かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:オーケストラ・ダスビダーニャ第16回定期演奏会

今月のお買いもの、平成27年2月に購入したものをご紹介しています。今回は平成27年2月8日に聴きに行きました、オーケストラ・ダスビダーニャ第22回定期演奏会の会場である東京芸術劇場にて購入しました、オーケストラ・ダスビダーニャ第16回定期演奏会のCDの、1枚目をご紹介します。

第16回定期は、メインが交響曲第10番で、それにも惹かれてなのですが、第10番以上にこのCDを購入するに至った決定的な理由が、この1枚目に収録されている作品にあります。それは、オラトリオ「森の歌」作品81です。

森の歌
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E3%81%AE%E6%AD%8C

私が高校生の時くらいまでは、ショスタコーヴィチの作品の代表作の中に、この「森の歌」が入っていました。それは日本の一つの現象だったと言えますが、当時の私は大の共産主義嫌い。ですから、聴く気は全くありませんでした。にも関わらず、この作品に興味を持った理由は、もう一つの私の興味であり、そもそも大学で専攻した、歴史学にありました。

「森の歌」は、ペレストロイカソ連が消滅するに至って、演奏頻度は殆どなくなりました。ソ連消滅の時期に、店頭に「森の歌」のCDが並びましたが、その帯には「今後、本国では演奏されることはないだろう」とありました。私にとってはその時点から、「森の歌」は文化財扱いになったのです。奈良の仏像などと同じです。であれば、この作品を後世に残していく必要があるのではないか、と考え始めたのです。

そもそも、この作品はショスタコーヴィチが圧政の中生み出した作品です。歴史の証人であるわけです。そんな作品を消滅させていいのか・・・・・そういう忸怩たる思いが、私自身のアンチ共産主義を凌駕し始めたのです。現在では、それほどこの作品に違和感と拒絶反応を持っていませんし、むしろ、ショスタコーヴィチの悲哀を理解するうえで、重要な作品であると考えています。

さて、この作品はオラトリオですから、歌詞が付いているわけです。ネットで拾ってみたのは以下の通りなのですが・・・・・

http://www.geocities.co.jp/MusicHall-Horn/3968/page056.html

このダスビのものとは、少し異なっています。なぜなら、この歌詞はウィキのページにある通り、スターリン亡きあとに改訂されたものだからです。ところが、この演奏はダスビです。原典版に徹底的にこだわっており、つまり、元の歌詞である、スターリン礼讃のものを採用しているのです。

その二つを比べますと、様々興味深いことが分かってきます。作曲家吉松隆氏のブログを上げておきます。これが正しいと言うわけではないのですが、指摘はとても興味深いと思います。

月刊クラシック音楽探偵事務所
ショスタコーヴィチ「森の歌」を深読みする
http://yoshim.cocolog-nifty.com/office/2006/09/post_3bc0.html

この「原典版」という点も、私をしてこのCDを選んだ理由でもありました。まさしくそれは、「史料」であるからです。20世紀世界史、特にロシア史における重要史料であるわけですから。

残念ながら、ブックレットには歌詞が付いておらず、上記エントリに記載されている歌詞から推測するしかないんですが、確かにこれは、ショスタコーヴィチはやりたくないよねえと思います・・・・・

しかし、歌詞のサイトにもあるように、自然改造計画には賛同していたショスタコーヴィチの内面も私たちは掬い取る必要があると思います。音楽は特に、第2曲から第5曲までが「美しい」のです。ショスタコーヴィチにしては確かに吉松氏の指摘通り・・・・・

それはショスタコーヴィチが「あっかんべー」の作曲家であることを考えますと、そこにこそこの作品のコアなメッセージが潜んでいるとも言えます。ここまで私が取り上げてきた、交響曲や映画音楽は、不協和音を多用し、まさしく20世紀音楽という作品です。しかしこの「森の歌」は徹底的に和声作品であり、美しさが前面に押し出されている作品で、まさしく「社会主義リアリズム」というべき作品です。つまり、ショスタコーヴィチらしくない作品であるわけです。ただ、戦後国土が荒廃しているさなか、希望が見いだせる計画において、悲劇的な和声を使うことが、果たしてできるのだろうかとは思うのです。

ショスタコーヴィチは、交響曲第7番「レニングラード」でも明らかなように、愛国者です。ソ連という彼の祖国、そして故郷レニングラードを愛した人です。私もおなじ愛国者ですから、彼の気持ちには、共感できます。ですから、このショスタコーヴィチが選択した「わかりやすい、希望に満ちた和声」は、ショスタコーヴィチの内面の真実であったろうと思います。ただ、だからと言ってそれをスターリン礼讃という形ではやりたくなかった・・・・・そうとらえることが可能でしょう。

私達日本人は、今同じ状況に立っています。つまり、東日本大震災による津波によって壊滅した町々、その津波によって全電源喪失が起り、水素爆発によって建屋が崩壊し、がれきとなった福島第一原発・・・・・第二次大戦が終わり、荒廃したソ連と、状況が似ているように思います。そもそも、戦後日本でこの作品が好まれたのは、単にこの国が左寄りだったということだけでは説明が付きません。空襲によって焼け野原になり、おなじように国土が荒廃していたわが国の情況が、似通っていたことに原因を求められるように思います。

この演奏は東日本大震災前の2009年ですが、この作品が持っている傷と希望という側面を、素晴らしいアンサンブルで表現していると思います。特にすばらしいのは、合唱団です。その中でも女声。軽く力強いその発声は、この作品の美しさと、それがなぜ美しいのか、それはどこに原因を求めることが出来るのかという、哲学的な点を、十二分に表現しきっていると言っていいと思います。

今、この作品の演奏例が少なく、勿論CDも少ない中で、ダスビのこの演奏は一つの金字塔を打ち立てていると思います。高い演奏レヴェル、深い歴史認識。鋭い譜読み・・・・・どれをとっても世界的にもトップレヴェルのこの演奏を聴ける喜びを、日本人として感じています。




聴いているCD
ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ作曲
テノール、バス、児童合唱、混声合唱管弦楽のためのオラトリオ「森の歌」作品81
小貫岩夫(テノール
岸本力(バス)
すみだ少年少女合唱団
コール・ダスビダーニャ
長田雅人指揮
オーケストラ・ダスビダーニャ

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




このブログは「にほんブログ村」に参加しています。

にほんブログ村 クラシックブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ クラシックCD鑑賞へ
にほんブログ村
にほんブログ村 クラシックブログ 合唱・コーラスへ
にほんブログ村