かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:マーラー 交響曲「大地の歌」

今週の県立図書館所蔵CDは、マーラーとヴィヴァルディの二人です。今回はマーラー。彼の代表作とも言うべき「大地の歌」を取上げます。指揮はダニエル・バレンボイム、演奏はシカゴ交響楽団他です。

大地の歌。一応、交響曲になっていますが、これを交響曲とすべきなのかどうかは、未だに論争が決着を見ていません。楽章制を取っているので交響曲と見る向きもありますし、いや、ソナタ形式を取っていないから交響曲に含めるべきではないという向きもあります。

このあたり、私は正直言って結論を出すのが難しいと思います。ですから、私はマーラーがつけたように交響曲といいたいと思います。こういう場合は、本人の主張を尊重するのが一番の落としどころです。交響曲の形式を取らない交響曲。それで、マーラーの作品なら決着できるはずです。

実際、ベートーヴェンの第九の第4楽章はソナタ形式ではありません。形式にこだわってしまうと、それはどこまでこだわるのかをきちんと定義しなくてはいけなくなります。ですから、普通は交響曲ソナタ形式を「基本」とすると楽典などには書かれているわけです。

実際、この曲こそマーラーが晩年交響曲で散々やってきた世界の、いわばスピンオフのような、エッセンスがたくさん詰まっている作品だと思うからです。特に、声楽が各楽章に必ず入る点などは、第8番を彷彿とさせます。

この曲は、実は最初5番を買うときに候補に挙がった曲なのです。しかし、やっぱり私は古典派の曲が好きだったのですね。番号がついているほうを優先したのです。

しかし、この音源を借りたとき、その選択は間違いだったなとはっきりと悟りました。5番よりはるかに理解しやすい・・・・・すっと、その世界に入ってゆけるのです。

それさえできてしまえば、後は聴き込むのみです。5番はそれさえできなかった・・・・・

この曲で一番有名なのは、第3楽章「青春について」です。これが一番この曲の特徴を表しているからでもありますが、この曲全体を貫くのは、東洋趣味です。マーラーが生きた時代は、ジャポニズムを端緒とする、東洋世界への興味がヨーロッパにおいて広がりを見せた時代です。この曲はそんな中、李白を中心とする漢詩からその題材がとられています。

李白といいますと、その詩の美しさが魅力ですが、その世界がよく表現されているのが第3楽章だと私は思うのです。オケがシカゴ響ですが、この演奏では柔らかなタッチで、その世界に迫っているせいか余計に顕著だと思います。訳がよほどすばらしかったのでしょう。まるで李白が実際に歌っているかのような気にすらさせます。

実際、この第3楽章の歌詞は李白の「採蓮曲」によっています。

全部の歌詞が元の漢詩どおりの内容にはなっていないようです。そのためか、必ずしも中国の大地というものを髣髴とさせる部分はごく少ないのが実情です。ただ、各詩人が語る内容を訳からなるべく忠実に描こうとしているのは非常に感じます。

漢詩を読みますと、実は非常に生活に密着した内容を語ることが多く、それが大河の流れに乗せられていたり、大陸の風景に溶け込んでいたりします。まさしく、マーラーが「大地の歌」と名づけたのはうなづけます。

この音源を借りた理由は、オケがシカゴ響だったからというのが非常に大きかったです。恐らくこのほかに名演奏はあるはずですが、シカゴ響ということで決めました。ショルティ指揮の音源で演奏のすばらしさはわかっていましたから。それは間違いではなかったなと思います。指揮者でこれほど違うのかとびっくりした反面、シカゴ響のレヴェルの高さを改めて認識した次第です。つまり、「さすが、プロ」なのです。

指揮者が変わってがたがたになるオケも少なくありませんが、シカゴ響は全くそんなことがなく、だからこそこの曲をはじめに買っておくべきだったと私に思わせたのだと思います。

ただ、この曲を今になって聴くようになった理由は、じつは5番だけが理由ではありません。もう一つ、大地を歌い上げた名作「土の歌」の存在の方が大きかったのですが、それについてはまた別の機会にお話ししましょう。



聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
交響曲大地の歌
ワルトラウト・マイヤー(メゾ・ソプラノ)
ジークフリート・イェルザレム(テノール