かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

コンサート雑感:オーケストラ・ダスビダーニャ第29回定期演奏会を聴いて

コンサート雑感、今年第1回目のレビューは令和5(2023)年2月26日に聴きに行きました、オーケストラ・ダスビダーニャの第29回定期演奏会です。

オーケストラ・ダスビダーニャに関しましては、以前よりこのブログでも取り上げてきておりますが、なんと4年ぶりということになりました。新型コロナウィルス蔓延による緊急事態宣言等で2020年と2021年がコンサートができず、2022年は行われたのですが私が今度は難病に罹患するということで体が不自由になり行けずということで、4年もの間が空いてしまったのでした。

2年待たねばならなかったというのは本当に苦労の連続だったと思います。オーケストラ・ダスビダーニャ(以降「ダスビ」と略称)は常設オケというわけではないので消滅してもおかしくない団体であるわけですが、しかしショスタコーヴィチの作品が演奏できるアマチュアオーケストラはさほど多くはありません。しかもショスタコーヴィチ「漬け」になれるオケとなりますとほぼダスビのみ、ということになろうかと思います。

ウィキなどでは「ショスタコーヴィチ専門のアマチュアオーケストラ」と紹介されることが多いのですが、今回プログラム紙上にてダスビの方から公式に「ショスタコーヴィチ専門ではない、ショスタコーヴィチが好きな団員が集まる団体である」という指摘がありましたので、私もダスビはショスタコーヴィチ「狂い」の団員達が集まるオーケストラ、と紹介したいと思います。確かにそれは確かで、実際に私が初めて聴きに行った第19回では1プロで伊福部昭、アンコールで外山雄三を取り上げています。

www.dasubi.org

ショスタコーヴィチの作品を愛し、そしてショスタコーヴィチの作品に「狂う」ような人たちだからこそ、2年を待つことができた、と言えるでしょう。団員の皆様にとって、そしてそれは私のようなダスビファンにとって、ダスビの定期演奏会とはショスタコーヴィチの作品を愛し、作品の意味を見出す場だと思います。だからこそ待ち望み続けることができた、と言えるでしょう。

さて、そんな第29回のプログラムは以下の通りです。

1.主題と変奏 作品3
2.ピアノ協奏曲第2番
3.アダージョ~未完の1934年交響曲の断章(第4番初稿)~
4.交響曲第4番

これだけダスビが詰め込むときって、たいていコンサートの所要時間って長いんです・・・・・今回も休憩時間を含めほぼ2時間30分かかっています。休憩時間を削ればいいじゃないかという意見もあるかもしれませんが、これだけ詰め込みますとそれなりに休憩時間は取らないとへばってしまいます・・・・・

このうち、私が知らなかったのが「主題と変奏」と「断章」です。残り二つは私自身が音源を持っていますので(そのうち第4番はバルシャイ指揮WDRとダスビ第20回定期演奏会)大体演奏時間がわかるんですが、ほか2つがわからなかったので、実はこの日コンサートの後に予定があったものですから予定が立てづらく、もしかすると2時間30分くらいかかるかもということで調整したのですが、それが当たったにもかかわらず再度時間調整が必要になったという・・・・・

しかし実際にコンサートで聴いてみますと、この4つを集めたのにもダスビ団員達の気持ちが詰まっているような気がしました。「主題と変奏」は作品番号を見ても明らかなようにショスタコーヴィチ初期の作品であり、まだペトログラード音楽院(現在のサンクトペテルブルク音楽院)の学生の時に書いた作品です。1922年に作曲され、同年に死去した師ソコロフの思い出のために捧げられたものです。当時ショスタコーヴィチリムスキー=コルサコフの弟子であり娘婿、そしてロシア管弦楽法の大家であったシテーインベルクに学んでいたのですが、ロシア革命直後であり西欧のモダニズムに興味があったショスタコーヴィチにはかなり堅苦しい人だったようで、シテーインベルクの保守的な管弦楽法をどん欲に取り入れつつも不満がたまっていたため、当時あまり学校には顔を出してはいなかったけれどもショスタコーヴィチをのびのびと始動する同じリムスキー=コルサコフの弟子であったソコロフについたのでした。授業の無いときにソコロフの家まで押しかけ教えを乞うていたというエピソードが残っています。

つまりは、ショスタコーヴィチ若書きであると同時に、自分をいっぱしの芸術家へと育ててくれた御礼が作品には込められている、と言えるでしょう。全体的には調性音楽なのですが、ショスタコーヴィチは作品に調性名を明記しておらず単に「作品3」とだけにしています。一見しますとあれ?調性音楽じゃないの?って思ってしまいますが確かにそうなんですが一方で変奏の仕方がはじめ返送しているとは気づかないような形になっているなどを鑑みますと、なるほど学生時代のショスタコーヴィチのいろんな感情がそこには入っているのだろうなあと感じます。しかも作品3ですが堂々とした管弦楽作品です。それだけの「管弦楽作品」を書くことができたのはソコロフのおかげ、という気持ちのほうが強かった事でしょう。

続くピアノ協奏曲第2番は、1957年に息子マクシムのために作曲された作品です。ウィキにはショスタコーヴィチのエピソードなどは書かれていませんがそれはこの作品の複雑な経緯をあえて省いていると考えていいでしょう。

ja.wikipedia.org

ピアノ協奏曲第2番交響曲第11番の作曲を途中中断して作曲された作品で、それは当時音楽院にてピアノを学んでいたマクシムの誕生日間に合わせるという事情があったためと考えられます。第11番の作曲を中断せざるを得なくなったことからショスタコーヴィチピアノ協奏曲第2番に対してあまりいい想いを持っていなかったようなエピソードが伝わっていますが、しかしマクシムほど両親に対して愛情を感じていた子供もショスタコーヴィチ家ではいなかったとも言います。その点を考えますとかなりショスタコーヴィチのいろんな内面がないまぜになっており、たまたまそのエピソードが語られた時はあまりいい想いを持っていなかっただけ、と言えるでしょう。実際に初演の成功以降、ショスタコーヴィチ自身も演奏をするようになったと伝わっています(ダスビのプログラムより)。

とても快活な曲で明るい作品でもあります。だからこそショスタコーヴィチの否定的な言葉を信じてしまう人もいるのかもしれませんがしかし愛する息子の晴れの作品です。そりゃあ映える作品をと頑張る父の姿が浮かんでこないでしょうか?私もできるだけ自分でいろんなことをしたいのですが難病になってから私も父もいろいろと心配し頑張ってくれています。もう80超えた老人なのですが・・・・・やはりいくつになっても息子は息子なんでしょうね。そんな父の姿とショスタコーヴィチがオーヴァーラップしました。

休憩後は交響曲第4番の前にその初稿となった「断章」がまず演奏されました。本来は交響曲第4番第1楽章になるはずだった作品で、とても重々しい主題で始まるこの作品は6分ほど演奏したところで途切れます。その主題と実際の第4番第1楽章を比べてみると、主題は全く異なるのですがしかし構成は基本的には同一のような気もします。その意味では断章と交響曲第4番ははっきりとつながっている、と言えるでしょう。

ja.wikipedia.org

実際に聴いてみますと、第3楽章においては実によく似ています。つまり実際は第1楽章とするのをあきらめ、多少主題を代えて第3楽章にした、というのが真相なのかもしれません。時代はスターリンによる粛清が始まり、第4番が成立するころにはプラウダ批判も起こるというタイミング。ショスタコーヴィチの苦悩する姿が浮かび上がるかのようです。特に第3楽章、最後消えゆくようなフレーズは、「社会主義リアリズム」とは相いれない様式だったことでしょう(しかも3楽章制。分かる人ならショスタコーヴィチが込めたメッセージが「自由」であることは明白だったはず)。実際、第4番は初演直前に当局から糾弾され中止せざるを得なくなり、初演は25年後となってしまいました。

演奏は、ダスビらしい熱のこもったものでした。特に今回金管が見事!そしてダイナミズムもアマチュアとは思えないほど素晴らしく、また雄々しい部分すらありました。ピアノ協奏曲第2番ソリストの長尾氏はプログラム紙上で「よくされるような「音符を意味づける」とか、標題をもたないのに「特定の事象や感情と関連付ける」といったアプローチにはほとんどっ興味がありません」と書かれていますが、実際にはダスビのサウンドに圧倒されてかなり狂暴な演奏になっていたように感じました。勿論それは全く作品を壊すというっものではなくむしろ作品がマクシムに対して献呈されたという意味すらを自然と浮かび上がらせ、生命を与えているようにすら感じました。

断章と第4番もダスビらしい感情がこもったサウンドで、特にダイナミクスが絶妙!いろんな感情が一つの叫びともとれるように聴こえ、自然とショスタコーヴィチの苦悩に想いを馳せてしまいます。現在の日本社会が抱えるさまざまな問題を、恐らく感受性が強いダスビの団員の方々が、いろんな想いを以て演奏しているのだろうなあとも思ったりしました。ゆえに私にはそんな団員一人一人の思いが叫びとなり、演奏となって押し寄せるように感じたのです。

この原稿を書きながら第20回定期演奏会のCDを聴いています。実は第20回定期演奏会もメインは交響曲第4番だったのです。その第20回の演奏と引けを取らないどころか超えてきたと感じています。特に金管の吠え方、美しさは今回のほうが絶品!弦パートはコンサートマスターに引きずられて体を思いっきり動かして思いのたけをぶつけていましたし、どこを切ってもまるで血が出るかのような情熱的な演奏でした。関節リウマチでかなり痛いのにもかかわらず、私も周囲と一緒にいつまでも拍手を送りました。

ダスビは本当に期待を裏切らないなあと思います。ですが一つ裏切られたのは、CD販売がなかったこと。いろいろと議論があったと聞いていますが、ダスビの演奏はやはり思い出にとっておきたいように思います。できればチケットを買った人への特典としてDLできるようにするとかはしてほしいなあと思います。CDだと管理も大変ですし、できればハイレゾで録音して希望者だけに配布する、あるいはクラウドファンディングの返礼だとか、音源が欲しい人はチケット購入時にその分上乗せで買う、などの方法をとってもいいのでは?と思います。最もいいのはクラウドファンディングかなあという気もしますけれど・・・・・まず自分たちで持ち出しになってしまうこともなくした要因の一つのような気もしますので、自分たちの負担が如何に軽減されるのか、という観点からの方策もあっていいような気がします。

来年は「レニングラード」再演とのこと。私自身がどうなるかは本当にわからないのですが、命ある限り聴きに行きたいなあと思います。今こそ「レニングラード」は聴かれるべき作品だと個人的には思っていますので・・・・・ダスビがどう演奏するのか、今からワクワクします。東日本大震災の1年後の第19回以上の熱のこもった演奏になるや否や!期待は膨らむばかりです。

 


聴いて来た演奏会
オーケストラ・ダスビダーニャ第29回定期演奏会
ドミトリー・ドミトリエヴィチ・ショスタコーヴィチ作曲
主題と変奏 作品3
ピアノ協奏曲第2番作品102
アダージョ」未完の1934年交響曲の断章(第4番初稿)
交響曲第4番作品43
長尾洋史(ピアノ)
長田雅人指揮
オーケストラ・ダスビダーニャ

令和5(2023)年2月26日、東京豊島、東京芸術劇場コンサートホール

地震および津波、水害により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福と復興をお祈りいたします。同時に救助及び原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方、そして新型コロナウイルス蔓延の最前線にいらっしゃる医療関係者全ての方に、感謝申し上げます。