かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

東京の図書館から〜小金井市立図書館〜:ドビュッシー 管弦楽作品全集2

東京の図書館から、小金井市立図書館のライブラリを御紹介しています。今回はドビュッシー管弦楽作品全集の第2集です。

この第2集には、正確には管弦楽作品にはカテゴライズされない作品も含まれています。それが第1曲目「遊戯」です。そもそもは、舞踏音楽、つまりはバレエ音楽なのですが、現在では単独で演奏されることも多いため、含まれたと言っていいでしょう。

遊戯 (ドビュッシー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E6%88%AF_(%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC)

当時人気のバレエ・リュスのために作曲された作品ですが、ハルサイの影に隠れたというか、ハルサイがそれ以上先を行ってしまっていたから、というほうが正しいと思います。1912年と言えば、ドビュッシー晩年の作品なんです。ドビュッシーが最初は嫌がっていた内容とはいえ、さすがは熟達した作品となっています。象徴主義がさらに進化して、洗練されたものになっています。それだけに、二人の描写が音楽を聴くだけでも洒脱だなって思います。ですが、時代はさらに先を行ってしまい始めていたんですね・・・・・

そりゃあ、ハルサイの野性味あふれるのとは全く異なりますし、ハルサイのほうが刺激的でかつ野性的。そのバランスは絶妙だと言えます。でもそれは、ある意味ドビュッシーが空けた扉を、さらに全開にした結果だとも言えるのです。バレエ・リュスの抜きんでた芸術を見分ける「鼻」をよく象徴していると思います。

その次の「映像」からが、管弦楽のための作品とカテゴライズされるものです。「映像」自体は、このブログでもピアノのものをご紹介しているかと思いますが、そもそも「映像」自体、管弦楽作品も最初から想定されて作曲されていたものなのです。

映像 (ドビュッシー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A0%E5%83%8F_(%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC)

ともすれば、ピアノ作品のほうが圧倒的に有名だと言ってもいいくらいですが、むしろこの管弦楽のためのものは、そのオーケストレーションの壮大さはピアノ以上だと言っていいでしょう。緻密かつ壮大なオーケストレーションは、3つの部分とさらに3つの楽章それぞれをテーマに、まさに象徴主義だと言える世界を作り出しています。

ですから、この所謂映像第3集こそ、ドビュッシー印象派ではなく象徴主義と位置付けていいだけの内容を持っていると言えますが、さらに追い打ちをかけるのが、最後に収録されている「春」です。

春 (ドビュッシー)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A5_(%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC)

ただ、今伝わっているのは他者によるオーケストレーションであるというが残念な点ですが、そもそもは管弦楽作品として作曲され、残されたピアノと合唱も管弦楽の一部として認識されているからこそ、他者のオーケストレーションでも象徴主義的な色が濃く出ていると言えるのだと思います。その意味では、初演の評価がどうであれ、ドビュッシーが切り開いた「象徴的に音楽で表現するための和声改革」をよく表している作品だと思います。

それぞれの作品を表現するのに、特にこの演奏ではオーケストラがまさに艶のある演奏で、思わず息をのみます。マルティノンとフランス国立放送管のこの演奏は名演と言われますが、とにかく豊潤で色があるかと思うくらい。私はメシアンを聴いているんじゃないんだけどと思うくらいに、聴いていてどこかに色があるんです。それが本当に美しく、もう何度も聴いていても素晴らしいの一言です。

フランスものを得意とするマルティノン。特にその色彩性はどの作曲者の作品を表現するにしても素晴らしいのですが、それはこのドビュッシーにしても同じであるのが唸ります。それは単に絵画から作品が作られているということを踏まえているのではなく、マルティノンとオケが、ドビュッシー印象派ではなく象徴主義であるということを踏まえているからだと言えます。そうじゃないとサン=サーンスドビュッシーも素晴らしい演奏を残している理由が見当たらないですし、また演奏では音が際立っているという点も、腑に落ちないのです。その意味では、もしかすると日本の音楽評論家は、この演奏が意味するものを誤って受け取って、海外だからいいのだということでいいと考えてしまっていたのではないかと思うのです。

勿論、この演奏はとても素晴らしいものなので、私たちの先達が素晴らしいと言ってきたことが間違っていると言いたいのではありません。その「素晴らしい」という理由が、間違っていたのではないかと、演奏を何度聴いても思うのです。日本の皆さん、そうじゃないんです、という、指揮者マルティノンとオケの叫びが・・・・・




聴いている音源
クロード・ドビュッシー作曲
舞踏音楽「遊戯」
管弦楽のための「映像」
交響組曲「春」
ミシェル・サンドレ(ピアノ)
ファビアンヌ・ブーリィ(ピアノ)
ジャン・マルティノン指揮
フランス国立放送管弦楽団

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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