かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から~小金井市立図書館~:ベームとウィーン・フィルのベートーヴェン交響曲全集から2

東京の図書館から、4回シリーズで小金井市立図書館のライブラリである、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏によるベートーヴェン交響曲を取り上げていますが、今回はその第2回目。第7番と序曲2つを収録したアルバムをご紹介します。

「リズムの権化」ともいわれる、ベートーヴェン交響曲第7番。カール・ベームらしい、どっしりとしたテンポで進む演奏は、ともすればリズム感が感じられなくなる危険性がありますが、そんなことはなくむしろリズムが際立つものになっています。そこにウィーン・フィルの豊潤なサウンド。テンポとしては決して私好みではないんですがしかしつい引きずり込まれる魅力を持っています。

特に第1楽章では全く受け入れられるのが不思議です。こういった説得力こそ、巨匠カール・ベームだと思います。ただそれは前回も触れましたが、やはりカール・ベームという人、そしてこの演奏に携わる人たちのほとんどが戦中戦後という時代を通り抜けている、ということは押さえておく必要があると思います。その経験を賛美する人たちもいるのですが、当時の人たちがすべて好んでその状況を選んだわけではないことは留意する必要があると思っています。

確かに、ドイツ国民の総意としてはヒトラーを選び、戦争へと突き進んだわけで、その結果は引き受けざるを得ません。しかしながらその選択をよしとしたのは全員ではないことを留意する必要があるわけです。実際には反対していた人もいたわけですし、そのために強制収容所へと送られた人も少なくありません。そしてそれは身の回りにいたわけですから、この演奏に携わっている人たちはどこかにその記憶があり、ふとした瞬間に思い出すという、専門用語で「フラッシュバック」といいますがそれが起こるわけです。

戦争とは勝とうが負けようが、心に傷(これを専門用語でトラウマと呼びます)を負わせる性質を持っています。それが快感だという人もいますがそういう人はそもそも心に傷を負っていることが多いことから、やはり心の傷を誘発するというべきでしょう。戦うことが人間の本能だとすれば、その本能もまた心に傷を負わせる性質を持つといえるでしょう。

そのため、臨床心理の現場では、その「本能」を分析することが治療の一環として重要なポイントになることが多いのです。カール・ベームウィーン・フィルの団員達がどのように傷ついていたかは一人ひとり具体的なことはわかりませんが、しかし総体として演奏のどこかににじみ出る、ということはあるかと思います。例えばそれがカール・ベームのどっしりとした演奏というところに現れると分析することもできます。そしてその解釈にウィーン・フィルの団員たちが自らの体験から共感する、ということは何ら不思議ではないでしょう。

序曲2つにせよ、この交響曲第7番にせよ、比較的どっしりとした演奏になっているのは、確かにベートーヴェンという人の巨匠性を意識しているとは思いますが同時にあまり激しさを加えず平和な状態をかみしめる、という側面もあると私は考えます。序曲は「コリオラン」と「プロメテウスの創造物」で、いずれも人間の性というものを考えさせる作品です。交響曲第7番はベートーヴェンに愛した人ができ、その平和な時間をかみしめた中で作曲された作品という側面もあります。そこから考える演奏者たちの想いというものが、演奏から私には伝わってくるのです。

今回は、PCが新しくなり、アプリとして以前使っていたソニーのMusic Center for PCではなくTune Browserを使っています。詳しいことはまた触れますがこのアプリがわたしにとっては後継となります。そのアプリで聴きますと、ホールによる広がりも十分に感じるものです。単にリサンプリングをしているだけなのですが、これを聞きますと、windows11が音質重視に舵を切ったのはわかるような気がします。それについてはまた、別の機会に。

 


聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第7番イ長調作品92
序曲「コリオラン」作品62
「プロメテウスの創造物」序曲 作品43
カール・ベーム指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。