かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

コンサート雑感:バッハ・コレギウム・ジャパン ドイツ・レクイエムを聴いて

コンサート雑感、今回は令和6(2024)年1月19日に聴きに行きました、バッハ・コレギウム・ジャパンドイツ・レクイエムのレビューです。

バッハ・コレギウム・ジャパンのコンサートに足を運んだのは、実に3年ちょっとぶりになります。その前は、2020年の年末に第九を聴いたときです。会場はおなじみの東京オペラシティコンサートホール。

コロナ禍でコンサートがなかなか開催できなかったり、私自身が難病になって経済的に苦しくなったこともあり、バッハ・コレギウム・ジャパンの演奏会はかなりハードルが高くなってしまったのですが(チケット代が高いため)、しかし今回足を運んだ理由は、そのプログラムがブラームスの「ドイツ・レクイエム」だったから、です。

バッハ・コレギウム・ジャパンの守備範囲の時代は、今までは古典派までです。最も新しくて、ベートーヴェンの第九です。ここまではある程度バッハの時代を想定したピリオド楽器でも演奏可能だと思います。しかし、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」となると驚かざるを得ません。後期ロマン派ですから。前期を通り越して後期ロマン派か!と考えますと、この演奏会がバッハ・コレギウム・ジャパンにとっていかに挑戦的かが分かろうものです。なので足を運ぼうと思ったのですが・・・

この演奏会を知ったのが、実は昨年末。コンサートまで約1ヶ月です。どう考えても、安い席が余っているはずがありません。そのため、fecebookでどーすんべーと投稿しましたら、なんと!かつて瀬川玄氏の「音楽道場」で顔見知りのFBFの方が「手配します!」とのこと。BCJの定期会員とのことで、いやあ、助かりました!この場を借りて御礼申し上げます。実は、親戚の葬式などもあり、この年末はお金に羽が生えたように飛んでいきまして・・・まさかだったのですが、こういうこともあります。割引率はそれほど高くはないですが、それでもありがたい話です。

そして、その親戚の「死」が、このコンサートを聴いている間中、思い出されるものになりました。それだけ、指揮者と演奏家が一つになり、魂のこもった演奏だったということでもあります。

facebookの「クラシックを聴こう!」グループで知りましたが、指揮者である鈴木雅明氏は感染症やケガなどで、いまだ体調は本調子ではなかったようです。そのあたりも、今回の演奏に影響したのでは?という気が、振り返ればしますが、それを知らなくても、演奏に対する魂の入りようは素晴らしかったです。私は今回舞台袖のL1に座っていましたが、昨年のサントリーホールでの第九の時同様、合唱団の生命力が、音圧として降りかかりました。特に、ドイツ・レクイエムの第1楽章。伸びのある生命力あふれる声は、カラヤン指揮ウィーン・フィルを軽く超えました。バロック時代の香りなどどこへやら。そこにあるのは紛れもない、19世紀ドイツ後期ロマン派の音楽だったのです!

そして、バッハ・コレギウム・ジャパンだからこその、後期ロマン派というくびきに囚われない解釈。テンポが多少速めなのですが全く不自然ではなく、むしろ人間が人の死に対して自然と感じる魂が、自然に表現されていたのです。だからこそ、私はつい、1月4日に死去した、叔父の告別式を思い出していました。それは、このコンサートがシュッツのコラール「主にあって逝く死者は幸せだ」の後、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」が続けて演奏され、休憩なしだったこともあります。どちらも実はドイツのコラールが元になっているわけですし、シュッツのはコラールそのものですが、そのシュッツのコラールの歌詞は、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」第7楽章と全く同じなのです!

Selig sind die Toten,
die in dem Herrn sterben,
von nun an.
Ja, der Geist spricht,
das sie ruhen von ihrer Arbeit;
denn ihre Werke folgen ihnen nach.    

幸いなるかな、死人のうち、
主にありて死ぬるもの、
今よりのちに。
「然り」と霊も言いたもう、
「かれらはその労苦から[解かれて]休まん。
かれらの行い、のちより従うなれば」

https://pacem.web.fc2.com/lyrics/brahms/requiem.htm

さすが、バッハを長年演奏し続けてきたバッハ・コレギウム・ジャパンだと思います。第1楽章も

Selig sind, die da Leid tragen,
denn sie sollen getrostet werden.
 
Die mit Tranen saen,
werden mit Freuden ernten.
Sie gehen hin und weinen
und tragen edlen Samen,
und kommen mit Freuden
und bringen ihre Garben.    

幸いなるかな、悲しみを抱くものは、
かれらは慰められんゆえに。
 
涙とともに蒔くものは、
喜びとともに刈り入れん。
かれら出で行き、泣きて、
とうとき種を携える。
されど喜びとともにきたりて、
穂束を持ち運ぶ。

(上記「音楽の森」WEBサイトより)

です。「幸いなるかな」。これを見て、どう思いますか?実は、私は叔父の告別式の時に、喪主であるいとこの姉が言った言葉が忘れられません。「父は、若い頃好きなことばかりして家族に迷惑をかけていた分、老いてからは私たち家族を支えてくれたのだと思います」。そのときに、笑いながらも姉が流した涙を、私は生涯忘れないでしょう。まさに、ドイツ・レクイエムの歌詞そのものだったのです。

姉も、父である叔父に対して、いろんな感情を持っていたことでしょう。人生において、ぶつかったりもしたことでしょう。しかし、亡くした今、走馬灯のようにいろんなことが思い出されて、何と慈愛に満ちた人だったんだろうと、その人生を振り返り、思わず出た言葉だったと思います。彼女は仏教徒ですが、しかし何と一致することなのだろうか!と思いますと、思わず泣きそうになりました。お姉ちゃん、泣けて良かったね、と。そして、叔父さん、もうゆっくり休めますよ、と。

コンサートで特に圧巻だったのは、第2楽章と第6楽章。激しいパッセージがありながらも、喜びと悲しみの感情が交錯する様子が、見事です。第4楽章のソプラノ・ソロも絶品!生命力がありそしてまさに人間の内面の表現がぴか一。バリトン・ソロも力強く、それでいて余計な力も抜かれており、合唱とのアンサンブルも、会衆と先導者のような関係です。聖書がテクストになっているわけですが、そこに人間の嘆き、そして悼み、哀しみ、癒しなどすべてが詰まっているのに、後期ロマン派の和声がしっかり聞こえるのに、テンポが速めで生き生きとしている・・・後期ロマン派という時代の演奏は、果たして今までと同じでいいのか?と問いかけるかのような演奏でした。それでいて、聴衆を圧倒する説得力と表現。メンバーの鈴木氏に対する想いと重なったこともあるのでしょうが、まさに死に対する人間の内面を、優しくかつ力強く表現したもので、第7章が終り鈴木氏が腕を下ろしているのに、拍手はそれからすこし遅れて始まりました。みな、演奏に酔い、自分だけではない、大切な人を思っていたのかもしれません。遅れても万雷の拍手が沸き起こりました。

BCJのコンサートにいくたびに、私は何かをもらって帰ってくるような気がしています。今回もチケットを手配してくださった素晴らしい友人との語らいもあり、演奏がいろんな「幸」を引き寄せてくれたような気がします。お金はないですが、やはりBCJだけは、高くても行きたいコンサートだと感じました。3月の受難節にはマタイがありますが、今年は久しぶりに聴きに行こうかなとおもっています。中央大学混声合唱団のコンサートも3月に延期になっており、ちょっと懐が気になるところではありますが・・・自分の精神を整える点からも、考えているところです。今年の秋にはメンデルスゾーンの「讃歌」も、そして年末にはブルックナーも演奏するそうで、今年はBCJの活動から目が離せないと思います。

 


聴いて来たコンサート
バッハ・コレギウム・ジャパン ブラームス ドイツ・レクイエム
ハインリッヒ・シュッツ作曲
主にあって逝く死者は幸いだ SWV391
ヨハネス・ブラームス作曲
ドイツ・レクイエム作品45
安川みく(ソプラノ)
ヨッヘン・ケプファー(バリトン
鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン

令和6(2024)年1月19日、東京新宿、東京オペラシティコンサートホール タケミツ・メモリアル

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。