かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:ペルト ヨハネ受難曲

今月のお買いもの、平成26年10月に購入したものをご紹介しております。今回はディスクユニオン新宿クラシック館で購入しました、ナクソスから出ているペルトのヨハネ受難曲を取り上げます。

ペルトは、最近人気が出てきた作曲家で、エストニア出身です。

アルヴォ・ペルト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%88

あまり詳しい経歴などは、ネットでは入手しにくいようです。ウィキのこのページも、確かに様々問題を抱えているように思います。余りにも情報が少なすぎるのです。

その点、CDのブックレットのほうが詳しいように思いますが、概略は取りあえず、ウィキの記述でもいいように思います。でも、抜けている部分大ありですけどね・・・・・

というのは、ペルトは政治的な動きから、逃れられない作曲家だと言えましょう。それは、彼が生まれたエストニアという国が辿った歴史と深い関係があります。

エストニア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%A2

こういうときはむしろウィキは便利だと思います。エストニアであれば・・・・・と、調べることが出来るからです。エストニアバルト三国の一つです。それは、ドイツやロシア(ソ連も含む)に占領されたり、抑圧を受けたりした歴史を持つという事になります。

エストニアもご多分に漏れず、独ソ不可侵条約によってソ連に併合され、独ソ戦の結果によって一時はドイツに占領されます。それはポーランドと同様の結果をまねいたと言っても過言ではないでしょう。

以前、このブログではペンデレツキを取り上げているかと思いますが、そのペンデレツキの音楽がふんだんに使われている映画が、「カティンの森」です。

カティンの森
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE

カティンの森事件」を題材にした映画ですが、単にカティンの森事件を扱っただけではなく、ポーランド国民がその後どのような経緯を辿ったのかを、描いた作品なのです。それはつまり、エストニアが辿った歴史も似たような部分があったことを意味します。

このヨハネ受難曲は、ヨハネ福音書を題材にしています。その上で、作曲された時期が1982年ということが重要であるように思います。エストニアはいまだソ連から独立しておらず、ソ連を構成する「社会主義民共和国」の一つでした。その中で、宗教は否定されて行きました。

そんな中でヨハネ受難曲を書く、ということは反体制を表明することと同じなのです。この作品はキリストを祖国になぞらえているように、私には思えてならないのです。

バッハのもそうであるように、このペルトの「ヨハネ」もイエスが登場し、群衆やピラト、ユダが登場します。ただ、ペルトはミニマリスムの作曲家とされています故、その編成は限りなく質素です。ヴァイオリン、オーボエ、チェロ、ファゴット、オルガンと、室内合唱団とも言うべきソリスト集団による合唱。決まったソリストはイエスであるバス、そしてピラトであるテノールだけです。それ以外は全て合唱団が担当するという、まさしくペルト第2期の様式であるティンティナブリを地で行く作品です。

それは、古楽、特にルネサンス期の作品に立ち返った経緯からくるものです。ですから、ちょっと聴けばルネサンスなのか?という音楽がそこにはあります。ですから多くの人がヒーリング音楽と勘違いしてしまうのですが、そうではないと思います。この音楽は徹頭徹尾、哀しみに覆われています。

この作品はバッハ以来の伝統に即しています。イエスがバスというのがそれです。バッハはカンタータでもそれを愚直に実行していますが、ペルトも自分の受難曲で採用しました。その上で、バッハのようにドラマを描くのでなく、哀しみの風景として描いて見せたのです。

これは何を表現するのか・・・・・伝統否定、そして宗教否定となれば、当時の社会主義ソ連と考えても、決して間違いとは言えないでしょう。ペルトはその音楽の中に、様式として反体制を暗号として入れ、その上で堂々と宗教曲を作曲することで、反体制を表明してみせたと言えるでしょう。

だからこそ、イエスを国家になぞらえていると、私は考えているわけです。これはたんなる哀しみの作品ではなく、国民に独立をと主張する作品であると言えるでしょう。キリストは人間の原罪を背負って十字架に掛けられたのであるから、私達は決して独立をあきらめてはならない、と。

最後、「成し遂げられた!」の後にアーメンで終わるのも、とてもメッセージ色が強いと思います。バッハの作品はドラマなので、墓に入るまでを表現しますが、ペルトの「ヨハネ」は磔刑までなのです。あえてそこまでにしていると言えるでしょう。キリストの磔刑を、いったい何になぞられているかが、ここで明白になるわけです。作曲された当時、エストニアという国はソ連に「磔刑」にされていたのです。その後キリストは復活しますが、それを描いてしまうと発禁処分になりかねません(宗教音楽を書くことさえ、すでに危険なのですから)。それを回避し、その後の独立という希望をその先に希求する作品にするために、磔刑で終わり、「アーメン(その通りになりますようにという意味を持つ)」が最後に来るわけです。

ですから私にとっては、これ以上の政治的メッセージがあるだろうかと考えるわけです。それもまた、バッハを強烈に意識していると言えましょう。それでいて、ペルト自身が音楽で立脚するのは、むしろバッハよりも古い様式であるわけです。それが出来るのが、近現代という、音楽史を俯瞰できる時代ゆえです。

演奏はそれゆえに、余計な演技を一切排し、徹底的に音楽を表現することに徹しています。それでも、キリストの悲哀は充分伝わってきますし、それを借りたエストニアという国家の悲哀も、切々と胸を打つのです。トヌス・ぺレグリヌスの合唱団は、オックスフォード・ニュー・カレッジで創設されたという経緯を持ちますが、なるほどと思います。以前、ハイドンのミサ曲を取り上げていますが、その時の合唱団はキングス・カレッジのでした。オックスフォードいう学校は、そういった伝統を大切にする場所ですから、なるほどと思います。

ルネサンスの作品は、私達はつい癒しという側面で考えますが、実はその癒しと見える部分にこそ、メッセージが詰まっていたり、エネルギーを持っていたりします。その点を十分に理解して演奏されているように思います。ペルトがルネサンス様式を借りて何が言いたいのかを、明確に示した演奏であると思います。




聴いているCD
アルヴォ・ペルト作曲
ヨハネ受難曲
ロバート・マクドナルド(イエス、バス)
マーク・アンダーソン(ピラト、テノール
アントニ―・ピッツ指揮
トヌス・ぺレグリヌス
(Naxos 8.555860)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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