かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から〜小金井市立図書館〜:ドビュッシー 管弦楽作品全集1

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリを御紹介しています。今回から4回に渡りまして、ドビュッシー管弦楽作品全集を御紹介します。

大体、図書館って有名作品しか並んでいないのが常ですが、それにしてもこの全集がライブラリにあるのは、いいセンスしているよなあって思います。なぜなら、この全集の指揮者は、マルティノンだからなんです。

まあ、ドビュッシーの全集といえばこの演奏がもっとも有名ですし、これに至るのは自明の理と言うこともありますが、意外と図書館って、そうじゃないものを買ってしまったりするんですよねえ。あればいいでしょ、はい、みたいな。けれども小金井市立図書館はそういうのがあまりないんです。

財政規模が小さいのに、本当にこういう点は素晴らしいって思います。市民および相互利用の方、この全集は前もって言いますが借りるべきです!今すぐ小金井市立図書館へGO!

ということで、まずは第1集です。そもそも、ずっと私はドビュッシー管弦楽作品の全集を物色しており、購入の方向で一度はナクソスのものを買いかけたんです。それをやめたのが、このライブラリを棚に見つけたことでした。だって、マルティノンですよ、指揮。

当然、オケはフランスのってことになる訳ですが、まずはこの全集が優れているのは、基本的にカテゴライズとして管弦楽作品となっているものしか収録していないって点なんです。

この第1集にしても、ピアノ作品としても成立しているものはほとんどなく、草稿がピアノであったとしても、最終形態として管弦楽となっているものしか扱っていません。じつはナクソスはだいぶピアノ作品が重複していたんです。それはそれで魅力的ですが、ピアノ作品を知っていないと、面白さは半減してしまいます。ああ、いい演奏だねで終わってしまいます。

でもこの全集は、ドビュッシーが純然たる管弦楽作品として書いた作品を、マルティノンという稀代の指揮者の解釈によって、十二分に味わうことができます。だからこそ名演と言われてきたのだと、私は思います。

この第1集には、有名な作品としては「牧神の午後の前奏曲」が収録されており、これはピアノ作品としても成立している作品なので、とても有名な作品だと思うんですが、この第1集ではその「牧神」がかすむくらい、ドビュッシー管弦楽作品は素晴らしいものだということが分かる内容になっています。

その典型が、「牧神」の前に収録されている2つ、「夜想曲」と「交響詩『海』―3つの交響的素描」です。ドビュッシーオーケストレーションの素晴らしさとダイナミックさに、思わずうなります。

夜想曲 (ドビュッシー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E6%83%B3%E6%9B%B2_(%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC)

海 (ドビュッシー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7_(%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC)

どうしても、ドビュッシーと言えば、ピアノの「ベルガマスク組曲」のイメージが強くて、管弦楽も多く作曲しているということが忘れがちになるのですが、どうしてどうして、クライマックスも素晴らしい作品が少なくともこの第1集にはずらりと並んでいます。

その上で、以前より私が主張している「ドビュッシー印象派ではなく象徴主義である」という側面が、より強く出ている作品が多いと言えるでしょう。どうしても和声的にはぼやけるものもあるので、例えばモネの蓮の花のような印象を受けると思うのですが、じっさいにマルティノンとフランス国立管の演奏を聴きますと、実にシャープであることに、恐らく多くの方が驚かれるのではないかって思います。

この全集はかなり人口に膾炙した名演だけあって、録音は古いものです。とは言え、1970年代初頭ですので、ステレオ録音はすでに主流となって、レコーディングエンジニアの腕も上がっている時代です。色付けも少しやらない方向に舵を切りつつあるという過渡期の録音ですから、いじっているなと思われる部分と、ナチュラルな部分とが交錯する録音なのですが、それにしても自然体な解釈はさすがマルティノンだなあって思います。

それよりも、祖国フランスの作曲家の作品だけあって、どうしてもオケががんばるんですよ、この演奏。でもそれが強迫的ではなく魂から湧き上るものを抑えきれなくてという感じなのが、また素晴らしい!ゆえに、ドビュッシーどいう作曲家が管弦楽で目指したものが、実は明確ですし、マルティノンとオケとの間でも、明確になっており、共有されているように思います。それが、ドビュッシー印象派ではなく象徴主義である、と言う事です。

でなければ、わたしは前半の3曲を第1集に収録している意味がないと思っています。単に客寄せパンダとして「牧神」を使っているのであれば、第1集の第1曲目にして、あとは適当でもいいんですから。でも、わたしはこの編集に、ドビュッシーという作曲家をとらえ直してほしいと言う、フランス人芸術家たちの意思を感じるのです。

はっきりとしている和声と旋律線。けれども後期ロマン派の和声とはどこか違う・・・・・・そこにドビュッシーは何を込めたのか、なのです。それは、音楽以外の芸術をクラシック音楽で表現するための幅を広げようという、言わば「新しい音楽創造運動」とも言うべきものです。

その最たるものが、第1曲の「夜想曲」であり、その上で〆の最終曲が「リア王」であると言う事なのです。その上で、あえて上記ウィキにはわたしは反旗を翻します。ドビュッシーは決して印象派の作曲家ではない、と。それはこのマルティノンのを聴けば十分判る話だと思います。ラヴェルの和声と比べれば、ドビュッシーのどこが印象派なのかと、わたしは思います。

その異議申し立てを、今から40年も前に、マルティノンがやっている・・・・・となると、日本の音楽評論家っていったいなんだったのでしょう?共和主義が生まれたフランスのこのような柔軟でしかししっかりとした論考に目を向けず、ギリシャソクラテスだけに目が向いているという思想はいったい何を生み出すのでしょう?この第1集から、もう溢れんばかりのメッセージが、作曲者と演奏者達から、私たちには届いていると言うのに、とても残念なことだと思います。




聴いている音源
クロード・ドビュッシー作曲
夜想曲
交響詩「海」―3つの交響的素描
牧神の午後への前奏曲
民謡と主題とした「スコットランド風行進曲」
英雄的子守歌
劇付随音楽「リア王
アラン・マリオン(フルート)
ジャン・マルティノン指揮
フランス国立放送局管弦楽団及び合唱団(合唱指揮:マルセル・クロー)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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