かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:飯森範親と日本センチュリー交響楽団によるハイドン・マラソン22

今月のお買いもの、令和6(2024)年1月に購入したものをご紹介します。毎度おなじみ、飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団の演奏によるハイドン・マラソンの第22集です。e-onkyoネットストアでの購入、ハイレゾflac192kHz/24bitです。

この第22集は2022年5月26日と12月9日に、大阪のザ・シンフォニーホールで収録されたもので、それぞれ第27回・第29回のコンサートのプログラムから編集されています。この辺り、毎回感じるのは商売のうまさです。ほとんどの人が「なら、毎回のコンサートをそのまま収録するほうが楽じゃないの?」と思うはずですが、それをやってしまうと、コンサートに足を運ぶ人が減る懸念があるわけです。そのためわざわざ2回のコンサートを一つにまとめて、同じ演奏であっても別なものにしてしまうわけです。本当にコンサートでどんな曲が演奏されるのかはコンサートに行けばいいだけですし、またいくつか買えばコンサートで演奏された曲順を再現することも可能です。

そして、こうシャッフルしてハイドン交響曲を番号順や成立順で聴かないことは、ハイドン交響曲の特色を理解しやすいとも言えます。今回の第22集の場合、第67番と第68番は1774~1776年に成立した、ほぼ同じ時期の作品ですが、第11番は1761年と、ハイドンエステルハージ家に奉職する以前の作品です。そこから何が見えて来るのかという面白さも、このアルバムには存在します。

第67番は1775年~76年に成立した作品。4楽章構成で、随所にオペラなどから転用したと思われる部分が散見されるのが特徴で、特に第4楽章の急~緩~急の3部形式は、明らかにオペラの序曲を転用したと思われる構造です。モーツァルトにもこのような形式が番号がついていない作品で見受けられ、それはそもそもハイドンがやっていたことであったと考えればモーツァルトがやったとしても不思議はないわけです。それが当時の慣習であったと考えれば自然だからです。そもそも、ベートーヴェンであっても、自作のフレーズを交響曲に使う(第3番「英雄」第4楽章)こともあったわけですから、ハイドンが自作のオペラの序曲をそのまま楽章として再構成してもなんら不思議はありません。むしろ、この慣習があったからこそ、ベートーヴェンはさらに進んでワンフレーズだけにとどめ、再構築することでオリジナリティを目指したとも言えるでしょう。特にベートーヴェンの場合、ピアニストであり、バッハ以来の伝統を継ぐものであったことで、変奏ということを交響曲においても重視したという側面もあります。

ハイドンの場合は、あまりピアノ曲を書いておらず、ベートーヴェン以上のシンフォニストだったことが、むしろバロック的な編曲という点にとどまったのでは?と思います。一方モーツァルトは、よりベートーヴェンに近く、自分の作品をワンフレーズだけ使うという選択をしているケースも多くなります。

第68番は、その構造がベートーヴェン「第九」へとつながっていくことを予感させる構造です。成立時期は第67番よりも早い1774年ごろですが、メヌエットと緩徐楽章がひっくり返り、メヌエットが第2楽章、緩徐楽章が第3楽章です。そう、ベートーヴェン「第九」において、スケルツォが第2楽章、緩徐楽章が第3楽章になっているのと、ほぼ一緒なわけです。メヌエットが時代が下っているのでスケルツォになっただけ。この点でも、ベートーヴェンは意外にも過去の巨匠たちの作品をしっかりと踏まえた作曲をしていると言えるわけです。それなのに感じるオリジナリティ。それをハイドンで理解できようとは!

第11番は1761年の成立なので、エステルハージ家に奉職する以前の、ボヘミアのモルツィン伯爵家に奉職していた時代の作品です。前ふたつとは10数年時代が古いのですが、それでも4楽章形式であることです。こんなところでも、ハイドン交響曲の歴史で果たした役割が見えてくるわけです。詳しい解説はぜひともハイレゾやCDを買っていただいてブックレットを読んでいただくこととして、私自身はそれを楽しみながら実感できる点を強調しておきましょう。構造的には古臭いのに、4楽章形式によって新しさも感じることもできます。

これだけいろんな点を見ることが出来るハイドン交響曲は、古臭い部分があったとしても楽しいの一言です!演奏している日本センチュリー響のメンバーも、聴いている限りではとても楽しそうです。盤を重ねるごとに感じる演奏の躍動感は、明らかに演奏する側が楽しんでいないと伝わりません。弾いている表情とかが映像で見えるわけではなく音だけですから。音だけ聴いて楽しそうと感じるためには、それだけ楽しんでそこにエネルギーを使っていないと無理です。

例えば、最近話題の「新しい学校のリーダーズ」。彼女たちのパフォーマンスは動画を見ているとかっこいいですし楽しいですが、歌を聴いているだけも楽しさが感じられます(とくにヴォーカルのSUZUKAは絶品で、私はファンになりました)が表現することすべてを楽しんでいるが故です。特に振り付けはすべて自分たちで行い振付師がいないことも特色です。同じことが、日本センチュリー交響楽団にも言えるわけです。音楽のジャンルは違えども、音楽によって表現することには変わりありませんから。

クラシック音楽の裾野を広げるにはどうすればいいのかとよく問われるのですが、私は「音楽に貴賤はない。他のジャンルと同じ部分がクラシック音楽という芸術にもあることを示せば自然とファンは増える」と信じています。例えば、「新しい学校のリーダーズ」の代表作とも言える「オトナブルー」。曲のある部分では、Bマイナーが選択され、そこではヴォーカルのSUZUKAの叫びが印象的なのですが、なるほどと思うのは、Bマイナーということはロ短調。バッハの「ロ短調ミサ」のキリエと同じです。そう説明すれば、「ちょっと聞いてみようかな」と思う人だっているわけです。そういう「伝える工夫」を、クラシック音楽を愛する私たちの側がどれだけできているかという点も、クラシック音楽の裾野を広げるためには必要であると私は考えます。

せっかく、日本センチュリー交響楽団の生き生きと楽しんでいる演奏に接するのであれば、それも一つの精神性ととらえ、突破口として使っていくということも、わたしたち聴衆の側でも必要であるように思います。クラシック音楽以外のジャンルなんてと思うかもしれませんが、しかしそれは私自身においては豊かな精神世界を広げてくれるものです。相互に乗り入れれば、新しい地平が広がるわけなので、私たちクラシックファンが、どんな点を喜びとし、楽しんでいるのか、それは別のジャンルと本当に特殊なことなのか、今一度考えてみてもいいのではないでしょうか。

 


聴いているハイレゾ
フランツ・ヨゼフ・ハイドン作曲
交響曲第67番ヘ長調Hob.Ⅰ:67
交響曲第68番変ロ長調Hob.Ⅰ:68
交響曲第11番変ホ長調Hob.1:11
飯森範親指揮
日本センチュリー交響楽団
(EXTON ovcl00834 flac192khz/24bit)

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。