かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

神奈川県立図書館所蔵CD:マーラー 交響曲第3番

今週の県立図書館所蔵CDのコーナーは連続してマーラーを取上げています。今日はマーラー交響曲第3番です。指揮はエリアフ・インバル、演奏はフランクフルト放送交響楽団他です。

「他」とついたのは、この曲には声楽がついているからですが、前作「復活」ほど声楽が活躍するわけではなく、最終楽章のオケのみへとつなぐ役割に徹しています。

6番の次にこの3番を借りたのは、これもインバル/フランクフルト放送響だからです。それに、6番を聴いてマーラーが自分が考えていたほど理解しにくい作曲家ではないと考えるようになり、では2番の次の作品とはいかなるものなのかと興味を持ったからです。

同じ時期には7番も借りており(これは来週取上げます)、私の中でも聴きやすいと感じた2番と6番のそれぞれ次の作品をこの時期借りていたということになります。それだけ、私の興味がこの時期はっきりと後期ロマン派へ向いていたということになろうかと思います。

これは聴いたときもそうでしたが、今また聴きなおしてみると、本当にこの曲は「何じゃこりゃ」と思います。いや、正確には「この曲の第1楽章は」と言うべきでしょうが・・・・・

まだ4番だけ聴いていないので即断はできませんが、私としてはこの3番からマーラーの音楽は明らかに変化していると感じます。不自然なポルタメント、和声の連続。一体何を考えているのかわかりません。

楽章それぞれは特徴があってすばらしいのですが、やはりこの曲全体を聴きますと「何じゃこりゃ」です。何の脈絡があるんだ?と自問自答せざるを得ません。

「復活」まではそれなりに脈絡があって理解できたのですが、この3番は本当にそのあたりが構造上理解しにくい曲です。特に第1楽章はソナタ形式ですが、それを認識するにはものすごい忍耐力を必要とすることは確かです・・・・・

まあ、人間のドグマを表現していると考えれば、あながち理解できないこともないのですが、それでもあっているのだろうかと、自問自答せざるを得ません。もしかするとそれこそ、マーラーが表現したかったことなのかもしれませんが・・・・・・それはもっと著作を読まないとなんともいえないと思います。

しかし、第1楽章がやたら長く、その次に長い最終楽章の23分ほどがかすんで見えます。借りたときに解説を読んではいますが、どうだったかちょっと覚えていません。確か、第1楽章は第1部としての判断だったような気がしますが・・・・・

そう理解しないと、第1楽章がやたら長いこと、そして特に脈略がつかないことが説明つきません。2番「復活」では楽章がついていますが二部構成になっているのは明らかですし、マーラー自身がその指示を書いています。

そう思いまして、Wikiを調べてみましたら、こんな記述が出てきました。

第一部

序奏 「牧神(パン)が目覚める」
第1楽章 「夏が行進してくる(バッカスの行進)」 
第二部

第2楽章 「野原の花々が私に語ること」
第3楽章 「森の動物たちが私に語ること」
第4楽章 「夜が私に語ること」
第5楽章 「天使たちが私に語ること」
第6楽章 「愛が私に語ること」

しかし、これらの標題は、後に誤解を受けるとして、マーラー自身の手により破棄されたため楽譜には書かれていない。

交響曲第3番 (マーラー)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC3%E7%95%AA_(%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC)
やはりねという感じでした。本来、彼が二部構成で考えていたような気がしたのです。標題は削除されましたが、二部構成というのは残ったわけで、私の勘は見事に当たりました。

というのも、この演奏をリッピングするときに、どうまとめるかまよった経験があったからです。実はこの時期に借りたものはWAVファイルとしてCD−Rに焼いてあります。それを作るに際して、どう構成するのか、元CDの通りにするのか、それとも自分自身の判断で独自に構成するのか、迷ったからです。

結局、元のCDどおりに第1楽章だけ一枚独立させ、後の第2楽章以降を別のCD−Rに焼くこととしました。それが、結局合っていたわけです。

ウィキでは第1楽章と第4楽章との関連が指摘されていますが、私としましては第二部であるこのまとまりはそれほど違和感がありませんでした。それよりも第1部との格差に驚きを禁じえませんでした。

それは、当時の彼の状況から来るのかもしれません。彼は宮廷歌劇場の音楽監督に就任するため、ユダヤ教からカトリックに改宗しています。そんな身の上が少なからず影響しているように思います。

その上、ウィキでも書かれていますが、ニーチェの影響も歌詞を見る限り顕著です。これはリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラかく語りき」を聴いたことのある方ならご理解いただけると思いますが、いろんなところへと意識が飛んでいるような、そんな音楽になっていることは確かです。

恐らく、彼が標題を消したのは、二部構成を重視した結果だったのではないかとおもいます。私は聴いてそう感じました。

私が「何じゃこりゃ」と感じるのは、そういった成立過程によるものなのかもしれません。ただ、それをインバル/フランクフルト放送響はすばらしいアンサンブルで聴かせてくれます。そういう意味では、3番もこのコンビを選んで正解だったと今となっては思います。最初に述べましたが、この演奏を選んだのは単に6番が良かったからという側面が強かったのです。

少なくとも、5番に比べればはるかに理解しやすく、マーラーという作曲家へのイメージを変えてくれた作品だとおもいますし、その助けに充分このコンビの演奏はなっていると思います。

しかし、このコンビもここまで。図書館にはもうこれ以外にこのコンビがなかったのです。以前も申しましたが、「有名曲は極力図書館で借りる」という方針転換をしていた私にとって、このコンビにこだわることはあまり重要ではなくなっていました。

ただ、未だに4番がないというのは実は4番だけはこのコンビでと考えているためです。クレスト1000シリーズに4番があるのはわかっているので、それだけは自分で買ってそろえようと思っています。

その後、ドヴォルザークは全部、ブルックナーは手に入りにくい00番以外はそろえてしまったのですから、やっぱり私はマーラーが未だに苦手なのだなあとつくづく思います。



聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
交響曲第3番
ドリス・ゾッフェル(アルト)
リンブルク大聖堂少年合唱隊
フランクフルト聖歌隊女声合唱団
エリアフ・インバル指揮
フランクフルト放送交響楽団
(元CD:DENON COCO-6634/6635)



さて、毎日更新が目標のこのブログですが、実は本日から3日間、私は長野県諏訪市へ父親孝行をかねて旅行に出かけます。私のパソコンはデスクトップですので、もって行くことができず、4月4日まで更新ができません。そのため、本日本来4月3日までの分を本日これよりまとめて投稿いたしますので、ご容赦くださいませ。