東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリをご紹介します。今回はマーラーの交響曲第1番「巨人」の、そもそもの形の版の演奏をご紹介します。
もちろん、「巨人」は私が好きな作品の一つでもあるので、以前「マイ・コレクション」でご紹介したショルティ指揮シカゴ響の演奏以外にもほしい演奏はいくつかあるんですが、この演奏を借りてきたのには、まさにその版が1893年ハンブルク版だということなのです。いわゆる、「花の章」があるやつですね。
なら、それは交響曲ではなく「音画」ですよねって?そうです、ですから、タイトルには「交響曲第1番」というのを入れなかったのです。
ただ、演奏を聴いてみますと、削除した花の章は普段聴きなれていないのではじめ奇異に感じるものの、全体の中では全く不自然ではなく、むしろこれはマーラーの中では必然だったんだなと納得もしてしまうから不思議です。そのうえで、今までの「交響曲第1番」でも不自然さがないことにも、驚きを隠せないのです。
つまり、マーラーは交響曲的な構成をもって、この作品をはじめから書いているということにほかなりません。彼自身、この作品を「交響曲」と呼んでいたわけですし。ただ重要なのは、なぜ花の章が削除されたのか?ということです。ウィキではこの「花の章」こそ作曲の動機だと言われていますが・・・・・
ところがです、実はこの「音画」として演奏された版で最も批判を受け、聴衆が受け入れなかったのは花の章ではないんです。現在の第3楽章、なんです。カロの諧謔画を音楽で表現した、おどろおどろしいあれです。なのにマーラーはその批判を受けた楽章ではなく、「花の章」を削除するという選択をして、今日交響曲第1番として成立することになりました。
これには、私はマーラーの明確な意思が働いていると思っています。つまり、その諧謔にこそ、マーラーのメッセージが詰まっている、ということです。だからこそ明快でわかりやすい、ある意味作曲の動機の一つでもあった「花の章」を削除してでも、この諧謔楽章を残した、と考えるのが自然でしょう。
音楽史において、ベートーヴェンと並ぶロックンローラーがマーラーです。和声進行において新しいものをふんだんに取り入れて、人間の内面性の表現を突き詰めていくその扉を開いたのがマーラーだといっても過言ではありません。フランスにドビュッシーが居たとすれば、ドイツがマーラーだったのです。それほどラディカルな存在がマーラーなのです。その代表格が「カロ風の葬送行進曲」です。
それはマーラーにおいて、絶対外すことはできなかった、と考えれば、なぜ花の章が削除されたのかは自明の理です。マーラーがこの作品で表現したかったこととは、新しい和声進行で後期ロマン派的な作品を世に問うことだとすれば、純然たる後期ロマン派の「花の章」ではなく「カロ風の葬送行進曲」こそ、残すべき楽章であるからです。
いろんな人のアドヴァイスを受け入れたうえで、しかし自分の最終ラインは絶対に保守しえる最大の譲歩、それが今日私たちが「交響曲第1番」として聴いているものである、ということです。それがわかると、二つの存在はともに愛すべき作品だなあって思います。
演奏も、ヘンゲルブロック指揮北ドイツ放送交響楽団。バッハのロ短調ミサでは生き生きとしつつも静謐な演奏をフライブルク・バロック・オーケストラと繰り広げたヘンゲルブロックが、北ドイツ放送響というモダン・オケとロマン派の巨匠マーラーの、しかもいわくつきの「巨人」を振るなんざあ、面白いではないですか!それもこの音源を借りる一つの理由でした。
そして演奏は、編成のせいもあるのかもしれませんが、比較的軽めで、そもそも巨人という作品はこれほど生命力あふれるものだったのか!と目からうろこです。「花の章」が入っているにもかかわらず通常の4楽章とほぼ変わらない演奏時間も、魅力です。筋肉質なその演奏を聴きますと、むしろこの5楽章ある「音画」のほうこそ、マーラーが言いたいことだったのではないかという気がします。
ヘンゲルブロックが引き出した「マーラーの本音」が、この演奏には詰まっているような気がします。
聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
交響曲形式による音詩「巨人」(交響曲第1番ニ長調「巨人」の1893年ハンブルク稿)
ギョーム・クールーミ(トランペット)
エッケハルト・ベンリガ―(コントラバス)
トーマス・ヘンゲルブロック指揮
北ドイツ放送交響楽団
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