かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ヤナーチェク ピアノ作品集

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、ヤナーチェクのピアノ作品集を取り上げます。

ヤナーチェクチェコの作曲家です。チェコと言っても、当時はモラヴィアといい、チェコ東部の地方になります。ブルノがある地方と言えば、ピン!と来る人もいらっしゃるかもしれません。

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そもそもは、チェコの中でもモラヴィア王国だったことから独自の文化を持っています。グラゴール文字という独自の文字を持っていたことでも知られ、ドヴォルザークの「グラゴル・ミサ」を知っているかたであれば、ドヴォルザークと同郷と気づくことでしょう。勿論、この二人は友人です。とはいえ、音楽の方向性は異なります。

ヤナーチェクはより民族的な音楽を書きました。そのうえで、自らの内面を表現する音楽が、ピアノ作品だと言われます。ヤナーチェクのピアノ作品に以前から興味を持っていたので、借りてきたというわけでした。

まず、1曲目は「ズデンカ変奏曲」。栄えある作品1です。これはドイツ的な主題と変奏がなされる曲で、ヤナーチェクがドイツへ留学していた時に作曲されたものです。この時、ヤナーチェクはズデンカ・シュルツォヴァーという女性と仲良くなり、その女性を想って作曲したのがこの作品です。

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ドイツロマン主義に満ちた作品ですが、一方でこのロマン派様式に触れたからこそ、ヤナーチェクパトリオティズムが生まれたとも言われています。国民楽派とは、ある意味ドイツ後期ロマン派の一様式とも言えます。ただ、ドイツ的な価値観からは距離を取るというのが特徴です。それは当時ヨーロッパに勃興していた国民国家の価値観に由来するもので、ある意味複雑なのですよね。その複雑さを単純化するのは危険だなあと私は考えています。簡単に説明するためには、複雑な国際情勢が絡み合っていると説明するほうが、本質を理解しやすいと思いますので私は今回そう書くことにしています。

続く2つはピアノ小品集の「草かげの小径にて」。第1集と第2集の二つ全曲が収録されています。第1集には標題がついており、第2集には指示表記が記載されています。これは出版年の違いによるもので、第1集はヤナーチェク生前の1908年に、第2集は死後の1942年に発表・出版されています。どちらも夭折したヤナーチェクの娘オルガの追悼のために作曲されました。

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そもそもは、第2集も含めて1911年には完成していましたが、その当時は出版されていたのは第1集の10曲のみ。そのため、死後出版された第2集においては、表題がついていないということなのですが、恐らく、第1集の標題は出版するときに付けたのでは?という気がします。ヤナーチェクの中にはある程度のイメージがあって作曲したのだと思いますが、正式な標題は作曲時付けていなかったのが第2集の作品群だと言っていいでしょう。

続くのが、ヤナーチェク唯一のピアノ・ソナタである、「1905年10月1日、街頭から」。たぶんに民族意識が強い作品であり、ゆえに出版まで複雑な経緯をたどった作品です。1905年に発生した、チェコ人青年の射殺事件が基になっています。

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注目すべきは、2楽章であると言うこと。4楽章でもなく、3楽章でもないという点が重要だと私は考えます。4楽章となれば多分にドイツ的ですし、3楽章だと「自由」を暗喩するのですが、その自由もない。故にそれ以外の楽章数を選択せざるを得なかったヤナーチェクの心情が見て取れます。ここで言う「ドイツ的」というのは、ヤナーチェクが生きた時代のドイツ的という意味であって、ベートーヴェンなどを必ずしも指すわけではないと私は判断しています。なぜなら、ではなぜ2楽章という、ベートーヴェンがピアノ・ソナタで用いている楽章数をヤナーチェクは選択したのかで、整合性が取れないからです。

つまり、ヤナーチェクパトリオティズム(あえて私は「愛国主義」という日本語を使いません。なぜなら、言葉としては国家主義愛国主義は異なるのですが、我が国においては同列に置かれるからで、私はそれに異を唱えるからです)はベートーヴェンの自立した作曲家という「個人の自由」の思想に立脚すると考えるからです。この辺り、理解できていない人は多そうですね。国連の常任理事国であるとあるスラヴ民族の国家元首が正しいとか言う人たちとか・・・

その「個人の自由」の延長線上に、ヤナーチェクの「国家の自立と自由、尊厳」はリンクしているように思います。おそらくですが、ヤナーチェクが生きた時代も、そんな民族主義の勃興の中で、。同じパトリオティストの中で対立があったのだろうなあと想像します。

その次に収録されているのが「霧の中で」。すでに齢60近くになりベテランの域に達したヤナーチェクですが、その名声という意味では不透明さがあった時期に作曲された作品です。まさに自分自身を取り巻く状況が「霧」に近いと考えていたことがうかがえ、ストレートな作品だとも言えます。

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ピティナでは内面の吐露という面では弱いと記載がありますが、その弱弱しさと気品こそ、ヤナーチェクのメッセージだと私は受け取ります。故に、ヤナーチェクの内面が強く浮かび上がるように感じるからです。自らの弱弱しさにしっかり向き合い、それでも希望を捨てないヤナーチェクの内面が見えるのです。

最後の曲が「思い出」。ここではあまり民族的な強さはありませんがかといってドイツ的でもない、ヤナーチェクが到達した一つの境地が詰まっている作品ではないでしょうか。作曲年は1928年。この年、ヤナーチェクが亡くなっていることを考えますと、自分の人生の振り返りだとも考えられます。

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演奏するのは、ルドルフ・フィルクシュニー。彼はモラヴィア出身のピアニスト。故に、ヤナーチェクの作品の演奏に最適だと言えます。しかも、フィルクシュニーはヤナーチェクの弟子でもあります。

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このアルバム全体としては、歌いすぎず、しかし楽譜から作曲家の内面を掬い取るような演奏をしています。のめり込みすぎず、冷静に楽譜と向き合いながらも、自らの情熱と楽譜との整合性を計っているかのように見えます。故に、作曲者が作品に込めた喜怒哀楽が、自然と浮かび上がるようです。ヤナーチェクという人間を知っているからこその表現は、実に繊細かつ力強さを持ち、私の魂を揺らします。そして、ヤナーチェクもまた、私にとって仲間なのだと知らしめてくれるのです。私も仲間なんです、あなたもでしょ?と軽くウィンクしているかのよう。

それは、やはりフィルクシュニーが望んでヤナーチェクの弟子になったということが背景にあるように思います。フィルクシュニーは単にヤナーチェクに憧れて弟子になったのではなく、仲間だと思ったからこそ弟子になったと私は感じるのです。その強い関係性が、フィルクシュニーにとって表現の基礎ではないかと思います。故に、演奏が魂を揺らすのだと思います。

ヤナーチェクはどうしても同じチェコの作曲家だとドヴォルザークスメタナ、マルチヌーと言った作曲家の陰に埋もれがちですが、こう聞いてみますと、どうしてどうして、はっきりと並び立つ作曲家であると言えるでしょう。この点でもやはり、私が以前から貫き通している「あまり聴いたことがない作曲家の作品はまず室内楽から聴いてみるべし」が適切であることを強く感じるものです。

 


聴いている音源
レオシュ・ヤナーチェク作曲
主題と変奏(ズデンカ変奏曲)
ピアノ小品集「草かげの小径にて」第1集
ピアノ小品集「草かげの小径にて」第2集
ピアノ・ソナタ「1905年10月1日、街頭から」
霧の中で
思い出(1928)
ルドルフ・フィルクシュニー(ピアノ)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。