神奈川県立図書館所蔵CD、ショスタコーヴィチの交響曲全集を取り上げていますが、今回は第6集を取り上げます。
第6集には、第9番と第10番が収録されています。え、9番で終わりじゃないのかって?ハイドンじゃあるまいし?
そうなんですよ川崎さん(って、古!)
ショスタコーヴィチは、交響曲を15曲書いているのです。実はこれは珍しいことではありません。他にも10曲以上作曲している作曲家はいます。勿論、ハイドンなどはもっとですが・・・・・
ここでいう9番以降というのは、ベートーヴェン以降、殆どのシンフォニストが9番までしか作曲できていないからなのです。それはベートーヴェンの重しとも言われますが、しかし、その重石(あるいは軛と言ってもいいでしょう)から解き放たれた作曲家が幾人かいます。ショスタコーヴィチもその一人です。
かといって、ショスタコーヴィチがベートーヴェンの影響を受けていないかと言えばうそになります。しかしショスタコが実際に影響され、自作に強く反映させているのは、マーラーとバッハなのです。
ですから、さほどベートーヴェンの重しや軛というものを感じていないという点が、第15番まで作曲できた一つの理由でしょう。
さて、ここでベートーヴェンを出したのはなにも10曲以上交響曲を書いているからだけではありません。第9番は戦争三部作と言われるショスタコの交響曲の一つで、ソ連当局(もっと言えばスターリン)が求めたのがまさしく、ベートーヴェンの「第九」のような壮麗壮大な作品であったという事なのです。
交響曲第9番 (ショスタコーヴィチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC9%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
しかし、出来上がった作品は、一見すれば笑い飛ばすかのような音楽だったのです・・・・・
このブログでも、最初にショスタコのCDを取り上げたマイ・コレで第9番を取り上げていますが、その時も奇妙な音楽だと感じました。それもそのはずで、実はよく聴きこんでいくと、勝利だとか、賞賛だとかというものを表現したのではないということが分かってきました。
所謂「第九」との比較とのプレッシャーや、戦争がショスタコに与えた精神的苦痛を考えれば、この音楽は妥当だと考えるようになりました。この第9番で表現されているのは、抑圧から解放された人間の、いわば錯乱状態とも言える、何とも言えない解放感だからです。
ショスタコほどの知識人が、抑圧を受けてそれが解放された時、まともに笑えるはずがないのです。どこか斜に構えるというか・・・・・
特に、ショスタコはスターリングラード攻防戦の生き残りです。生命の危険に飢餓という側面からさらされたショスタコには、トラウマがないと誰が言い切れるでしょう?それを普遍性を持つ音楽で表現した・・・・・つまり、私のように心に傷をもった人間は多いのだという、ショスタコの意思表示であると、私は解釈しています。
ですから、「レニングラード」よりもさらに脅迫的で狂乱的な喜び方の表現に、第4楽章はなっています。これはショスタコの内面を絶妙に表現したものと言えるでしょう。
一方の第10番は、戦争が終わって8年、前作第9番から9年たった1953年に完成した作品です。
交響曲第10番 (ショスタコーヴィチ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC10%E7%95%AA_(%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81)
ウィキでは傑作と言われていますが、確かに、劇的という意味では傑作だと思います。ただ、それだけにショスタコのドグマは最大限解放されている作品だと言えます。
特に、第2楽章スケルツォ、第4楽章はドグマ最大解放の傾向が強い作品です。さらに、第1楽章はこれ以降顕著になるDSCH音型(Dmitrii SCHostakowitch)が使われていますが、まさしくナルシズムの極致です。
いやあ、病んでるなあ・・・・・
実は、お休み中少し臨床心理学をかじったのですが、その視点でこの作品をみると、病んだショスタコ全開です。再び当局の批判(ジダーノフ批判)を浴び、ぼろぼろになってしまったショスタコが、そのさ中でも何とか人間性を保とうと作曲した作品がこの第10番であるという事も可能かと思います。
自分の名前を、主調である第1楽章で音型として採用するなんて、どこまで自己愛が強いのでしょう?いや、そうならざるを得なかったと言えるのだろうと思います。それだけの圧力を、当局からかけられたのだと言えるでしょう。だからこそ、ナルシズムを表現する方法として、ブラームスが弦楽六重奏曲第2番第2楽章でやったような、名前を音型として採用するということをしたのだと思います。
それでも、普通は恋人の名前ですよねえ。実際、ここで例に出したブラームスも音型として使ったその名前は元恋人です。ところが、ショスタコーヴィチの場合は、自分自身なのです。これ以上の自己愛、ナルシズムが一体どこにありましょうや!
バルシャイは、この二つの作品では特に、アインザッツを強烈にさせています。細かい音も実にそろって演奏されています。それが自然と、聴き手に鬼気迫るものを感じさせます。特に第10番第4楽章、DSCH音型でフォルティシモになる部分は、まるで叫びですが、オケをその頂点めがけて前進させます。
それはまるで、とことんショスタコの、精神的内面をオケに表現することを要求したかのような、臨床心理士の如くの指揮ぶりです。
バルシャイはもしかすると、有能な心理学者なのではないかと思うような、「気が狂っているが何とか平常を保とうとしている」ショスタコを絶妙に表現しているように思います。
聴いている音源
ドミトリー・ショスタコーヴィチ作曲
交響曲第9番変ホ長調作品70
交響曲第10番ホ短調作品93
ルドルフ・バルシャイ指揮
ケルン西部ドイツ放送交響楽団
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