かんちゃん 音楽のある日常

yaplogから移ってきました。日々音楽を聴いて思うことを書き綴っていきます。音楽評論、想い、商品としての音源、コンサート評、などなど。

今月のお買いもの:ステンハンマル 交響曲第2番/序曲「天の高みに登らん」

今月のお買いもの、平成26年9月に購入したものをご紹介していますが、今回はディスクユニオン新宿クラシック館で購入しました、ナクソスのステンハンマル交響曲第2番と序曲「天の高みに登らん」をご紹介します。

さて、このブログではステンハンマルは2度目のご紹介です。

今月のお買いもの:ステンハンマル ピアノ協奏曲第1番ほか
http://yaplog.jp/yk6974/archive/1069

オーケストラ・ナデージダのコンサート会場で買い求めたこの一枚を聴いてから、ステンハンマルはピアノ協奏曲は元より、交響曲も聴きたいと思ってきたのです。

で、実はですね、この一枚、重複なのです・・・・・すでに、図書館で交響曲は第1番と第2番を借りてきているのです。それでもこの一枚を買った理由、それはカップリングの「天の高みに登らん」があったためでした。

ステンハンマルは、旋律が北欧的ですが、構造的には後期ロマン派の延長線上であり、所謂国民楽派に属する作曲家であると言っていいでしょう。

ヴィルヘルム・ステーンハンマル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%AB

旋律を作る際に、後期ロマン派があまりにも宗教曲から離れすぎてしまったことを、ステンハンマルは新ドイツ主義音楽を聴いて感じていたのでしょう、このアルバムに収録された交響曲第2番を作曲するに当り、ドーリア旋法を使っていますし、また、シベリウスの影響も多々見られます。

むしろ、ドーリア旋法という、一見すると古い様式を使っていることこそ、私はシベリウスの影響であると考えています。それは、そもそもステンハンマルがスウェーデンの作曲家であるという事です。

以前、私はそれこそ、スウェーデン放送合唱団のコンサート評で、こう書いています。

「実はプログラムを読んで知ったのですが、スウェーデンルター派ですから、バッハの曲を原語のまま演奏するということがよくあるそうで、そう考えますとスヴェン=デヴィッド・サンドストロームは宗教音楽を得意としているとのことですから、当然バッハの曲を参考にして音楽を書いてもおかしくないわけです。なるほど、それで一緒に取上げるのかと納得です。単に自国の作曲家だから取上げるのではなく、このバッハを取上げることでスウェーデンの文化そのものを紹介しているというわけなのです。」

音楽雑記帳:スウェーデン放送合唱団コンサートを聴いての雑感
http://yaplog.jp/yk6974/archive/372

スウェーデンと言う国を、私達は多分半分も判っていないでしょう。こういった点を踏まえますと、なぜステンハンマルがドーリア旋法を使ったかと言えば、ルター派本場では教会旋法すら忘れ去られているという状況を鑑み、シベリウス民族主義に影響を受け、自国の宗教を反映させたと考えるのが自然でしょう。スウェーデンルター派の国なのですから。

え?プロテスタントではそういった旋法は嫌われるのでは?それはカトリックでしょ?という人もいるかと思います。それでは、バッハのロ短調ミサを取り上げた時に触れた部分をご紹介しましょう。

「ミサ曲 ロ短調
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B5%E6%9B%B2_%E3%83%AD%E7%9F%AD%E8%AA%BF

また成立も1749年ですが、早くは1724年と言いますから、なんとトーマス・カントルに就任した翌年から作曲が始まったということになります。その理由を、ウィキが簡潔に語ってくれています。

『当時のルター派の教会では、頻繁にラテン語のミサを行っており、マルティン・ルター自身が、ルーテル教会版の「キリエ」、「グロリア・イン・エクセルシス」、「ニカイア信条」、「サンクトゥス」の使用を認めていた。また、バッハは典礼で使用するための小ミサ曲を4曲作曲している。そして、ロ短調ミサ曲の「サンクトゥス」では、小さいながらも重要な改変を典礼文に行っている。すなわち、カトリック教会の典礼文では「天と地はあなたの光栄にあまねく満ち渡る」(pleni sunt caeli et terra gloria tua) とするところを、ルーテル教会版の「天と地は彼の光栄にあまねく満ち渡る」(pleni sunt caeli et terra gloria ejus) としているのである。』

このことから言って、この曲は異端であるが、奇異ではないという結論に今は達しています。つまり、ルター派ではカンタータが「主に」演奏され、そしてごくたまにですが、ミサ曲がプロテスタント風に改変されて演奏されていた、ということです。」

マイ・コレクション:ソリストがいないロ短調ミサ
http://yaplog.jp/yk6974/archive/724

ですので、教会旋法プロテスタントの国で演奏されていてもまったく不自然ではありませんし、むしろステンハンマルとしては、それこそ祖国の音楽としてとらえていたでしょう。教会旋法を忘れたヨーロッパ各国と異なり、わが祖国には未だ教会旋法が息づいている・・・・・

それがステンハンマルの誇りだったのではないでしょうか。第1楽章で出てきた教会旋法は、第4楽章で再び再現され、循環形式的でもありますし、またモーツァルトの戴冠ミサなどでもそうであるように、多くのミサ曲でキリエの旋律がアニュス・デイで繰り返されることがあり、それを踏まえているとも言えます。

勿論、ウィキの説明にある通り、透明な旋律という特色もありますが、私はそれだけではないだろうと思っています。では、なぜ教会旋法なのかというところが、あいまいになってしまうと思うからです。私は教会旋法が使われていることで、結果重厚な交響曲でありながら、透明感が音楽に貫かれていると考えます。それがステンハンマルの「誇り」の部分であり、だからこそ透明感という点に収れんしていくと思うのです。

交響曲第2番 (ステーンハンマル)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC2%E7%95%AA_(%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%AB)

さて、カップリングの「天の高みに登らん」ですが、これ、英語では「Exelsior!」なのです。しかも、エクスクラメーションマーク付きで。

この英語の意味こそ、高みに登るとか、向上するという意味を持ちますが、訳が宗教的になっていることからすれば、この作品もステンハンマルの民族意識を強く印象づける作品であると言えましょう。確かに、ステンハンマルがこの作品を作曲した1896年という時代は、教会旋律に範を取ると言ったことは表に出ず、マーラー交響曲のように「神なき時代の宗教」という評論もあるくらいの、教会とは無縁の作品が生み出されていた時代です。ただ、その中でも私はおそらく、シベリウスと同じくらいにステンハンマルに影響を与えた作曲家だと考えているのが、ブルックナーです。

ブルックナーの美意識を嫌った側面はあるでしょう。しかし、ブルックナー交響曲でオルガンを表現するために導入したブルックナー終止などは、確実にステンハンマルに影響を与えたことでしょう。だからと言って交響曲や、この「天の高みに登らん」にブルックナー終始が見えるというわけではないのです。そういう美意識から、ステンハンマルは距離を置いたのですから。むしろ直球で、旋律そのものを使って管弦楽作品を書こう、あるいはそれをモティーフにしよう、と考えたのがステンハンマルであった、ということです。

むしろ、この「天の高みに登らん」のほうがより後期ロマン派の香りがします。とても英雄的な作品ですし。それでも、この作品が無かったら、おそらく交響曲第2番に辿りつくことはなかったことでしょう。この二つの作品は、ステンハンマルにとっての「宗教曲」であると、私は思います。

演奏しているロイヤル・スコティッシュ管弦楽団は、ナクソスはもとより、シャンドスでもお馴染みのオケですが、ステディでかつダイナミックな演奏を聴かせてくれます。ステンハンマルのこれら二つの作品の構造を、しっかりと聴き手に提示しつつ、美しさとともに深い感動を与えてくれます。ステンハンマルの言いたいことが、切々と伝わってくるのです。

知的で、一見すると感情のドグマなどどこへ行ったやらという作品において、どこに力点を起き、クライマックスをどう演奏すればいいのかをきちんと踏まえている点が素晴らしいです。とても知的なのに、どこかじーんと感動してしまう・・・・・ともすれば、音楽は一つの「酔い」なのですが、二日酔いには決してならない、境界線が引けている素晴らしい演奏であると思います。

つまり、「情熱と冷静の間」が、抜群なのです。指揮者ズンドクヴィストがその点しっかりしているのでしょう。あまり日本で知られていない指揮者ですが、知的な作品をどう表現するかにたけているように思います。

人間は感情の動物と言われますが、一方で人間にあって動物にないものは、理性です。その二つがしっかりと存在する作品を、そのバランスを絶妙にして演奏させるその手腕は、素晴らしいですね。こういった作品に巡り合うことが、私はクラシック音楽を聴く一つの喜びではないかと思っています。




聴いているCD
ヴィルヘルム・ステンハンマル作曲
交響曲第2番作品34
序曲「天の高みに登らん」作品13
ペッター・ズンドクヴィスト指揮
ロイヤル・スコティッシュ管弦楽団
(Naxos 8.553888)

地震および津波により被害にあわれた方へお見舞い申し上げますとともに、亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。同時に原発の被害を食い止めようと必死になられているすべての方に、感謝申し上げます。




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