かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から〜小金井市立図書館〜:マーラー 嘆きの歌

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリを御紹介しています。今回はマーラーカンタータ「嘆きの歌」です。

マーラーと言えば、我が国ではどうしてもオーケストラ作品、具体的には交響曲に目が行ってしまいがちなんですが、最もマーラーが力を入れたのは歌曲と言ってもいいくらい、声楽作品は魅力に富んだものばかりです。

特にマーラーはそのキャリアを歌曲から始めていますし、声楽は創作期全体を通して作曲されているジャンルで、交響曲よりも魅力あると言っても過言ではありません。

そして、この作品はカンタータ、です。今回、エントリを上げるに際して、以下の二つを参考にしましたが、特に一つ目がもっともすぐれていると思います。解説ならウィキもあるのですが、むしろこの1つめのほうが分かりやすく、作品の性格が端的に述べられていると思い、採用しています。

クラシック音楽
マーラー『嘆きの歌』〜複数の版
http://motoyomo.blog.jp/archives/1050593610.html

オペラ対訳プロジェクト
Das klagende Lied 嘆きの歌
https://www31.atwiki.jp/oper/pages/1683.html

対訳サイトも本当に助かります。兎に角膨大な歌詞を書き写す暇が今ないので、こういったサイトには感謝しています。

さて、ここにさらに私の見解を付け加えるとすれば、この「嘆きの歌」は、マーラーベートーヴェン賞ということで、ベートーヴェンを多分に意識した作品である、ということです。ではどこか?

それは、1つ目でこのように述べられているのに気が付かれましたでしょうか。

「ところが審査員にブラームスとハンスリックという保守的な人がいて、革新的な音楽家にとって不利な条件でした。もちろんマーラーもこの不利な事実を知っていたでしょうが、あっけなく『嘆きの歌』は落選させられます。」

その点は、むしろウィキのほうが優れています。

「この初稿は、ウィーン楽友協会による作曲コンクール「ベートーヴェン賞」の応募作として作曲・提出されたが、ワーグナーの先を行くような斬新で意欲的な表現により、ブラームスに代表される保守的な審査員に何らアピールしなかった。」

嘆きの歌
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%86%E3%81%8D%E3%81%AE%E6%AD%8C

それは、ベートーヴェンが「オリーヴ山上のキリスト」で始めた、所謂「新しい表現」という伝統を受け継ぐものなのです。ベートーヴェンからメンデルスゾーンと受け継がれ、やがてマーラーのこの「嘆きの歌」へとたどり着く・・・・・・私はそうみています。

しかし、当時の審査員たちは、ベートーヴェン楽聖と崇め奉りながら、実は精神はベートーヴェンを受け継ぐ「前衛作品」であることが見抜けなかった、というわけなのです。ベートーヴェンの音楽が当時当たり前であったにも関わらず、です。しかし音楽史を翻ってみれば、ベートーヴェンの音楽はベートーヴェンが生きた当時必ずしも受け入れられていたわけではないことは、さまざまな点から明らかです。その端的なものが、例えばピアノ・ソナタ第28番「ハンマークラヴィーア」です。

そのベートーヴェンが持っていた「前衛精神」を、マーラーはしっかりと受け継ぎ、この作品を作曲したのです。そこを理解することができなかったのが、ブラームスやハンスリックという人の限界だったろうと思います。それでもベートーヴェンを意識して、ブラームス新古典主義音楽を知らず知らずに準備していたわけですが・・・・・そういうことは、実は本人は気づかないんですよねえ。

最後、誰も幸せにならない「悲劇」をカンタータに採用するという点でも、前衛精神ここにあり!と言ったところです。それに気が付いた人たちは、マーラー自身によって改定がなされているにも関わらず、初稿を選び始めている、と言う事なのだと思います。

ですが実際、演奏がその稿なのかは、クレジットなどを見てみないと何とも言えない点でして、じっさいこの演奏もどの稿なのかはわからないんです。わかっていれば、どこかに私は記録しているはずなのですが、記録していないということは、記載し忘れているのではない限り、初稿もしくは最終稿と初稿をつなぎわせたもののどちらかであることを意味します。なぜなら、この演奏は第3部まであるから、なのです。

これは私の推測にすぎませんが、恐らく後者、つまり第2稿に初稿の第1部をつなぎ合わせたものであると判断しています。なぜなら、シャイ―がベルリン放送交響楽団・合唱団と収録をしているのは、1980年代だからです。

それでも、演奏時間は1時間ちょっとあるという、大規模なものです。それをシャイ―が指揮している・・・・・カルミナで結構優れた指揮をした自身が、彼をしてマーラーの声楽作品へと向かわせたのでしょう。本来歌劇場たたき上げの人が向き合ってもいい作品のはずですが、それをそうではないシャイ―が振る・・・・・しかし、これがいいんですよ!カルミナよりずっといい!

それは後年、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管を振ることになった時に熟成された解釈として現われ、決して楽譜通りではないんだけれど、しかしそれが全く自然という表現へと繋がっていくように思います。それはやはり、本来はベートーヴェン賞を取って、華麗な作曲家人生を送りたかった、マーラーの本音が作品に隠されているからだとも言えるでしょう。

シャイ―はあまりテンポを揺らさない人なので、実は聴いているとあれ?これって後年交響曲で使ってないか?という旋律がどんどん出てきます。旋律と言うよりも和声だと思いますが、自然と浮かび上がるんですよね。オケが伸びやかなのもその自然さにつながっているでしょう。そりゃあ、2度人生に置いてマーラーが手を入れているわけですから、どこかで聴いた旋律、和声が出てきてもなんら不思議ではありません。その上で、マーラー交響曲ではそれ以前に作曲した歌曲から引用していることが多いと言うことも、考慮に入れる必要があるでしょう。

いずれにしても、素直に耳を傾けてみれば、ふくよかで美しい演奏なのです。シャイ―が振ると不思議ですが、どこか艶が出ます。それは時としてテンポ的にはそれは違うんじゃないと思っても、意外といいねとなるものなのです。私にとってはそれがカルミナだったわけなのですが、このマーラーでは実に自然です。これだと、シャイ―指揮のマーラー交響曲も聴きたくなりますね〜。

シャイ―って人は、しっかりと「歌わせてある」作品で優れた解釈と演奏をオケと残しているなという印象がありますが、この演奏もそう感じる一つです。さすがイタリア人シャイ―!と言いたいですね。




聴いている音源
グスタフ・マーラー作曲
カンタータ「嘆きの歌」
スーザン・ダン(ソプラノ)
ブリギッデ・ファスベンダー(アルト)
トーマス・E・バウアー(バリトン
ヴェルナー・ホルヴェーク(テノール
アンドレアス・シュミット(バス)
リッカルド・シャイ―指揮
ベルリン放送交響楽団・合唱団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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