ベートーヴェンを想起する一方で、荒々しさも感じる和声は魅力的。不協和音が響くのに、実に人間的な内面性を持つ作品だと思います。

一方の第9番は、プロコフィエフがたどり着いた簡素化が反映された作品ですが、それでも内容は充実しており、魅力的な作品です。

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第8番が三楽章で、第9番が4楽章なのは理由はわかりませんが、私は第2次世界大戦が影響したと考えています。特に、第8番が最初の4楽章から3楽章に変更になり、調性も短調から長調に変更されていることを考えますと、対独戦の推移が影響したと考えられます。特に、レニングラード包囲戦終結し、ソ連がドイツに対して攻勢に転じたことが、大きく影響したことは想像に難くありません。第8番が3楽章制で「自由」を想起するものである一方、第9番が4楽章制なのも、戦争が終わり解放されて、落ち着いたということを暗示しているとという解釈も十分成り立つでしょう。

演奏するのは、この第3集でもニコライ・ペトロフですが、録音もまだソ連時代でメロディア。それゆえなのか、特に第8番においては第1楽章はゆったり静かに入る一方、第3楽章に向かうにつれ、演奏がヒートアップしていくのがはっきり聴き取れます。それを考えても、第8番はロシアの演奏家にとっては、祖国の歴史を十分すぎるほど踏まえた作品であり、歴史を想起させることから逃れられない作品だとも言えるのではないでしょうか。

勿論、メロディアですから、当然ですがプロパガンダが反映されているわけですが、ゆえにその演奏には、どうしてもある程度の歴史的視点が入ってしまいがちだとも言えるでしょう。同時に、そこに演奏者の気持ちも入っていくわけです。演奏者は人間であり、決してAIではないので。

こう見てみると、メロディア・スタジオでの録音だからと言って、聴く価値がないわけでは決してないわけです。演奏のなぜを知るためには、歴史を踏まえる必要があり、その歴史をしれば、納得するというわけです。ただ、納得したからと言って、それを支持できるかは別問題ですが。特に、今日の日ロ関係を鑑みれば・・・

それでも、相手は人間であるという視点は持っておかないと、戦火を交えるという結果につながるのではないでしょうか。戦後の東西冷戦期間は、確かに不幸な時代でしたが、一方で戦火を交えず「冷戦」で済んでいたという点も見逃せません。それは、実は双方が相手が人間であるという共通認識に立っていたからこそではないでしょうか。このペトロフの演奏を聴きますと、昨今の紛争で相手を人間扱いしていないことに、強烈な危機感を私は覚えずにはいられないのです。そういう時こそ、芸術の出番だと思うのは私だけなのでしょうか・・・

 


聴いている音源
セルゲイ・プロコフィエフ作曲
ピアノ・ソナタ第8番変ロ長調作品84
ピアノ・ソナタ第9番ハ長調作品103
ニコライ・ペトロフ(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。