かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~府中市立図書館~:サージェントが振る「我が祖国」

東京の図書館から、今回は府中市立図書館のライブラリをご紹介します。サー・マルコム・サージェントがロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団を振ったスメタナの「我が祖国」全曲を収録したアルバムをご紹介します。

このブログでは何度か取り上げている、チェコの作曲家スメタナが作曲した連作交響詩「我が祖国」。今回はサージェントのタクトということで借りたものなのです。サージェントと言えば様々なジャンルを指揮する指揮者でもありますが、そんな指揮者がスメタナの「我が祖国」を振るということで興味深く借りたものでした。

それにしても、この時期にこの演奏を取り上げるとはと思っています。ロシアがウクライナへ侵攻して早1か月が経ちます。そんな時期にこの曲、そして演奏を取り上げるとは思いもよりませんでした・・・・・

「我が祖国」はスメタナオーストリア・ハンガリー帝国支配下にあったボヘミアへの気持ちをてこにして作曲した交響詩です。ボヘミアの風景と歴史を踏まえた作品で、愛国的だと言っていいでしょう。そんな作品を、サージェントは見事に情熱的な演奏で彩っています。第2曲「モルダウ」は若干テンポが速め。それもこの演奏を全体的に情熱的にしています。

それはさすがサージェントだと思います。映画音楽やマーチなども振るサージェントだからこそ、曲の中にビルトインされた「祖国への気持ち」というものを楽譜の間から掬い上げ、見事な物語にしている点も高評価です。

とはいえ、私とすれば私が持っている中では2番目にいい演奏とするのですが、それでもこの演奏が素晴らしいことは変りません。

自国への気持ちが強いことは決して悪だとは思いませんが、それが間違った方向へ行ってしまうとかえって断罪される・・・・・今回のロシアによるウクライナ侵攻を見ていると思います。そもそもはプーチン大統領愛国心からの行動だったとは思いますが、それは相手も同じであるわけです。そしておそらく、ともに脛に傷があるようなことをやっているはずです。そこを真摯に胸襟を開いて、ぜひとも停戦へと至ってほしいところです。

いろんな意見があるかと思いますが、おそらく、プーチンもゼレンスキーも、自国の軍隊を「ブラニーク」に出てくるフス派の戦士たちだと思いたいのだと思います。ただ、その強さは圧倒的にウクライナのほうが強かった・・・・・そこをどうロシア側が評価して、お互い同意できるところまで話し合えるのか・・・・・こおサージェントの情熱的な演奏を聴けば聴くほど、考えるところです。

 


聴いている音源
ベドジヒ・スメタナ作曲
連作交響詩「わが祖国」全曲
サー・マルコム・サージェント指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:プロコフィエフの「交響的協奏曲」

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリであるプロコフィエフの「交響的協奏曲」を収録したアルバムをご紹介します。

交響的協奏曲って何?って思いますがようするに協奏交響曲のことなのです。古典的な様式にもアプローチをしたプロコフィエフらしいと思います。

ですが、1曲目に収録されているその作品125には原作があります。それは同じプロコフィエフが作曲したチェロ協奏曲第1番です。

ja.wikipedia.org

ja.wikipedia.org

なぜ改訂せずに別の作品にしたのかというのは、ウィキの通りだと思いますが、それだけではないように私は思います。そもそも、プロコフィエフの古典への造詣ではないかと思うのです。

協奏交響曲とは、主に古典派前期において作曲されたジャンルで、様式的には現代の協奏曲とほとんど変わりません。ここにプロコフィエフの遊び心が満載のように思うのです。規模は原作よりも拡大され、聴いた限りでは魅力的な和声の作品です。

カップリングの小協奏曲もチェロのための作品ですが、これも前時代的な様式をもちつつも和声的には20世紀も踏まえています。未完に終わったため第3楽章だけは補筆が入っていますが、実に喜びをもって聴ける作品です。

演奏も、ソリストはハレルでこれも実に歌う演奏。アシュケナージ指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の演奏も歌っているのが魅力的。アシュケナージってピアニストなのにこういったタクトが振れた人なんだなと思うと、昨今の情勢には実に残念な気持ちでいっぱいです。

作曲者が悪いわけでもないですし、演奏者が悪いわけでもないのですが、しかしロシアというだけで目の敵にされてしまいます。それは現在ロシアがウクライナで行っていることを考えれば仕方のないことではありますが、それでも私は境界線だけは引いていたいと思っています。ロシアの作曲家の作品やロシアの演奏家たちで魅力的なものは数多くあります。それを貶めているのはロシアのトップなのですから。決断さえすればいつでも評価は戻ってくることでしょう。今はそれを期待するだけです。

 


聴いている音源
セルゲイ・プロコフィエフ作曲
交響的協奏曲ホ短調作品125
小協奏曲 作品132
リン・ハレル(チェロ)
ウラディーミル・アシュケナージ指揮
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

今月のお買いもの:小澤征爾と水戸室内管弦楽団によるモーツァルトの交響曲第40番と管楽のための協奏交響曲

今月のお買いもの、令和4(2022)年2月にe-onkyoネットストアにて購入しましたハイレゾ小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団ソリストたちによるモーツァルト交響曲第40番とオーボエクラリネット、ホルン、ファゴット管弦楽のための協奏交響曲を収録したアルバムをご紹介します。

以前、ベーム指揮ベルリン・フィルによる演奏をご紹介していますが、

ykanchan.hatenablog.com

その時参照したウィキには、以下のような記述がありました。

「レヴィンとリースンによる復元版は2004年(平成16年)に小澤征爾指揮の水戸室内管弦楽団によって演奏され、CDも録音された。」

ja.wikipedia.org

今回購入したのはこの2004年に録音されたものなのです。上記エントリを立てるとき、実はこのアルバムも調べており、e-onkyoに96kHz/24bitで音源があることを確認していたため、できるだけ早期に購入したいと思い、2月に購入に至りました。

曲順としては、第40番、協奏交響曲という順番なのですが、まずは協奏交響曲から参りましょう。オーボエクラリネット、ホルン、ファゴット管弦楽のための協奏交響曲変ホ長調K.297b(K.Anh.C14.01)は、オーケストレーションモーツァルトらしくない部分が散見されるため、モーツァルト真作から外されたという経緯がある作品ですが、私は上記エントリで偽作の疑い程度にとどめるべきだ、コンピュータによる定量計算結果からはむしろ真作という結果も出ている、と述べました。だからこそ、レヴィン復元版による演奏であるこのアルバムを求めた、というわけです。

このレヴィンとリースによる復元版はとてもよくできており、この協奏交響曲が持っていた違和感というものがほぼ感じられません。ということはモーツァルト真作に限りなく近いと言っていいと思います。ただ、後世に伝わるときにパートが散逸し、オーケストレーションが他者によって行われ、らしくなくなってしまった作品だと定義づけて構わないと私は考えます。レヴィンの校訂は時としてモーツァルトの個性を消してしまうこともある(例えばレクイエム)のですが、この復元版においてはむしろモーツァルト「らしさ」が存分にちりばめられており、聴いていても楽しいですし、おそらく演奏しているソリストたちも気持ちよく演奏しているんじゃないかと思います。特にオーボエ宮本文昭は復元以前の版も吹いているため、はたしてどんな感想を持っていたのか気になります。

交響曲第40番はオーソドックスな演奏で、第1楽章はゆったりめ。私としてはそうじゃないって思いますけれど、しかしモーツァルト交響曲は室内オケで十分演奏できることを証明した演奏であると思います。モーツァルト晩年の作品達が持つ陰影とそのコントラストが生み出す深遠な世界が見事に表現されており、日本の室内オケもすでに世界レベルであることを聴かせてくれます。

その点では、新型コロナウイルスで海外オケの来日がほとんどなくなってしまって国内のオーケストラやソリストたちの演奏を耳にする機会が増えたと思いますが、その意外な実力の高さに舌を巻いた人たちも多かったのではないでしょうか。アマチュアオーケストラがかなりの実力を備えたということはそれだけプロも実力を備えている証拠でもあるわけなのです。アマチュアオケを誰が指導しているかと言えば、駆け出しの指揮者たちやプロオケの団員達なのです。そういった人たちが指導を通じて自分もまた学んでいく。そのプロセスが複雑に絡み合い、さらに芸術の高みへと昇っていくという好循環が生まれます。今、日本はまさにその好循環が生まれています。この循環を途切れさせてはなりません。

今回唯一残念なのが、またまた曲順なのです。まあ、楽章までめちゃくちゃになっているわけではなかったからいいものの、本来第40番、協奏交響曲という曲順であるはずなのですが、ソニーのMusic Center for PCで聴きますと協奏交響曲、第40番という順番になってしまうんです。これ、どうにかならないでしょうか?原因があるのならなんとかなる可能性もあるのですがまったくわからないため、どうしようもないよねえって思います。とりあえず問題ないからいいですが、もう少しだけ改善を願うところです。最悪foobar2000で聴くという方法もありますし。特に周波数が96kHzなので、それが今回は幸いと言えば幸いですが、幸いfoobar2000に頼るほどの混乱ではなかったので一安心です。

 


聴いているハイレゾ
ヴォルフガング・アマデウスモーツァルト作曲
交響曲第40番ト短調K.550
オーボエクラリネット、ホルン、ファゴット管弦楽のための協奏交響曲変ホ長調K.297b(K.Anh.C14.01) 
工藤重典(フルート)
ラデク・バボラーク(ホルン)
宮本文昭オーボエ
ダーグ・イェンセン(ファゴット
小澤征爾指揮
水戸室内管弦楽団
(ソニーミュージック 96kHz/24bit)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ショルティとロイヤル・コンセルトヘボウによるショスタコーヴィチとストラヴィンスキー

東京の図書館から、今回は小金井市立図書館のライブラリである、サー・ゲオルグショルティ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏によるショスタコーヴィチ交響曲第1番とストラヴィンスキーの「春の祭典」を収録したアルバムをご紹介します。

このカップリング、粋だなあと思います。所謂「ロシア・アヴァンギャルド」の時代の作品を並べて見せたわけです。日本のプロオケであれば安易に第5番あたりをショスタコーヴィチなら興行的に選択してしまうところ。けれども日本の聴衆もだんだん耳が肥えてきており、オーケストラ・ダスビダーニャの定期演奏会には大勢の聴衆が訪れていることを考えますと、このようなカップリングをぜひとも日本のプロオケでも期待したいところです。

それにしても、ショルティのタクトにかかると、どのオーケストラも生き生きと語りだすから不思議です。ショスタコーヴィチ交響曲第1番は、オーケストラ・ダスビダーニャの演奏にプロが混じったらここまで完成度の高いものになるであろうと思うくらい情熱的。春の祭典はまるで血がたぎるような生命力にあふれ、エネルギーが放出され続けているかのような錯覚を感じます。

こういう演奏を聴きますと、王政がどうだとか共和制がとか不毛な論議だなあと思います。それこそ外形的な解釈であるようにしか見えません。やはりオーケストラは指揮者によって良くも悪くもなるのだなあと思います。しかしそれがクラシック音楽を聴く醍醐味でもあります。ダメなら次!それでいいわけです。

そしてそのために、図書館があります。だからこそ、図書館は基本公立なのです。日本社会を陰で支える屋台骨が図書館ですから。単に利用者の好みだけでライブラリを決めてほしくはありません、九州の某都市の公立図書館のようにはしてほしくありません。むしろ、利用者に「こんな本があるのか!」「こんな演奏があるのか!」と目を見開かせるライブラリをそろえることこそ、図書館の使命です。

その意味では、このアルバムはまさに図書館の使命を果たしているライブラリであると言えます。コロナ禍ですが、ぜひとも図書館のライブラリにも目を向けてほしいと思います。

 


聴いている音源
ドミトリー・ショスタコーヴィチ作曲
交響曲第1番作品10
イーゴリ・ストラヴィンスキー作曲
バレエ音楽春の祭典
サー・ゲオルグショルティ指揮
ロイヤル・コンセルトへボウ管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ロストロポーヴィチとロンドン・フィルによるチャイコフスキー交響曲全集7

東京の図書館から、7回シリーズで取り上げている府中市立図書館のライブラリである、ロストロポーヴィチ指揮ロンドン・フィルによるチャイコフスキー交響曲全集、今回はその最終第7回目です。

第7回目は交響曲第6番「悲愴」。悲愴というよりは、人生の酸いも甘いも・・・・・という側面もあるような作品だと思いますが、その意外な「複雑性」をよくぞ表現しているなあと思います。

この曲でふと顔をのぞかせる明るい和声。必要だからこそ存在するその和声を大切にしつつ、しっかり俯瞰して演奏を一つの作品として構築しているのには舌を巻いてしまいます。

テンポも若干速めな部分もあるのですが、それが全く気にならないんです。それは演奏から作品が持つ「複雑性」が存分に表現されているのがわかるからです。

チャイコフスキーが描きたかった「人生」を、オケを存分に鳴らして歌わせる・・・・・うーん、もう酔わざるを得ません。人生は思い通りにはいかず、しかしその中にいろんな発見や気づきもあります。その意味では、「悲愴」という和訳は必ずしも正しくないなあと思います。

まあ、確かに「悲愴」で正しいのですけれども、直訳すれば・・・・・ただ、その「悲愴」という標題にチャイコフスキーが込めたものは一体何なのか?そして聴き手である私の人生とは何か?これから生きるとは?いろんなことを考えさせてくれる名演でありましょう。

ここまで結局ダメ出しをするような演奏がないのが不思議。こういう全集を待っていました。ロストロポーヴィチというチェロの名手とロンドン・フィルという名門が出会ったゆえの結果であるように思います。その果実を受け取れる私はなんと幸せなのだろうと思います。

 


聴いている音源
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲
交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

今月のお買いもの:アダム・フィッシャー指揮デンマーク室内管弦楽団によるベートーヴェン交響曲全集9

今月のお買いもの、令和4(2022)年1月に購入したものをご紹介しています。9回シリーズで取り上げております、e-onkyoネットストアにて購入しました、アダム・フィッシャー指揮デンマーク室内管弦楽団の演奏によるベートーヴェン交響曲全集、今回はその第9回目です。

第9回目は第九、ということになります。どれだけ激しいものになるのかと思いきや・・・・・

確かに、第1楽章は激しさを持っており、演奏時間も13分台。しかし、そのあとはそれほど速さを感じません。第2楽章はスウィトナー指揮シュターツカペレ・ベルリンとあまり変わりませんし、第3楽章は12分台ですがこれくらいで演奏するものも従来からあります。

第4楽章も23分台で、それほど速いわけではありません。そして全体の演奏時間は62分台。それほど新しさを感じる演奏ではないんですが、しかし全体的に引き締まった感じを受ける、清廉な演奏です。これが不思議。

第4楽章Vor Gott!もそれほど短いわけではないんですが、残響で1拍以上。これは変態演奏と言っていいと思いますがその変態さを感じないんです。ここは新しさだと思います。というよりも、こういった工夫というか、解釈は当たり前になってきているとも言えましょう。

変態さが全体の中で全く変態ではない、つまり不自然ではなく自然である演奏。これがこの演奏の「新しさ」だと言えるでしょう。合唱団も力強くかつ美しく素晴らしいですし、ソリストたちも絶品!何を不満に思いましょうや!

室内オケで、ここまで自然な演奏ができることを証明した録音・・・・・その意味で、やはりこの演奏は新しい時代のベートーヴェンにふさわしいと思います。ベートーヴェンまでは室内オケでも十分演奏できますよということを、ナクソスはいろんな録音で証明してきたとも言えるでしょう。まさに、ウィズ・コロナの時代にふさわしい演奏だとも言えるでしょう。

また、全集でここまで楽しめたものも久しぶりです。9曲すべてなんの不満もない優れた演奏。その意味でも、「あたらしいオーケストラの時代」にふさわしい全集だと言えるでしょう。

 


聴いているハイレゾ
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第9番ニ短調作品125「合唱付き」
サラ・スヴィトリツキ(ソプラノ)
モーテン・グローヴェ・フランゼン(アルト)
イルケル・アルジャユレク(テノール
ラーシュ・ムラー(バス)
デンマーク国立コンサート合唱団
アダム・フィッシャー指揮
デンマーク室内管弦楽団
(Naxos 96kHz/24bit)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。

東京の図書館から~府中市立図書館~:ロストロポーヴィチとロンドン・フィルによるチャイコフスキー交響曲全集6

東京の図書館から、7回シリーズで取り上げています、府中市立図書館のライブラリである、ロストロポーヴィチ指揮ロンドン・フィルの演奏によるチャイコフスキー交響曲全集、今回は第6集を取り上げます。

第6集は交響曲第5番。どちらか言えば激しさよりも内面性が目立つこの曲。ロストロポーヴィチロンドン・フィルに悠然とした音楽を鳴らさせます。その分、激しさも見られるこの曲でそれは影を潜め、むしろ粛々と運命に対峙していく人間の姿を聴衆に見せているように思います。

はじめは少し物足りなくも感じるのですが、聴いているうちにのめりこんでいく、不思議な演奏。しかしある意味チャイコフスキー交響曲の「スタイル」を確立したともいえる第5番では、適切な解釈の一つなのではないかと感じてもいます。

チャイコフスキー交響曲で目指したものとはいったい何だったのでしょう?ロシア的なこと?どうも私は違うように思います。勿論どこかでロシア的なものはにじみ出るでしょうが、それよりはむしろ、普遍的な人間の姿というものを、ロシア的な音楽の中で追求したかったのではないかと私は考えるのです。

ゆえに、チャイコフスキーの音楽はロシア的な旋律というものが少ないため、旧ソ連では糾弾されました。それはロシアの時代から続くもので、何も社会主義だからというわけでもなかったのですが、それでも「社会主義リアリズム」には反するとされてしまったのです。まあ、権力とは勝手なものです。

近代以来、ロシアとはソ連の時代も含め緊張が続いている我が国で、特にチャイコフスキーの作品が愛され、演奏され続けてきたのは、ひとえにチャイコフスキーの作品が持つ「普遍性」に我が国のクラシック・ファンの多くが魅力を感じているからに他ならないだろうと私は考えます。ロストロポーヴィチは楽譜から内面性を見事に掬い取って、壮麗かつ雄大で普遍的な人間の内面性を作品から提示したと言えるでしょう。

こういう演奏を聴くことこそ、プロオケの演奏を聴く醍醐味だと言えます。

 


聴いている音源
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー作曲
交響曲第5番ホ短調作品64
ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ指揮
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。