東京の図書館から、府中市立図書館のライブラリをご紹介しています。シリーズで取り上げています、ブルーノ・ワルターがコロンビア交響楽団を指揮したベートーヴェンの交響曲全集の、今回は第2集です。
第2集では、第3番「英雄」が収録されています。ワルターなのでどっしりとした演奏・・・・・かと思いきや、意外とアグレッシヴ。ところどころ、アレ?って思う部分もありますが、全体的には雄弁で、説得力ある演奏です。
こういう「うーん、そこは・・・・・」と思いながらも、評価してしまう表現力はさすがワルターの解釈とオケの実力だなあと思います。とはいえ、知っている方も多いとは思いますが、コロンビア交響楽団とはこの全集を録音するために集められたソリストたちのことを言い、実際にコンサート活動を遣ったわけではありません。この全集を収録したとき、すでにワルターは隠居状態。
ですから、ワルターを音楽監督にしてというオケは存在していないわけなのです。あくまでも、このセッションのために結成されたオケ。その意味では、同じコロンビア交響楽団でも、セルが指揮したものとはちょっと違うわけです(セルが指揮したコロンビア響は実際には手兵のクリーヴランド管。レコード会社の関係でそうなった)。
その割には、オケは生き生きとしていて、演奏に喜びが感じられるんです。それも、私の「こうあってほしい」というものと多少違っても受け入れられる原因の一つなのでしょう。ワルターという指揮者が当時どれだけの名声を持っていたかの象徴かもしれません。そして団員たちからどれほどの尊敬を得ていたか、というバロメーターでもあるように思います。
意外と、こういうことはカラヤン批判をする人たちからはすっぽり抜け落ちて居ます。問題の本質と背景をよく理解していないからではないかと私は思っています。20世紀の巨匠たちの時代とは、大国の覇権がヨーロッパからアメリカへと移った時代なのです。当然ですが、録音もその影響をもろ受けます。なぜなら、録音とは時として、プロパガンダだから、です。
ですから、カラヤンも、ベームも、ムラヴィンスキーも、そしてこのワルターも、それぞれその「覇権の移動」の影響を受けているのです。ただ聴くだけならそんなものどうでもいいんですが、やれカラヤンを現代文明の問題として評論する場合、その「覇権の移動」を抜きにしたものは全く意味を持たないと私は思っているのです。ある文明が世界的な影響を及ぼすためには、その文明が覇権を握っていることが最重要であるから、です。
このワルターの芸術も、大国として派遣を握ったアメリカが、ひとつの国威発揚とした可能性は否定できません。ステレオ技術とは当時、その国の技術力を見せるためにとても有効なものでした。その歴史をさかのぼると、ナチス・ドイツへとたどり着きます。ワルターがステレオという新技術に乗り気になったのも、おそらくドイツ在住当時のナチスとの関係性が頭にあったからだと想像できます。
そんなことを、おそらくオケの団員たちも知っている。そのうえ、モノラル時代のまだ生きている巨匠が、ステレオ録音に挑戦する!なんて、ワクワクするじゃありませんか!そのワクワク感が、この録音の演奏にもそこかしこに出ているように聴こえるんですよ、これが。
カラヤン批判をする某思想家の方から、ワルターが出たのを少なくとも私は知りません。この全集くらい聞いているだろうにと、非常に残念です。アメリカの否定だけで素晴らしい人材に慣れるのなら、リベラルが退潮することなどありえないと思うのですが・・・・・・
聴いている音源
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン作曲
交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
序曲「コリオラン」作品62
ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団
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